第43話 お別れ

 動きを止めたドーハートさまから少し距離をとったところで魔王は歩みをとめ、温室に備え付けられた花壇のへりに腰を下ろした。


 魔王がドーハートさまを見つめる瞳に、怒りや恨みのようなものは感じられない。ただ、苦々しいと言うかのような。できれば直視したくないとでも言うかのような。そんな表情をしている。


 それはまるで、過去の後悔を思い出しているときみたいな顔だった。


「人間社会じゃあおまえは、『勇者だから聖女に選ばれた』なんてことになってるみたいだけど、魔族から言わしてもらえばそんな理屈はちゃんちゃらおかしいよ。都合よく歴史を歪め、聖女を独占してきたくせに、平和ボケして得た結論がそれか? 正しくは、おまえは『勇者だから』聖女に選ばれたんじゃない。『聖女が選んだから』勇者でいられたに過ぎない」


 魔王の拘束魔法に抵抗しようとして失敗し、もう一度床に転がったドーハートさまの目を見つめながら、魔王はゆっくり語り始めた。


 だけどその言葉はほとんどドーハートさまの耳には届かないようで、彼は魔王を睨みつけてがなりたてる。


「まさか、こうなることがわかっていたっていうのか! だからリディを誘拐して、オレをここに誘い出したんだな! オレを、はめるために!」


「それこそまさか、だ。勇者の資格剥奪は、聖女の魂の無意識領域が全面的に勇者の存在を否定することを決めなければ達成されない。他人が勝手に決められない不確定な要素を決戦に持ち込むほど、魔族は愚かじゃない。

 大体、おまえとリディが王都でずっと一緒にいれば。おまえが浮気し、リディを聖女の座から追い出したりしなければ、リディはおまえのための祈りをやめることはなかっただろう。

 だが、おまえは自らリディを切り捨てた。そこに隙ができたから、俺は神殿に侵入できたし、魔族はリディを迎え入れることができた。おまえたちは、勇者と聖女の繋がりを、軽視しすぎたんだよ」


「聖女と、勇者のつながり……」


「聖女と勇者は、魂でつながっている。世界に恩寵をもたらす宝玉を守り、運命を共にするためのシステムだ。どちらがどこにいても、その気配で伴侶がいる場所がわかっただろう?」


 たしかに神殿にいたころは、ドーハートさまがどこで何をしているかおおよそのことの見当はついていた。

 それを利用して、修業から逃げ出したドーハートさまを探し出したのも一度や二度ではない。ドーハートさまにとってもそうだったはずだ。ただ、わたしはつとめがない限りは神殿にいたから、彼にとってはあまり意味のない力ではあったと思うけれど。


 神殿で共に過ごしていた懐かしい日々。

 あの頃は二人が揃っていれば、どんな困難にも立ち向かっていけると無邪気に信じていた。


 だけど追放されたあのときに、そんなのはただの思い込みだと思い知った。ドーハートさまは新しい恋人を作り、わたしは神殿を追い出された。

 信じていた絆なんてただの幻で、最初からなかったのだ、と諦めざるを得なかった。


 しかし魔王の話を信じるなら、確かにあの頃、わたしたちの間に絆はあったのかもしれない。


「それを台無しにしたのはおまえだよ、ドーハート。だがおかげでリディはおまえから解放された。

 俺は魔族のもとにリディを連れてきて、リディは時間をかけて誤った歴史観を正し、魔族に対する偏見をほぐしていった」


 カイドルさんと魔王は、魔王城に来た当初、聖女の力を失ったと思い込んでいるわたしに根気強く相手をしてくれた。


 魔族は危険な存在だ、人間の敵だと信じて警戒し続けていたわたしのこころをほぐしてくれたのはキシールだ。

 そして、カイドルさんから、人間の世界では歪められて伝わってしまった世界の仕組みと歴史について学んでいった。

 少しずつ、負った傷を回復させるようにゆっくりと、わたしはわたしは凝り固まった自分の価値観を改め、そうするうちに、もう一度歩み始めた。


 魔族のみんなはそれを待ってくれていて、そして歩き出したわたしの手をとり、必要としてくれた。


「ドーハート。聖女のこころをないがしろにしたおまえが勇者になることは、もう二度とない。リディの話じゃあ、嫌々務めていたんだろう? 解放されてよかったじゃないか」


 魔王の宣告に、ドーハートさまは顔を一層白くした。

 ぶるぶると震えて一歩も動けない彼に近づき、耳元で囁いた言葉が、わたしにも聞こえる。


「おまえをここで解放してやろう。……ただし気をつけろ、勇者ドーハートを恨んでいる魔族は多い。はたして、無事に人間の国の領土まで辿りつけるかどうか。それを保証してやるほど、俺は親切じゃない」


