豚に奏でる物語

あいだしのぶ

プロローグ

プロローグ

 冒険者よ未来を拓け。

 およそ二百年前に書かれた『始まりの冒険記』の序文である。

 小さな村の小さな雑貨屋を営んでいる初老の男ライガード・カリーは屋根を叩く雨音に心地よさを感じながら、店の机で本を読んでいた。


 ライガードは幼い頃からこの本が好きだった。

 剣の達者な主人公は女神から助けを請われ、大陸を分かつ長城を越えると、誰も行ったことのない土地で幻の古代種族ドラコンと出会う。

 ドラゴンを味方につけた主人公は激しい戦いの末、凶悪な魔物を退治し大陸の平和を守るのだ。

 その後名声を高めた主人公は三つの大国を巡り、冒険者協会の設置許可を取りつけた。

 協会を通じて貿易網を構築し、巨額の富を築いたのだ。

 誇張や脚色はあるだろうが、これらはすべて実話とされている。

 現在、世界各地に勢力を広めた冒険者協会初代会長の冒険譚だ。


 ライガードは引退した冒険者である。

 槍術と火の魔術を得意とし、『炎槍』という二つ名で呼ばれていた。

 法整備もされていない紛争地域に治療院を建てたこともある、肉体派の探険家だったのだ。

 死ぬまで現役であり続けようと若い頃は考えていたものだが、肉体の衰えには抗えない。

 老後の生活費を充分に蓄えると、危険な仕事に対するモチベーションが保てなくなってきた。

 かつての仲間たちは家庭を持ったり稼いだ金を元手に別の商売を始めたりして、新しい人生を歩んでいる。

 自分も何か新しいことを始められないかと悩んでいたところ、王都の大商会が雇われ店主の募集をしているという話を聞いた。

 これはと思い勤務地の確認もしないまま応募を決めた結果、王国西部のド田舎、ここライチェ村で店番をしているのである。

 職務内容は雑貨屋の経営と村の警備、それに治安維持だ。

 領主から委託された仕事らしい。


 人口三百人に満たないこの村を警備する必要性はほとんどなく、せいぜい畑を荒らす獣に「よくもイモを食ってくれたな、次はお前を食ってやる」と凄むくらいである。

 村に侵入する魔物もほとんどおらず自慢の槍捌きを披露する機会は滅多にない。

 そのぶん、雑貨屋の店主としての仕事は忙しい。

 何を仕入れるかは村人との会話で決めるため、日々のコミュニケーションは必須だ。

 ライガードは一日のほとんどをこの狭い店の中で過ごしている。


 店の品揃えは豊富だ。

 手作りの木の棚には透明な薬瓶が大量に並んでおり、床に置かれているバケツには火打ち石や縄などがまとめて放り込んである。

 空きのスペースを埋めるため天井からは村でとれた香辛料が等間隔に吊るされていた。

 屈んだり横になったりしなければ通れないほど店内は物で埋め尽くされている。

 初めてきた客にはここが物を売る場所だとは気づかないだろう。

 どう見ても倉庫だからだ。

 ライガードに商品の置き場所を聞かなければどこに何があるのかもわからない。

 会話しなければ買い物できない店なのだ。


 だがそうやって客と話してきたおかげで村人全員の顔を覚えたし、何か問題が起こればすぐ本人のいそうな場所へ向かえる。

 村人はライガードの髪の毛のない頭部を見ては「ゆでたまご」だの「そこだけ赤ちゃん肌」だの軽口を叩くが、それは村の一員として受け入れられた証なのだ。


 ライチェ村に来て五年。

 ここでの生活は平穏そのものだった。

 村人の安全のため侵入した獣を狩ることもあるが、冒険者時代、見上げるほど巨大な魔物を相手にしてきたライガードにとってはジャガイモの芽をとるくらい日常的な作業にすぎない。

