第39話 ウィンドドラゴン

「今までの体調不良は脱皮の前兆だったってこと?」


「わかんない! でもたぶんそう!」


「もう、辛くはないのね?」


「うん! むしろ絶好調だよ!」


 くるくるとターンして、「ね?」とでも言うかのようにわたしの様子を窺うキシールは、今まで見たどんな時より元気そうだ。「よかった」と胸をなでおろすわたしに向かって、今度は背中を差し出してきた。


「おひいさま、早く乗って!」


「え?」


「魔王さまのところに行くんでしょう? 早くしないと、決着がついちゃうよ」


「で、でも、扉には結界が」


「窓から飛んでいけば、すぐだよ」


 そう言ってキシールは鼻で窓を指し示す。確かにバルコニーにつながる扉には結界が張られていないから、そこから外に出ることはできるけれど、羽化したてのドラゴンがいきなりあんなところまで飛べるのだろうか?


「新しいことを教えてもらうとき、カイドルさんがよく言うよ、『習うより慣れろ』って!」


「それとこれとは別なんじゃあ……」


「もう、おひいさま! 乗るの? 乗らないの? 飛ぶの? 飛ばないの? 決めるのは、今しかないよ!」


 キシールはわたしに決断を迫った。

 高い塔の上に会いたい人がいるのに自分は閉じ込められていて、だけど同じ部屋でまどろんでいたドラゴンの幼生がいきなり羽化して「一緒に飛ぼう」と誘ってくるなんて、いくらなんでもできすぎている。

 だけど深く考えている時間はなく、これは千載一遇の好機に違いない。


 ここまで来たら、あと必要なのは度胸だった。


「……飛ぶわ」


 わたしの答えを聞いて、キシールは「そうこなくちゃ!」と言わんばかりに翼を広げ、背中をこちらに示してきた。

 すると、翼で隠れていた首と背の境目にはちょうどわたしのお尻が収まりそうなすぼまりがあって、わたしはそこにまたがった。


「大丈夫? 痛かったり、重かったりしないかしら」


「ちょっと変な感じ……くすぐったい」


 キシールはそう言って部屋の中で身体をぶるぶると二回振ると、窓から身を乗り出して「いくよー」とのんびり言った。


「しっかり掴まっていてね」


 バルコニーの手すりに両手両足を載せて翼を大きく広げる。

 そして、ばさりと音をたてて翼を動かし、足が窓枠から離れた。


 このとき、この瞬間までわたしは、飛ぶとはふわっと浮くものだと思っていたのだ。


 だが違った。


「飛んでない、落ちてるわキシール! きゃー!?」


 跨った状態で手を伸ばせば届く場所にあった角を両手で思いっきり握りしめ、落下して内臓が浮くような浮遊感に耐えながらわたしは叫んだ。


 キシールは「あれあれ?」と言いながら翼をバタバタとさせ、そうするうちにコツを掴んだのか、少しだけ落下の速度が弱まり、その隙に魔王城の装飾に鋭い爪でしがみついた。


「ああ、びっくりした」


 ようやく落下が止まり、ひどく驚いた様子でキシールはそう言うが、驚いたのはこちらも同じだ。

 まさかドラゴンが飛ぼうとして落ちるとは思わなかった。


「飛べると思ったんだけどなあ、意外とむずかしいね」


「そ、そう……」


「おかあさんは、どうやって飛んでたんだろう。生きていたら、教えてくれたのかな……」


 キシールの親は、勇者さまによって殺されている。だからといって人間を恨んではいない、そうでなければ出会えなかったとキシールは言ってくれたが、母が恋しくなることだってあるだろう。

 特にこんな風に、普通親から教わるはずのことが、自分の内に蓄えられていないと気付いた時は。


 落下の衝撃から回復しきれずバクバクする心臓を抑え、わたしはキシールの背を撫でた。


「……そうよね、初めてなんだもの。うまくいかなくてもしかたないわ」


「ごめんね、ごめんね、おひいさま。すぐつれて行ってあげたいのに」


「ううん……だけど、一つ思ったことがあるの。聞いてくれる?」


「なあに?」


「あのね……あなたの翼はとても大きいけれど、それでも体の割には小さいわ。だから普通に飛ぶだけでは、揚力が足りないんじゃないかと思うの」


「よう、りょく?」


「ええと。空中で身体を支えるための力かしら。ほら、空中にはもちろん床がないから、上に向かう力がなければ下にずっと落ちてしまうでしょう?」


「うーん……よーりょくのために、ぼくはどうすればいいの?」


 戸惑ったような声を出すキシールの背を、もう一度撫でながらわたしは考える。


 魔王城にはキシールの他にドラゴンはいないが、魔馬車で城下の郊外に出たとき、幾度か遠目に見たことはあった。

 その時に感じた、ドラゴンが常に身にまとう強い魔法の気配。その正体はきっと、大きな自分の体を動かすための補助魔法なのではないか、と思ったのだ。


「きっとドラゴンは魔法を使うのよ。体を支えて、思う存分空を飛ぶための魔法」


「ぼく、そんなの使ったことない。そんな魔法知らない」


 常に身にまとうのだから、意識して使うものではないだろう。おそらく、アクティブスキルではなくパッシブスキルの類いだ。

 そして、ドラゴンは生まれつきそれを体得している。でなければ、最強の生物としてここまで名を上げることはなかっただろうから。

 キシールがそれを使えないのは、やはり親との離別が早すぎたせいなのかもしれない。


 できるだけ気安く、明るい声でわたしは「大丈夫よ」とキシールに言った。


「ウインドドラゴンは、他のどの竜よりも早く飛ぶ、誇り高き空の王者よ。あなたはもう、その魔法を知っているんだわ。ただ、まだ準備が整っていないだけ」


「そうなの?」


「絶対そうよ! さっきだって、きっとあと一息で飛べたわ。もう一度、飛べる自分をイメージするの。ぴんと翼を張って、空を昇っていく」


 わたしは言葉を続けながら、キシールの背を撫でていた。


 どうか。この子にとって、親の喪失がこれ以上の傷になりませんように。自分が失ったもののために、これ以上悲しむことがありませんように。

 この心臓に願いを叶える力があるのなら、どうかこの子のためにその力を貸してください。


「ドラゴンの魔力で、できないことなんてないわ。お腹の底から、力がみなぎってくるでしょう? 頭のてっぺんから爪の先まで、魔力を張り巡らせるの。そうすればそのうち、翼の方から勝手に動くようになる」


「みゃむ……」


 キシールは集中し始めたようだった。それを邪魔しないように、背中を撫でる手を止める。


「翼は力強く、風を切って宙を舞うわ。どんな旋回飛行もお手の物よ、だって空中には、あなたが毎日ゴツゴツぶつかっていた家具はないんだもの」


 わたしの言葉に反応したのか、翼が勢いよく立ち上がった。皮膜を縁どる竜骨の鱗が、先ほどよりずっと強い光を湛えている。魔力の気配は濃厚なほど、周囲に満ち始めていた。


 そしてもう一度、爪が城を離れる。


 今度は、落ちなかった。

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