4 「ナボコフのお墓の土持って帰らないか?」

 中崎姫奈(ひな)の母親・中崎カオルは、世界的に有名な文学研究者だ。


 専門はアメリカ文学で、姫奈が10歳の頃から海外の大学で教鞭をとっている。そこから今に至るまで帰国は年に1回あるかないかで、この家にある多くの書籍は、彼女の所有物だ。


 世界的に有名な文学研究者らしく(?)、カオルはかなりの変人である。


 例えば、葵太は幼馴染であるにも関わらず、姫奈の父親に会ったことがなかった。というか、姫奈自身も誰が父親か知らないらしい。


 カオルが姫奈を身ごもったのは大学院生の頃で、そこから推測すると同業者や教授などの可能性が考えられるが、葵太と姫奈がそれとなく聞いても「そんなこと知ってどうなるんだ?」と返していた。優しく笑いながら、しかも頭を撫でながらだったので、葵太と姫奈は聞くに聞けなくなった。


 見た目は姫奈に負けず劣らず美人で、スタイル抜群で格好いいのだが、娘よりも圧倒的に変わり者。それが中崎カオルだ。


「お母さんってさ、アメリカ文学が専門でしょ」

「うん」

「その中でもとくに好きな作家がいて、ウラジーミル・ナボコフって名前なんだけど」

「聞いたことある気がするな。代表作は?」

「『ロリータ』ってやつなんだけど……知ってる?」

「ああ。読んだことはないけど。姫奈はあるの?」

「ないよ。でも読み聞かせされてたらしい、お腹にいるときから」

「ちょっと待てそれなんの胎教だ。出てくるの嫌になるだろ」

「だね。実際、難産だったらしいし、私」


 葵太の素直な反応にクスリと笑いつつ、姫奈はナボコフおよび、『ロリータ』という作品について説明を始める。


 ナボコフはロシア生まれの、世界的に著名な小説家だ。ロシアの、ではなくロシア生まれのと記したのは、彼の作品がロシア語だけでなく、英語でも出版されているから。


 誕生は1899年。ロシア帝国のサンクトペテルブルクで、貴族の家に長男として生まれた。幼少期は50人もの使用人に囲まれ、非常に裕福な環境で育ったとされているが、ロシア革命を機に西欧に亡命。父の暗殺などの事件を経たのち、アメリカに渡って1945年に帰化した。このような複雑な経緯から、ナボコフはロシア出身でありながら、ロシア文学というよりアメリカ文学、あるいは世界文学の枠組みで話されることが多い。


 そして、そんなナボコフの代表作として知られるのが『ロリータ』だ。少女性愛者ハンバート・ハンバートと、少女ドロレス・ヘイズの関係を描いた作品で、ハンバートの手記の形をとっている。


 作品名しか知らない人にはその言葉の響きから「大人びたロリ美少女が中年男性を誘惑、でも肝心の一線は超えないから法律的にもセーフ、みたいな変態にとって大変都合のよろしいラノベ風文学」的な話だと勘違いしている人も多そうだが、実際は全然違って、移住者であるハンバートが美少女ドロレスに一目惚れ、その母親と結婚するが事故死を機に関係性も変化、ドロレスを肉体的に搾取する……みたいな、普通にアウトなお話である。


 ただ、ストーリーはさておき、ナボコフが文学的にスゴかったのは事実らしく、多くの作家に影響を与えた。21世紀の今、日本人である中崎カオルがアメリカの大学で、研究対象にしているのがその証明だ。


「それで、そのナボコフが姫奈のロリ返りにどう関係してるんだ?」


 新潮文庫版『ロリータ』を広げながら、葵太は尋ねる。姫奈が手にしているのは『ナボコフ・コレクション』なる分厚い本。普段の彼女より20センチほど小さい、身長140センチの今の姿には大きく見えた。


「実は私、ナボコフのお墓に行ったことがあってさ」

「え、マジか」

「スイスのモントレーってところにあるんだけど、10歳のときに旅行に行ったんだ。2週間くらい学校行かなかったときあるでしょ?」

「あ、あったあった」


 姫奈は小学生の頃、母のカオルに無理やり色んな場所に連れて行かれていた。当時はよくわからなかったので詳しく聞くこともなかったが、なるほどそんな遠くの国に行っていたらしい。


「スイスか~。自然が綺麗なんだよな。いいなー海外旅行」

「そんないいもんじゃないよ。スイスに行ってナボコフのお墓に手を合わせて、その後すぐにロシアのサンクトペテルブルクに行ってナボコフ博物館に行ったんだから。移動ばっかりで小学生にはしんどいし、普通に学校行ってたほうが全然楽しかった」

「すまない姫奈、俺が間違ってた。海外旅行なんかクソだ俺海外なんか絶対行かない」

「で、そのナボコフのお墓なんだけど」


 葵太が謝罪しつつ言うと、姫奈が話を戻す。


「お母さん、学生の頃からずっとナボコフのファンだったけど、お墓に行ったのは初めてだったらしいの。それでいたく感動しちゃって、『姫奈、ナボコフのお墓の土持って帰らないか?』って言い出して」

「ん、ごめん今ちょっと聞き取れなかった。もう一度聞くね。カオルさんになんて言われたの?」

「『姫奈、ナボコフのお墓の土持って帰らないか?』って」

「わ、聞き間違えと思ったら合ってたー」

「『高校球児だって甲子園に行ったら土持って帰るだろ? お母さんも文学の世界ではまだまだ高校球児みたいなもんだから、ナボコフ大先生にあやかりたいんだ』とも言ってた」

「酷いな、カオルさん。高校球児に失礼だぞ」

「でも昼間だとさすがに目立つから夜に忍び込んで盗んで来いって言われて、行くことにしたの。お母さんって一度決めたら絶対に曲げないし、私も少しでも旅が短くなればいいなって思ってさ」

「ふむ」

「で、スコップを持って忍び込んだ。それで、懐中電灯片手にナボコフのお墓の土をすくったら、いきなりパーって眩しい光に照らされたの」

「もしかして、夜回り中のポリスに見られたとか?」

「それだったら良かったんだけど……そこにいたのは、なんとナボコフの幽霊だったの」

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