第10話 祈祷の谷
霧深い谷の奥に、古びた聖堂があった。
石造りの尖塔は苔に覆われ、鐘は長らく鳴らされていない。
その聖堂の前に、ひとりの女が立っていた。
腕には幼子を抱いている。
女は、遠くの村から逃れてきた。
理由は語られなかったが、村の者は噂した。
「夫と争ったのだろう」「子を奪ってきたのだ」
だが、女の顔には憎しみも恐れもなく、ただ静かな決意があった。
夫は、子に厳しかった。
言葉は鋭く、手は冷たかった。
だが、その厳しさの奥には、深い愛情があった。
夜ごと、子の寝顔に手を伸ばし、祈るように額に触れていた。
女は、その愛情を知っていた。
それでも、子を連れて出た。
夫の愛は、子を縛る。
子の未来を、父の影が覆ってしまう。
それが、女には耐えられなかった。
聖堂の奥には、神像が祀られていた。
翼を広げた石像は、天を仰ぎ、両の掌を差し出している。
女は、子を抱いたまま、像の前に跪いた。
「この子と、私が、あの人と関わらずに生きていけますように。
多くは望みません。ただ、静かに、穏やかに、生きていければ――」
祈りは、風に溶けた。
聖堂の中に、光は差さず、ただ沈黙が満ちていた。
やがて、神像の目が、わずかに開いた。
その瞳は、石のように冷たく、深い悲しみを湛えていた。
「母よ――」
声は、空気を震わせた。
女は、子を抱きしめた。
「お前は、子を守りたいと願った。
だが、親から子を引き離すこと以上に、残酷なことはない。
父の愛は、厳しさの中にあった。
それを拒み、子を奪ったお前に、子を授けたのは間違いだった」
女は、言葉を失った。
神像の声は、さらに深く響いた。
「子を返せ。お前は一人で生きるがよい」
その瞬間、女の腕から、子の温もりが消えた。
抱いていたはずの重みが、空気に溶けるように消えた。
女は叫ばなかった。
ただ、腕を見つめ、静かに涙を流した。
その頃、遠くの村では、男が家に独り座していた。
子がいなくなってから、男は言葉を失い、食も忘れた。
部屋には、子の玩具が散らばり、壁には成長の印が刻まれていた。
夜ごと、男は夢を見た。
子が笑い、走り、父の手を握る夢だった。
目覚めるたびに、胸が裂けるように痛んだ。
だが、ある夜、夢に子は現れなかった。
翌朝、男は不思議な静けさの中で目を覚ました。
胸の痛みは消えていた。
部屋を見渡しても、玩具はなかった。
壁の印も、消えていた。
男は、子の名を思い出そうとした。
だが、思い出せなかった。
子がいたことも、忘れていた。
ただ、胸の奥に、何かが欠けたような感覚だけが残った。
男は、静かに立ち上がり、窓を開けた。
風が吹き抜け、庭の木々が揺れた。
その風の中に、微かな声が混じっていた。
「父よ――」
男は、耳を澄ませた。
だが、声はすぐに消えた。
聖堂では、女が神像の前に座していた。
子の名を呼び続けていたが、返事はなかった。
村の者は、女が子を連れていたことを誰も覚えていなかった。
「最初から、ひとりだったのではないか」
そう言われたとき、女は微笑んだ。
「いいえ。確かに、あの子はいました。
私の腕の中に、心の中に、確かに――」
女は、聖堂を後にした。
霧の谷を越え、どこへともなく歩き出した。
その背には、子の名を刻んだ小さな布を結びつけていた。
神像は、再び目を閉じた。
聖堂には、沈黙が戻った。
だが、風が吹くたびに、微かな声が響いた。
それは、母の祈りでも、父の夢でもない。
ただ、子の名を呼ぶ、誰でもない者の声だった。
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