 そもそも、村の住民は半数以上が木こりである。

 家の梁に使われるような巨木を鉄製の斧で叩いて倒す連中だ。

 ただの獣など筋の多いお肉として明日の活力に変わるだけである。

 実に平穏な毎日だ。

 ライガードはこの安定した生活におおむね満足していた。

 そう、おおむね、である。

 安定と退屈は紙一重の違いしかない。

 ぽかぽかと心地良い陽気も毎日続けば嵐が恋しくなるものだ。

 だからライガードは『始まりの冒険記』を読み、主人公の旅を追体験する。

 自らの冒険者時代の記憶を重ねて楽しむのだ。



 ばちばちと屋根を叩く音が強まった。

 通り雨かと思ったがずいぶんと長引いている。

 ライガードは本を閉じ、外に掲げてある看板を店内に運び込んだ。

 雑貨屋ウゴウゴと書かれたこの看板は営業時間中のみ外に出しておく決まりだ。

 つまり今日は閉店である。

 この大雨だ、どうせ誰も家を出ない。


 閉じきった店内の空気はじめじめと湿っていた。

 もう本格的な夏が迫っており今朝方まで晴れていたため降水量の割に暑いのだ。

 出窓を開いて換気してみるが室温は変わらなかった。

 雲が厚いせいかまだ夕方だというのに外はかなり暗くなってきている。


 ライガードは読んでいた本を棚に戻して、仕入れ台帳を机に上げた。

 歳をとったせいか、暖炉の灯りで書類仕事をしようと思うと目が疲れる。

 自然光が残っているうちに今日の仕事を終わらさなければならない。

 羽根ペンをインクに浸し、必要な情報を書き込んでいく。


 この店は利益を追求していない。村の人間が快適に生活するのに何が必要なのかを考え、与えられた予算内で仕入れる物を決定するのだ。

 いくら売り上げようと給料は変わらないのだが、ライガードが何を仕入れるかによって村の生活水準は大きく変わる。

 手は抜けないのだ。


 木こりの使う斧用の砥石をいくつ仕入れるか悩んでいると、店の外でびちゃりと水溜りを踏む音がした。

 雨の中で聞こえるくらいだ、よほど強く踏み込んだのだろう。

 入り口の扉に目をやり人が入ってくるのを待った。だが開く様子はない。

 不穏な気配を察したライガードは壁に立てかけてある愛槍を手にとり、足音を殺して入り口に向かった。

 扉をほんの少しだけ開き、覗き込む。


 ざぁざぁと降りしきる雨の中、ずぶ濡れの若い女が立っていた。

 肩より長い赤毛の髪が雨でべったりと頭部に張りつき、しかし衣類は厚手な生地であるせいか身体のラインをはっきりとさせていない。

 胸元に光る銀色のペンダントは彼女の唯一の洒落っ気だ。

 腰の左右に短剣が一本ずつ。

 手入れはされているが使い込まれている。

 膝まで隠す細いブーツは泥まみれだ。

 村の住人ではない。おそらくは旅人だろう。

 だが旅人だとしたらそれはそれで異様だ。


 彼女のお腹は大きく膨らんでいた。

 旅をしていい身体ではない。

 臨月近い妊婦だった。


「何か用かな? お嬢さん」


 槍を扉の陰に隠して、平静を装った。

 トラブルは御免だが、放置もできない。


「雨で視界が悪く迷ってしまいまして。この辺りにウゴウゴという雑貨屋さんはございませんか」

「ああ、そりゃウチだ。雨だから看板を中に入れたところだ」

「もしかして、ライガード・カリーさんですか」


 不意に名を呼ばれ、槍を持つ手に力が入った。

 答えるべきか、ごまかすべきか。

 無言が返答になったようで、女の顔がぱっと明るくなった。


「良かった。もう会えないかと思いました。私、ポニータ・デリシアスと申します。母からライガードさんを頼るように言われて来ました」

「デリシアス……まさか君は、あいつの娘か」


 ポニータの顔をまじまじと見た。

 二十年以上前、紛争地域で共に活動していた友人に目鼻だちがよく似ていた。

 友人は治癒魔術が得意で、救護施設を建築した際には誰でも傷の治療や病の予防などができるよう、治癒の魔道具を作り上げた。

 その手腕が高く評価され、平民の出でありながらこの国の貴族であるデリシアス家に嫁いでいったのだ。

 目の前にいるポニータはそこで生まれた子なのだろう。