 魔王の言葉通り、ドーハートさまを押さえつけていた拘束魔法が解除される。ふらつきながらも立ち上がった彼は、まっすぐにわたしの元へ来た。


 魔王は眉根を寄せて、その様子を少し離れたところで観ている。


 今の二人の力関係は一変している。魔王がその気になれば、ドーハートさまの命の灯は一瞬で吹き消されるだろう。

 けれどできれば、そんなことになってほしくはないな、と思いながらわたしはドーハートさまに向き合った。


「リディ、帰るぞ」


 その言葉を聞いて、わたしは薄く苦笑いした。

 この人は、この期に及んでまだそんなことを言うのか。


「いいえ、ここでお別れです、ドーハートさま」


 わたしの返事を聞いて、「なんでだよ!」と大声を出す彼をまっすぐに見つめる。

 誰にも勝る絶対的な暴力を失った彼の叫びは、いっそ哀れな響きで温室に響いた。


「魔王はああ言ったけど、おまえがオレを好きでいればもう一度勇者になれるんだろ? ならさっさとやれよ!」


 そんなことを言われても、わたしにはどうすることもできない。

 かつてドーハートさまを勇者に選んだときだって、彼を選ぼうと思って選んだわけではなかったのだから。

 ただ痛烈に「この人だ」と感じたあのときの想いを、言葉で表現するのは難しい。


「おまえはいつもそうだ。オレがやってほしいことだけは、絶対にやろうとしない」


「あなたもいつもそうです。わたしがやってほしくないことばかり、進んでやり続ける……」


 きっと、出会った時の直感を、勇者に選んでからの道のりを、お互いの想いを大切にして、わたしたちが共に歩む道もあったのだと思う。


 だけど。


「ドーハートさま、わたしたちが想いあった時間のすべてが嘘だったとは思いません。あなたがわたしを好きでいてくれた時間も、わたしがあなたに想いを寄せた時間も、確かにあったと思います。だけど……」


 わたしたちは、どこかで決定的に掛け違ってしまった。


 そして、恋が続けられないと、先に気づいたのはドーハートさまだったのだろう。

 だから、わたしではなくミーシア姫を選んだのだ。


 不思議なものだ。追放を告げられたときに、くすぶって悔しいと叫んでいた恋心はもう消えうせてしまってどこにもいない。胸を押さえてそれをはっきりと確認し、わたしはもう一度ドーハートさまに向き合った。


「……ミーシア王女を、大切にしてあげてください。わたしから言えるのは、それだけです」


「おまえがオレを捨てるのか? だとすればおまえは本物のバカだ! おまえがオレをこんなにしたんだぞ。責任をもって最後まで尽くせ! 聖女の力があるのなら、いますぐオレを勇者にもどせよ!

 できるのになんでしない!? こんなときぐらい、素直にオレの言うことを聞いたらどうなんだ!」


 これが最後だから。そう思ってわたしは彼の言葉を遮ることなく聞いていた。


 ドーハートさまは、わたしが黙っているのが気に喰わないのに、興奮しすぎて言葉が見つからない様子で、しばらく「バカにしやがって」と何回も繰り返していた。

 そしてそうするうちに血走った眼を見開いて、わたしに向かって平手を振りかぶった。


 餞別に一撃を受けるくらいはしてもいいと思ったが、その手は空中で止まる。

 不思議に思って振り返れば、魔王の人差し指がドーハートさまを指していた。もう一度拘束魔法を使ったのだろう。


「もう黙れ」


 魔王が小さくそう言った途端、ドーハートさまは一言も発しなくなった。

 表情を見るかぎり、言いたいことがないわけではなさそうだったので、これもまた魔王の魔法による効果なのだと思う。


「さあ、自分の国に帰り、君主に見たままを伝えるがいい。聖女は人間によって歪められた偶像ではなく、この世界の真実を知った。人間から伴侶となる勇者を選ぶことはもうないだろう。

 ……そして、魔族はいつでも話し合いに応じる準備がある。どうするかは、おまえたち次第だ、とな」


 魔王が人差し指をちょいちょいと動かすと、ドーハートさまはまるで兵隊みたいな足取りで温室に背を向けた。


 まだ何も話せない。それでも首から上だけを精いっぱいの力でこちらに向けて睨みつける空色の瞳に、わたしはこっそりと「帰路もご無事で」と祈りを捧げたのだった。

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