第二章 雨と晴れ、農家は時間がない
仕事自体には多少慣れてきたが、農業は人づきあいであることを何度も痛感させられる毎日だ。これを避けるためにいろいろと準備してきたのだけど、そうそう甘くないことも知っている。でも、絶望はしていない。冬まで耐えれば、念願の情報システム担当の仕事が待っているからだ(実際にはほとんど変わらないのではないかと、ちょっぴり恐れてもいる)。
今日は自動運転の田植え機がローテーションで回ってきた日だった。つまり、源川農園が一日好きに使えるということだ。田んぼでの作業はすべて機械に任せ、僕らは梱包作業や卸売など、農作業以外の雑務に時間を充てることができる。
昨晩にいきなり言い渡されて、僕は朝一から野菜の卸売所に来ていた。店舗は開店前だけれど、関係者が意外に多くて営業しているのかと勘違いしそうになる。スマート農業の効率化に感心する一方、そのせいで苦手な外での仕事が増えるのはちょっと複雑でもある。
指定の棚のところまで移動する最中、顔見知りで名前を憶えていない人とすれ違う。あっ。この前の飲み会で居た気がする……。けど、すれ違った後で気づいても遅い。また機会があったら挨拶しようと思ったけど、どこかへ行ってしまったようだった。ちょっとした後味の悪さを覚えつつ、台車に積んだ段ボールから、棚に値札の張られた野菜の袋を置いていく。どういう置き方がいいのかはわからないけど、隣の棚を見ながら見よう見まねでやった。
バンで農園に帰る途中、くだんの自動運転農機を見つけた。場所からして自分たちの田んぼだろう。信号待ちのときに横目で見ていても、あぜにぶつかったり、乗り上げたりするようなぎこちなさはなく、美しい軌道で着々と仕事をこなしている。
ふと前を振り返ったら青になってしまっていて焦ったけど、後続車は来ていなかった。視界には一直線に延びた、国道、田んぼ、そしてひつじ雲がぽつんと一つだけ浮かんだ空しかない。
「君に話しかけていた原さん、気難しそうだと言ってたぞ」
「えっ、そんな印象でしたか……」
「ああ。少し、気にしたほうがいいんじゃないか」
権藤さんは車から降りた僕を見るなり、そう指摘した。もしかしてさっきすれ違った方だろうか? それにしては情報が伝わるのが一瞬すぎる……こういうのをきっかけに、疑心暗鬼というのが始まってしまうのだろうか。
権藤さんは今みたいにもったいぶった話し方で、僕にありとあらゆる手で処世術を吹き込もうとする。松浦さんや坂口さんに対しても同様だ。良かれと思ってなんだろうけど……。
その翌週、六月中旬から梅雨に入ると、ハウスに通うことが増えた。
梅雨で稲作関係の作業があまりできないことが理由のひとつ。晴れた日に草刈りをするくらいしか仕事がない。肝心だと聞かされた水量調節は、何度か座学の講習を受け、バルブをひねる権藤さんの背中を見ただけで終わった。研修者にやらせるには少し責任が大きすぎる作業なのだろう。
そしてほかでもない、二つめの理由。
それはわずか二ヵ月足らずでの、松浦さんの――蒸発だった。脱落という言葉はふさわしくないから、蒸発と言いたい。土日にふと気づいたら、寮からいなくなっていたのだ。最初は熊にでも襲われたのかと心配した。
体力的についていけなかったのだろうか? でも息切れをしていたり、ふらふらしていたりする所なんて見たことない。男臭い農家集団の中でもやっていける、タフなイメージだ。それに、稲作よりもビニールハウスの作業のほうが運動量は少ないような気がする。勝手な憶測だけが、どんどん膨れ上がっていく。
そう言えば、結局あのお店──野菜を卸している、あのイタリアンのお店にも行けずじまいだったな。
そんなことを考えながら、ビニール傘よりもずっとぶ厚いハウスの膜を雨が叩くのを聴いていた。それは、なんとなく気落ちした空気をより一層演出していた。イチゴの収穫はとっくに終わっていたので赤い実はどこにもなく、物寂しい。
「体調についてはいた仕方ないよ。向き不向きがあるからね……」
事務室での昼食のとき、源川さんが詳細を話してくれた。
「大丈夫そうに見えたんですが、無理してたんでしょうか」
六月は農繁期と農繁期の間で、今は比較的仕事量が少ない。過労で倒れるタイミングではない気がする。
「実はね」
源川さんは、彼女が抜けた理由が体力によるものではなく、持病によるものだということを僕に説明してくれた。継続して働くことができないとなると、春夏秋冬を通して学ぶ研修も中途半端なものになってしまう。けれど源川さんは、彼女がその気なら回復まで待つと言っていた。もしかしたら、ということで事前に話も通してあったらしい。
「俺はあの子にガッツを感じるよ。戻ってくると思う」
僕の斜め向かい、昼食を食べ終えた坂口さんが口を開いた。絶対に戻ってくると信じて疑わない。彼女が僕のように自堕落だったらどうかはわからないけれど、僕もそう思う。そして、やめるか続けるかどちらが正しいだろうかは、本人が判断するしかない。
僕だったらどうするだろうか?