「うむ。たしかに君はあいつにそっくりだ。しかし何の用だ」

「どう話して良いのやら」


 彼女は膨れた腹部に手を乗せた。

 どんな理由であれ妊婦を雨に晒して良いわけがない。


「すまん。まずは入ってくれ」


 ドアを開いたまま中に誘導する。

 壁にかけてあった白い布を手渡し、身体を拭くように言った。

 布は水分を吸収するたび薄紅色に染まっていく。

 ほんのり血のにおいがした。


「どこか怪我しているのか?」


 気遣うふりをして探りを入れてみた。


「すみません、王都から馬車で来たのですが、道中、盗賊に襲われて。御者と馬が死にました」

「なんと。人を呼ぼうか。腕の良い治癒術師が村にいる」

「いいえ、この血は私のものではありません。御者と馬の仇をとりました。こんなお腹をしていますが、少し前まではそこそこ有名な冒険者だったんですよ」


 からからと笑うポニータが昔の友人と重なる。

 彼女が今どのような生活をしているか知らないが強い娘をもったものだ。

 もっとも、貴族の娘としてはどうかと思うが。


 ここドリアン王国には歪な貴族文化が根づいている。

 各貴族の当主となった者は自分の領地に赴くことを禁止され、王都に住み大臣として国務に携わらなければいけない。

 王は各貴族の代表者を身近に置くことで実際に領地を治める者を間接的に支配しているのだ。

 貴族の反乱を防ぐための露骨な人質制度だが、王都での生活に不便はないし各貴族ごとに名誉ある仕事を任せられており、現状を憂う者はほとんどいない。

 名門デリシアス家は魔術や魔道具の研究開発を使命としており、成果は教育や軍事に活かされる。

 当然、予算は潤沢だろうし、現当主は優秀で王からの評価も高いと聞く。

 デリシアス家は現在、国内有数の富豪なのだ。


 そんなデリシアス家のご令嬢がなぜ冒険者をしていたのか気になったが、まずはここに来た理由を問わなければならない。


「そこにかけてくれ」


 来客用の腰かけを机の前に持っていき、座るよう促した。

 ライガードは仕入れ台帳を机の引き出しにしまい、かわりに瓶詰めされた乾燥茶葉をとり出した。

 店内に火はないが、ライガードは熱の魔術が使える。

 裏口に置いてある桶から陶器のコップに水を汲み、茶葉を沈めると左手をコップに向けた。

 手のひらに意識を集中させると、水がぼこぼこと湯立つ。

 コップを揺らすと茶葉の色が広がっていった。


「あら、いい香りですわね」

「発汗効果のある茶だ。温まるぞ」

「ありがたくいただきますわ」


 ライガードはポニータの前にコップを置いた。

 息を吹きかけ湯気を散らし、火傷に注意しながら口にするボニータ。

 よほど美味しかったのか、彼女は目を瞑って天井を仰いだ。

 王都からこの村まで徒歩であれば六十日はかかる。

 途中まで馬車だとしても妊婦が耐えられる距離ではない。


「父親は?」

「今も旅をしていますわ」

「なんとまぁ、無責任な」

「私が望んだことです」


 ポニータがまた一口お茶を飲んだ。

 心底美味しそうに微笑んでいる。

 ライガードは彼女と対面するように座った。


「君は最近まで冒険者として生活していた。だがその子を身籠ったため、仕事が続けられなくなりここに来た。合っとるか?」

「ええ」

「なぜ俺のところに来た」


 彼女の母親とはもう二十年以上会っていない。

 ましてやその娘など、存在すら知らなかった。

 本人ならともかく、面識もない身重な娘が遠路はるばる訪ねてくるなどおかしな話である。

 厄介事の香りしかしない。


「あなたにお願いがあるんです。この子を、あなたの子として育てていただきたい」


 ポニータはコップを机に置いた。

 手を膝に乗せて姿勢を正し、まっすぐにライガードの目を見据える。


「冗談ではないのだな」

「ええ、もちろん」

「理由を聞こう」


 ライガードは机に乗せた手を組んだ。話を聞くときの癖だった。


「この子の父は私と同じ冒険者です。主に遺跡探検家として活動しております。名はフォクス。双剣のフォクスです。一度の旅で五つの古代遺跡を発見、攻略した実績があります」


