第二話

 私はゴクリと生唾を飲み込んだ。そんなものじゃ勢いなんてつかないけれど、そんな小さな勢いですら今の私には必要だった。

 どんどん近づいてくる曲がり角。あの角を曲がって少しすれば横断歩道が待っている。

 曲がってすぐ目に入る位置にある横断歩道。そこに待ち受けている人物を想像して、私はなんだかフと何かの考えが頭を過ぎったけれど、それを捕まえる前にその何かは忽然と姿を消していた。


「おい、カヨ。お前が言ってた奴ってどいつだよ」


 ケンが耳打ちをするようにして、横断歩道の先を見据えてる。私も角を曲がってすぐ、ケンと同じように視線を泳がせた。


「あ、あれ……いない」


 なんで? なんでいないの……?

 私は慌てて辺りを見渡した。大通りだから他の小道に比べて人は多い方だとは思うけど、人に紛れるほどたくさんの人がいるわけじゃないし、そもそもあんな風体のおじさんを見落としたりしない。

 いつもより、早く着いたとか?

 そう思ってポケットに閉まってあったスマホを取り出して画面を開くと、時刻は8時過ぎ。今までこの時間を確認したことはなかったけれど、いつもと同じだと思う。


「本当にここなのかよ?」

「間違いないってば。だって私ここで何度も……」


 思わず足元に視線を落としてみたけれど、いつもと同じスニーカーがいつもと同じ状態でそこにはあった。


「もしかしたら少し時間が早いのかも。ちょっとここで待ち伏せしよう」


 信号は青に変わったけれど、私達は横断せずに道ゆく人に目を配った。

 だって、いない訳ない。絶対あの人は来るはずだ。


『俺はお前を助けに来た!』


 あの人はそう言った。

 でもどうやって? そもそも何から助けるつもりなの?

 都合よくあの人は私のことを知ってるんだって思ってるけれど、実際はそうじゃないのかもしれない。やっぱりただの不審者だって可能性も拭いきれないでいた。

 やっぱり疑った方がいいのかもしれない。

 一度目は私をトラックで轢いた。二度目は私を道路へと突き飛ばした。あの時は私が事故に遭わずことりちゃんが遭ったのだけれど……。

 一度目の時、あの人すごく驚いた顔をしてた。それも恐怖の顔だった。

 一度目の記憶は不完全で、二度目もあやふやなところが少しある。だから二度目に関してはぶつかろうとする自転車から助けようとしてくれたようにも思えるし、単に道路に突き出そうとしたようにも思える。

 前回ケンが言ったように、自分の手で殺したいと思っていたのなら……。

 前回のはちゃんと覚えてる。その状況とか記憶とかそういった類いのものに引っ張られるようにして、私はあの一度目の状況を思い出したんだ。


「おい、カヨ、あいつの事か?」


 その声にハッとして知らない間に下がっていた頭を上げた。


「白いシャツに、無精髭。それに長めの髪を人つ括りにしてるおっさんだろ」

「うん、そう……そう、あの人」


 信号が青に変わるまで私とケンはジッとあのおじさんに目を向けていた。

 太陽が逆光しているせいで、おじさんの表情までは読み取れない。おじさんがかける眼鏡の反射を受けて私は思わず顔を背けた、その時だった。


「カヨ、行くぞ」


 信号が青に変わってケンが私に合図を送るように声をかけ、私もゆっくりと横断を始めた。

 ゆっくりと歩いていたその時、足元でプツリと何かが切れる音がして、私は思わず倒れ込みそうになったけど、抱き抱えるように助けてくれたのはあのおじさんではなく、側にいたケンだった。

 あれ? って思ったけど、靴紐の事をケンにも話していたから咄嗟に動けたのだろうと思いつつ、今度は足元の違和感に目を向けた。

 違和感の原因は知っている。知ってるはずなのに、私は倒れそうになったのだ。


「……嘘でしょ」


 私の靴紐は一足だけでなく、二足とも見事に切れていた。

 ケンは私を抱き抱えたまま立ち上がらせてくれたけど、ぼーぜんとしている私を見て、手を引いて横断歩道を渡るように促してきた。


「カヨ、とりあえず渡るぞ」


 そう言われて顔を上げると、信号機は点滅を始めていた。その時、ケンに引かれている方とは逆側の手を誰かにギュッと掴まれて、条件反射的に思わず振り向いた。


「カヨ、話がある」


 そう言って私の手を掴んでいたのは、あのおじさんだった。

 ちゃんと面と向かってマジマジと見るのはこれが初めてで、私は思わず面食らってしまった。


「頼む、逃げないで聞いてくれ」


 そう言っておじさんはさらに私の手を強く掴んだ。


「あの、私も……」


 私も話があるんです。私も聞きたい事があるんです。

 疑いつつも、おじさんの鬼気迫る迫力に押し負けてしまってうまく言葉が出てこない。けれど、それ以上におじさんの言葉は悲痛な叫びにも聞こえて、なぜだかやっぱり私はこの人を疑い切れないと思った。


「おい、おっさん。話したいんならせめて、歩道渡ってからだろ」


 ケンがおじさんの手を払いのけ、私の手を再び引いた。


「カヨ、信号赤になったから急いで渡るぞ」

「う、うん」


 私はおじさんから目を背け、今度は視線を足元に向けた。靴紐が切れたスニーカーで私はなるべく足早に駆け出した。今度は転んだりしないように。

 信号を渡りきったところで、止まっていた時が動き出したかのように、止まっていた車が走り出した。

 私のそばには疑心暗鬼な様子でおじさんを見つめるケンと、相変わらず鬼気迫る様子で私について信号を渡ったおじさんがいる。


「で、おっさんの話ってのを聞こうじゃねーか」

「ここで話すのもなんだから、ちょっと場所を移動しよう」


 そう言っておじさんが先導を切って歩き出した。私とケンは一瞬目を見合わせてから、お互いに頷いた。


“もしヤバそうな奴ならすぐに逃げるぞ”


 ケンの目がそう言っていた。


「あっ、少しだけ待ってください」


 そう言ってから私は道の端に屈み込み、靴を脱いでポケットから新しい靴紐を取り出し、今回も見事に引きちぎられたかのようにしてプッツリと切れた古い靴紐を交換した。


「これでよし! お待たせしました」


 そう言って新しく結び直したスニーカーのつま先を地面にトントンと軽く叩きつけ、紐のキツさや靴の履き心地を確認した。

 キュッと結び直した真新しい靴紐は眩しいくらいの蛍光ピンク色。普段ピンクなんてつけないけれど、これはお母さんの好みだ。選択肢がなかったにしろ、派手な色は少しだけ私の気持ちを軽くしてくれる気がした。

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