梅雨が明けてからの農作業は、その多くが手作業だった。スマート農機が花形の作業を担っているのに対して、僕らは地道な苦労というか、さらに泥臭い作業を強いられていた……ように思えた。
「うわナニこれ、BB弾のカタマリか何かか?」
この日は皆総出でヘラを持ち、用水路に集まっていた。あるものの駆除をするためだ。
「全然ジャンボじゃないじゃん、ハマグリのほうが何倍もでかいぞコレ」
坂口さんが興奮しているものの正体は、ジャンボタニシという貝だ。坂口さんの言うとおり、ジャンボというほどではない。ふつうの巻貝。でも、どぎついピンク色の卵塊をそこら中に残していくうえに稲も食害してしまうので、農家的には忌むべき敵なのだ。
「これを除去するスマート農機があったほうがよくないですか?」
「こんな細かい作業を機械にやらせて、水に落ちて壊れたらどうするんだ」
ごもっとも……。
用水路にあるものはそのまま落として流し、あぜ道にくっついているものはバケツに集めてまとめて捨てる。その一方で、農薬散布のドローンは優雅に空を舞っているし、草刈り機は悠々自適に仕事をしているように見える――いやいや、彼らは自分の仕事をしているだけなんだけども。
機械の融通がきかない、あと一歩手がとどかないところを人間がやる。そういうことなのだろう。スマート農業の先にある植物工場という未来は、今のところ夢のまた夢のようだ。
八月は、地域を大事にする源川さんらしくお盆に帰ることができた。シフトの調整ありで六日程度、好きなタイミングで休暇をとることができる。そういうわけで今僕は、実家にいる。
肉体労働からしばらく解放される期間で、なにもしないでも食べ物が出てくることに感謝を覚える。「実家のような安心感」っていうのは、田舎のような、っていう意味じゃなくて、まさに実家だけに当てはまる言葉だ。
何をしても無反応な、実家のトラ猫をつついたりしながらごろごろしていると、猫はどっちだろうと思えてくる。僕よりずっと高度なことを考えているのかも……。
「ノブ」
「どうしたの?」
普段はあまり口を開かない母からの呼びかけだったので、びっくりした。
「変わったわね」「え、何が?」「たるんたるんだったのが引き締まった気がする」
居間のはるか奥から騒々しい笑い声がする。父さんはいつも直接話しかけてこないで、遠くからああいうふうにオーバーリアクションをとることが多い。僕の気が多い、飽きやすい性格は明らかに父さんの遺伝だ。定職を持たず数年おきに転職し、今は書店員に落ち着いている(確かに書店員なら、毎日いろんな刺激がありそうだ)。
「だからこうして伸びてるんだよ」
猫と動きがシンクロした。
「だからってどういうこと?」「それくらい運動したからってこと」「ふうん、細長くなったってことね」
母は板金職人ということもあり生真面目だ。
猫はつきまとわれて鬱陶しいとでも感じたのだろうか、どさっと物音をたててどこかへ移動してしまった。
結構な時間ごろごろしていたので、なにかするかと立ち上がってみた。そして、動物のスケッチが表紙に書かれた本を手に取った。パソコン書籍ではおなじみのシリーズだ。僕が手に取ったのは二百ページくらいのごく薄い、小型コンピュータの本だ。内容はかなりやさしいほうだと思う。
どちらかと言えば「お堅い」仕事をやりつづけてきた僕は、小型コンピュータやゲーム作りなど、ちまちました開発をやりたかった。小さな裁量の範囲で、好き勝手に創意工夫する――農業もそういうものじゃないかと、僕はひそかな仮説を持っていたりする。
自分の意思で、自分の裁量でなにかを学ぶのは、僕にとってはぜいたくなことだ。前職では、というかエンジニアは、勤務時間外に学ぶ文化が当たり前だった。けれど、仕事につながる学習を続けていくというのは、言葉でいうのは簡単だけど実際きつい。分野は近いのに、苦しいから不思議だ。ゲームをプレイするか、デバッグするかの違いみたいなものなのだろうか……。
僕は飽きっぽくて、なかなか技術書を一冊読み通せなかった。平日の夜に勉強なんてすれば、次の日は集中力が落ちてしまうと思い込んでいた。そのせいでほかの人より「成長」のスピードは開いていってしまった。
今から考えたら、単純に環境が悪いだけだったのかもしれない。世の中で成功している企業はもっと柔軟なやり方をしているし、定時あがりができれば自習もできるかも――もっとも、そういうところには易々と仲間入りできないのも事実。何回も転職の面接で落ちたから、客観的にも明らかだ。自分はまだやれる……そんな執念の炎を燃やしていたのも、遠い昔の話だ。
氷で冷やしたカフェラテをリビングであおりながら、僕は納得する。もともと僕は、横着な人間に生まれついてる。だから、こういう状況に仕上がっているのだ。
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