 組んでいた手の指にぐっと力が入った。

 冒険者協会が設立されたばかりの頃ならともかく、開拓の進んだ現代において遺跡の発見は至難である。

 人類未踏の地域に入り、精度の高い調査ができなければまず見つからない。

 この時代に五つもの遺跡を発見できたならば冒険史に名が残る偉業である。


「すごいな。だが俺はもう冒険者を引退した身だ。腕利きだということはわかるが、名前は知らん」

「彼は天才です。魔術の才能、旅の知識、剣術の腕、どれをとっても一流なんです。でも彼の本当の魅力はそんなところではありません。彼は」


 ポニータは机に手を着くとライガードの顔を覗き込むようにぐっと顔を寄せた。


「彼は超絶イケメンなんです」


 雨の音が強くなった。

 ライガードは一拍おいてから「お、おぅ」と返事らしき声を漏らし、また少しの沈黙に耐えた。


「いや、ほんともーすごいんですよ。私、けっこう顔にこだわるんですけど、なんというか、そう、彫像みたいに整ってるの。私じゃなくても惚れてます。自分で言うのも変ですけど、よく彼をゲットできたなーって思っちゃったり。やっぱり一途に想い続けたのが良かったんですかね?」

「いや知らんって」

「ライガードさんも筋肉質で良い体格をされていますし、髪型も……徹底的に清潔でいいと思います。あ、もしかして奥さんいるんじゃ」

「徹底的に清潔なせいで独身だ」

「そうなんですか。私、ライガードさんみたいな体格の良い男性にはスキンヘッドが似合うと思います。ま、イケメン度はフォクスの足元にも及びませんけどね。いやでも足元くらいには」

「君は何しにここに来たんだ……」


 お茶を飲んで緊張がほぐれたのか、初対面なのに喋る喋る。

 どうも彼女は元々そういう性格だったようだ。

 ライガードはわざとらしく咳き込んでみるが、その口は止まらない。


 少し苛立ち「ごっほーん!」と嫌味ったらしく声に出すと、ようやく意図が伝わったのか彼女は黙った。


「それで、なんで俺に育てさせようとする」


 ライガードはぴくりとも笑わない。

 決して談笑するような軽い話ではないはずだから。


「育ててほしいというと語弊があるかもしれません。実は理由あってこの子の血統を隠さなければならないのです。どうか捨て子を拾ったことにして、ライガードさんの籍に入れてくださいませんか。もちろん育てるのは私です。なるべくご迷惑はおかけしません。どうかこの子をあなたの養子にしてください」

「お母さんは助けてくれないのか」

「私だって本当はもっと安全な環境で産みたかった。だから母のいる王都に戻ったんです。けれど、追い出されてしまいました」


 貴族の生活や風習は知らない。

 だが旅に出ていた娘が妊娠して帰ってきたら普通、話し合いが必要だろう。


「すまんが、理解できない。家を追い出されただって? 君の母親は俺が知る限り虫の命すら大切にする心優しい人だった。間違っても身重な娘を遠く離れたこんな場所に追放したりしない」

「もちろん、始めは優しく受け入れてくれました。母だって元冒険者です。旅の間の話を楽しそうに聞いてくれました。ですが久しぶりに母に会い、気が緩んでいたのでしょう。この子の父親について正直に話してしまったのです。すると、今すぐここを出なさい、と馬車を用意されました。ちょっと悲しかったです」

「ちょっとかい……」


 話の中でちょくちょく彼女の能天気な性格が顔を出す。

 しかし笑っていられるような内容ではない。

 ライガードは話を続ける。


「それで俺のところへ来たんだな。だが結局、父親のフォクスとは何者なのだ。有能でワケありな冒険者としかわからんぞ」

「有能でワケありで、イケメンです」


 ずいと顔を寄せてきた。そこは大事らしい。


「フォクスは本名ではありません。名前は闇商人から買ったもので、出身も経歴も別人のものを使っています。本当の彼は公的に死んだことになっている人物なのです。もし存命を知られれば国家に命を狙われるでしょう。フォクスは強いし賢いから何があろうと切り抜けられるでしょうが、この子はそうもいきません。万が一にも彼の血筋であることがばれてはいけないのです。だから信頼できる人に助けてもらい、その人の子として育てようと考えました。母がもっとも信頼している人物、それがあなたでした。ライガードさん、どうかお願いです。私とこの子を助けてください」


 ポニータが愛おしそうに自分の腹を撫でる。

 ライガードは黙ってポニータの目を見つめた。


 なんとなく話の全容が見えてきた。

 父親であるフォクスが命を狙われているせいで、ポニータのお腹にいる子にも危害が及ぶ可能性があるのだ。

 たしかに捨て子としてライガードが国に届ければフォクスとの血縁は疑われない。

 辺鄙な田舎村ではあるが、安全に育てることができる。


 なんだか嬉しかった。

 彼女の母親とはもう二十年以上会っていないというのに、昔と変わらず頼りにしてくれた。

 人は変わるはずなのに、変わっていないと信じてくれた。


 冒険者として国を渡り歩いていたあの頃、ライガードは誰の命も見捨てなかった。

 自分の命も友の命も救えるものはみんな救う。

 それはライガードがライガードとして生きるための矜持だった。

 旧友はそんなライガードの生き方を覚えていたのだ。

 だから娘と孫を託した。

 彼女の信頼にどう応えるか。

 そんなの、決まっている。


「話はわかった。君とその子を村に迎え入れよう」


 ライガードは笑った。

 体格が良く強面なせいか笑顔が似合わないとよく言われるが、抑えられるはずもない。

 嬉しいとき人は笑うものだ。


 もうじき五十歳を迎えるライガードはこれまでずっと独り身だった。

 寂しくはない。

 周りにはいつも友人がいたからだ。

 だがそんな友人たちも多くが家庭を持っており、どこか取り残されたような感覚があったのも確かだ。


 これはライガードにとって最初で最後のチャンスなのだ。

 籍を貸すだけではあるが法的には子どもができる。

 ポニータがこの村に住むのであれば子育てに参加できるかもしれない。

 安心で退屈な日々とはおさらばできる。

 冒険者を引退して五年、あとは朽ちるだけかと思っていた人生に生きがいを見つけられた。


「ありがとうございます。本当になんてお礼を言えばいいのか。ライガードさん、超イケメンですよ」


 ポニータの差し出してきた右手をライガードはぎゅっと握った。

 固い皮膚の感触が伝わってくる。

 鍛錬を欠かさない武芸者の手だ。

 王都から独りで歩いてきただけのことはある。

 ポニータのコップが空になったので、ライガードは追加のお茶を用意した。

 美味しそうにお茶を飲むポニータを見てライガードは目尻を下げる。

 長旅で疲れているのだ。せめて今くらいはゆっくりさせてあげたい。

 きっと明日から忙しくなるだろう。

 住居や食事を用意して、安心して産める環境を整えなければならない。

 まずは村の治癒術師に相談したほうが良いだろう。

 腹部の大きさを見た感じではいつ産まれてもおかしくない。


「ところで、今どれくらいなんだ」

「だいたい百二十日とちょっとです」

「いやいや、妊娠期間の話だ」

「ですから、百二十日とちょっとです」

「ん?」

 

 話がこじれている気がして、ライガードは考え直す。

 改めてポニータの腹部に目をやるが、やはり何かがおかしい。


「その感じだと、百二十日どころじゃない気がするんだが」

「ああ、私もどんどんお腹が膨れてきてびっくりしました。赤ちゃんってこんなに早く大きくなるんですね。もう産まれちゃいそうです」

「待てよ、君は王都から来たんだったな。馬車旅でも五十日くらいかかるはずだ。そんなお腹をした妊婦が耐えられる距離じゃない。君のお母さんだってわかるはずだ。なぜ君を追い出したんだろう。あまりにも危険すぎる」

「ですから、王都を出た時にはまだお腹がしゅっとしてたんですよ。私、スタイルいいんですから」

「じゃあ、ほんの五十日くらいでそんなに大きくなった?」

「ええ。ここ数日は歩くのも辛かったです」

 

 ポニータは自分の膝をさすった。

 普通に話してはいるが妊婦の一人旅など正気の沙汰ではない。

 妊娠期間の計算が合わないが、まずは寝かせてあげた方が良いかもしれない。


「長旅だ。記憶が混濁しているのかもしれん。話の続きは明日にしよう……と、ああ、床が。もう一度身体を拭いたほうがいい」


 いつの間にかポニータの足元が水溜りになっていた。

 外は土砂降りである。

 渡した布では足りなくてまだ服が濡れているのかもしれない。


「あらやだ、服は乾いてるのに。お茶でもこぼしちゃったかしら」


 ポニータがあははと笑う。

 だがコップにお茶をこぼした形跡がなく、ライガードは不思議に思った。


「まぁいい、床を拭くからちょっと立ってくれ」


 ライガードが新しい布を棚から取り出す。

 ポニータは腰かけから立ち上がった。

 一歩、二歩と足を動かすとまるで影のように水溜りもついてくる。


「んー?」

「んー?」


 床を見て二人で唸った。

 なんだろうか。

 何か見落としているような奇妙な感覚だ。

 しばらくしてポニータがぱちんと手を叩いた。


「これが破水というやつですわっ!」

「ほうなるほど。どうりで床が濡れるわけだ」

「なんてことない話でしたわね」

「まったく驚かせおって」

「あはははは」

「あはははは……じゃない!」


 状況を理解してライガードの血の気が引いた。

 遅れてポニータも理解したようで急に息が荒くなった。

 肩を貸してもう一度腰かけに座らせる。陣痛が来ている様子はない。

 出産の知識がまったくないため、ただ慌てるばかりだ。


「さ……産婆さんは村にいらっしゃいますか」


 ポニータはライガードの腕に縋りつく。


「ああ、ベテランの産ババアがいる」

「産ババアって……産婆さんを呼んでください!」

「ババアを呼べばいいんだな」

「ババアを呼んできてください!」


 ライガードは店を飛び出した。

 外はもう日が沈み雷が鳴っていた。

 底の見えない水溜りをびしゃりと散らし、産婆の住んでいる家へと走る。

 服を濡らしているのが雨なのか汗なのかわからなくなった。


「ババア!」


 ライガードは産婆の家の扉を叩いた。わずかにオニオンスープの香りがする。


「なんじゃい、ハゲ」


 今すぐに倒れてもおかしくない、しわしわな老婆が扉の隙間から顔を出した。

 村の治癒術師、サキ・マックローネだ。

 軽い怪我や病ならば彼女に頼んで治してもらえる。

 肉体労働者の多いこの村にとって欠かせない存在である。


「た、旅の女がうちに来て、赤ん坊を産みそうだ」


 息が切れているせいで頭がうまく働かない。

 ポニータの出産は村人に知らせて良いのかそれとも内密にした方が良いのか考えている余裕はなく、ただ何か起きているかだけを伝えた。


 サキの対応は慣れたものだった。

 治療道具の入った布の包みをライガードに持たせると「おぶれ」と言って蛙のように軽快に背中に跳び乗ってきた。

 右手で荷物を持ち、左手で老婆の体重を支えながら雷雨の中をライガードは駆け出した。

 雨のせいで星明かりも届かない。

 それでも五感をフルに使い、減速することなく夜道を進んだ。


「赤ん坊か。去年曾孫を取り上げて以来じゃわい」

「お孫さんは元気か」

「元気も元気。わーわー泣きよる。ワシが取り上げた子はみんな元気に育ちよるんよ」


 この村は出稼ぎ労働者が多いため子どもの数が極端に少なく、今村にいるのは昨年生まれたサキの曾孫だけだ。

 とはいえ、サキの助産師として経験が浅いわけではない。

 若い頃、王都の治療院で働いていた彼女は助産師として街中を駆け回り数多くの命を誕生させてきたと聞く。

 彼女に任せておけばきっとうまくいくはずだ。


 店に着いた。

 サキを下ろして扉を開けると、机の上でランプが灯っていた。

 ポニータが点けたのだろう。

 ランプに照らされる彼女はびっしょりと汗をかき、呼吸を荒げていた。


「頑丈そうな娘だの。ワシが来たから安心せい」


 サキはポニータの額に手を当てた。

 体温を確認しているようだ。

 その後、ポニータの上着に手をかける。


「おぬしの娘じゃないんだろう。ジロジロ見なさんな」

「お、おう」


 サキに指摘され、慌てて二人に背を向けた。

 友人の娘というのはどうも他人な気がしない。

 苦しそうなポニータを見ているとどうしても不安になってしまうが、出産に立ち会えるような間柄ではないのも確かだ。


「安心せい。今のところ安定しとる。だが長くかかるかもしれん。ワシの寿命が先にきたら大変じゃから、暇人どもを集めてくれ」

「誰を呼べばいいんだ?」

「誰でもいい。さっさっと行きな!」


 半ば追い出されるような形でふたたび店を出た。

 村を一周しながら次々と家の扉を叩いていく。

 簡単に事情を説明すると仕事や家事を中断してまで手伝ってくれるという人がたくさん見つかった。

 もういいだろうと思えるくらい声をかけてから戻ると店内は先に着いた村人たちでごった返していた。

 雑貨屋ウゴウゴ開店以来最大の客入りである。


 ポニータに付き添う女性たちは交代で休みをとっていた。

 指示役のサキは働きっぱなしだ。

 ライガードは全員ぶんの食事を作ったり仮眠できる環境を整えたりと出産のサポートをサポートした。


「ありがとうございます。優しい方々に囲まれて、この子は幸せです」


 初めての出産。

 胸は不安でいっぱいだろうに、たまに見るポニータは固めたような笑顔だった。

 いちばん苦しいはずの人間が弱音を吐かず頑張っているのだ。

 ライガードは疲れを忘れて働き続けた。



 夜が深くなると雷鳴が遠ざかり雨音も聞こえなくなってくる。

 ライガードは他の村人に促され、店に隣接する自分の家で食事休憩をとっていた。

 暖炉の火が気持ちよくてまぶたが重くなってくる。

 まだお産は続いているため眠るわけにはいかないが、動きっぱなしも効率が悪い。

 深く目を閉じて少しの間体力の回復に努めた。

 そろそろ行くかと目を開けたとき、視界いっぱいにババアが映っていた。

 近い。息が生温かい。


「どうした」


 ライガードが聞くと、サキは視線を床に落とし、重い声で話す。


「赤ん坊の様子がおかしい」

「……死産かい」

「いいや、生きとる。生きとるんじゃが……ありゃ、アルノマじゃ」


 胸に土嚢を落とされたような衝撃があった。

 先天魔素異常症候群……通称アルノマ症。患者はそのままアルノマと呼ばれている。


 アルノマは魔術を行使する際に必要となるエネルギー、魔素の性質に生まれつき異常がある。

 そのせいで外見、能力、精神に問題が生じやすく、多くが人とは思えない見た目だったり、身体的ハンディキャップを抱えている。

 精神・知能への影響も大きい。

 感情の起伏が激しい、善悪の区別がつかない、言語能力が低く意思疎通が困難であるなどの問題を抱えているケースが多く、そのため同じ人間でありながらアルノマの存在そのものを害悪と考える者もいる。


「……殺すのか」


 絞り出したような声で聞くライガード。サキは残念そうに「ああ」と答えた。


 アルノマに対する差別は家族にまで及んでしまう。

 そのためお産中に赤子がアルノマだとわかったら産声をあげる前に絞め殺し、死産だったと告げることが暗黙の了解とされているのだ。


 命の剪定。

 その文化を否定はしない。

 けれどいざ現場に立ち会うと目の前の老婆が邪悪な為政者のように思えてしまう。

 声をあげる喜び。

 土をいじる喜び。

 自分の足で歩く喜び。

 愛し愛される喜び。

 何もかも生まれる前に奪ってしまうのか。


「頼む。なんとかしてやれないか」

「残酷に思えるかもしれんが、あの娘のことを考えてやれ。アルノマの子を抱えていてはまともな仕事にも就けまい。死産であれば諦めもつく」

「ならあの娘にどうするか聞いてみろ。アルノマであっても育てたいという者はいるんだ」

「わからんか馬鹿ハゲ。娘に聞けば出産を望むに決まっておる。一時の感情に判断を誤って不幸になるのはあの娘だけではない。赤ん坊自身もじゃ。逃げ場なく石をぶつけられる人生を想像できるか。アルノマの子が受ける苦しみにおぬしは責任を負えるのか」

「……クソババアが」


 うまく返す言葉が浮かばず悪態をついた。

 サキの話は経験に裏づけされている。

 自分の取り上げた子が迫害されていく様を見るのはどんな気分なのだろう。

 ライガードには子育ての経験がない。

 説得力のある意見など持ち合わせていない。


 だがあの子は友に託されたのだ。

 どんな命も隔てなく護り続けてきたライガードだからこそ、友は信頼して預けてくれたのだ。

 どんな事情があろうとも救える命を見捨てるような男にはなりたくない。


「……どうすれば助けてもらえる」


 サキとの付き合いはもう五年になる。

 赤子を殺すと知ったライガードがどう思うかくらい彼女はわかっていたはずだ。

 それでもわざわざ伝えにきた。

 何か解決策があるはずなのだ。


「おぬし冒険者時代の蓄えがあったな」

「ああ、いくらかは」

「この間、鍋を焦がしてしまってな。新しい物が欲しい」

「……うん? それが出産とどう関係する」

「たしか油も切れそうじゃった。店の備蓄を譲ってくれ。それと酒じゃな。樽でよこせ。あとつまみになりそうな乾燥肉も」

「待った待った」


 ライガードは両手を突き出して話を止めた。


「つまりなんだ、どういうことだ」

「有り体に言えば」

「言えば?」

「金が欲しい」

「深刻な顔してふざけやがって!」

「しっ! 声がでかい!」


 強欲なババアである。

 赤ん坊の命をちらつかせて金をせびろうというのだ。

 断れるはずがない。

 ライガードの性格を熟知している。


「あれは重度のアルノマじゃ。成長して言葉を話せるようになるかもわからん。あの子のためを思うなら、ここで終わらせてやるのが人の道じゃ。もしおぬしが己の信念のためにあの子を救うのならば、相応の責任を負わねばならん」

「それで金か」

「ああ、金じゃ。あの娘がアルノマの子に絶望して捨てたらどうする。誰が育てる。食事は。教育は。意思の疎通ができなかったら、それでも生かしておけるのか。人を襲うようになるかもしれん。村にも迷惑かかかるんじゃぞ。アルノマを育てるには金がいる」

「言いたいことはわかった。だがどうしてあんたに払う必要がある」

「曾孫にうまいもん食わせてやりたくて」

「ババアの勝手な欲望じゃねーか!」


 強かな性格だ。

 長生きの秘訣がわかった気がする。

 サキを見ているとまだまだ自分は若造だと思い知らされる。


「大丈夫だ。あの親子の面倒は俺が見る。何があっても責任をもって育てるから、安心して産ませてやってくれ」

「本当にお人好しじゃの」


 サキはわざとらしくため息をついた。

 しかしその口角はどこか安心したように上がっていた。

 ライガードの覚悟が知りたくてこんな話をしたのだろう。


「ところで、いくら蓄えとるんじゃ」


 やっぱり強欲なだけかもしれない。


 サキが助産に戻っていった。

 ライガードは自宅を出て店の壁にもたれかかる。

 雨はもう止んでいた。

 なかなかの難産らしく、苦しそうにいきむポニータの声が届いた。

「あとちょっと」と村の女衆が励ましていた。


 目をつむって待った。

 おぎゃあという生命の息吹を。

 アルノマだろうとかまわない。

 お前は生まれていいんだよ。


 それまでで最も大きな叫び声が村に響き渡った。

 中でサキたちがざわついている。


 さぁ、お前の声を聞かせてくれ。

 おぎゃあと泣いてくれ。

 おぎゃあと。


「……ブヒィィィィィィィ!」


 村に新たな命が息吹いた。

 丸々太った赤ん坊は健康そのもの。

 その鼻は平たくて、耳が頭の上にあった。

 尻尾は生えておらず、ちゃんと指も五本ある。

 ただ、首から上だけが豚に似ていた。


「あなたの名前はポークよ」


 ポニータは泣いている我が子に頬を寄せた。


 ポーク・カリー。

 彼はライガードの養子として村の戸籍に登録された。


 豚そっくりな少年の冒険はこうして始まったのだった。

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