第1章 鬼は涙を流さない
第1話 凶星の王
アメリカ合衆国ニューヨーク、国際特別裁判所。
今人類社会の中で最も耳目を集める男が、カレルレンという名の男が法廷の中心にいた。
西暦2030年代後半から本格的に始まった多国籍チームによる火星植民は成功を収め、火星の人々は着々と現地での生活基盤を強化していった。極東戦争と呼ばれる先の大戦の最中、彼らはついに出身の国籍を捨て、火星自治政府を設立した。戦争の混乱から立ち直り落ち着きを取り戻した地球の人々の間で、彼らが火星で犯した罪を徹底的に非難する運動が盛り上がり、それは外惑星論争と呼ばれるようになった。目立った指導者も扇動者もいない自然発生的でかつ強烈なムーブメントは瞬く間に全ての国家に伝染し、国連は火星開発の無期限凍結と全ての現地人の地球への帰還、そして彼らのリーダーを公の場で裁くことを決定した。
本来は全ての火星人を同時期に綿密に審理する予定であったが、カレルレン個人を一足先に地球へ帰還させ半ば強制的に法廷に立たせ、火星帰還民を乗せた宇宙船団は地球軌道上に待機させている。検疫のための隔離期間と国際世論の高まりの結果の妥協的措置であった。
火星自治政府総統、カレルレン。
生来のゆるいくせっ毛の黒髪を後ろに撫でつけ、すらりとした長身と地味な色合いのスーツで身を包んでいる所だけ見れば、ごく普通の壮年の男に見えないこともない。だが、男の頭部には一対のツノがあった。こめかみの少し上から生え、くすんだ象牙色の、太く、うねりながら天を衝くように伸びる角。その姿に、宗教画に描かれたサタンのような禍々しさを感じ取る者も当然いた。そして目元を囲みそのまま角の根本へと曲線を描きながら伸びる、角と同じ色に変色したタトゥーのような肌。これもまたメイクや仮装でもなんでもなく、火星人が数十年の火星生活の果てに獲得した身体的特徴だった。
裁判長がカレルレンに詰問する。
「火星に住む人々は一般的なホモ・サピエンスではありえない、かけ離れた身体的特徴を有しています。火星植民者は皆一様に、遺伝子編集技術を利用している疑いがあります。被告人はこれを認めますか?」
カレルレンは落ち着いた様子で応える。
「認めます」
「理由を述べてください」
「火星の環境は地球とは全く異なる。低重力、低気温、宇宙放射線、砂塵嵐、水分不足……。分かりやすい例を挙げれば、我々の目元の変色した肌と角は肉体の水分を保つために獲得した機能の一つです」
「それは自然選択による進化ではなく、人為的な肉体の改造でしょう」
「反対する者は全員地球へ帰還させてきました」
「同意の有無は重要な論点ではありません。問題は、あなた方がハノーファー条約を明確に違反している点です。先の大戦以来、世界は人工知能の機能制限を初めとして、人類文明の存続のために有害な先進技術の使用や開発の制限を大々的に進めてきました。いいですか。ハノーファー条約に該当する技術の使用は現代の人類の倫理規範から逸脱した行為であり、人道に対する罪なのですよ」
「遺伝子編集を開始したのは条約の締結のはるか前であり、我々はそもそもそれに署名していない。それにハノーファー条約に従っていては、火星の荒野で生きていくなど不可能です」
「条約に批准していなければ何をしても許されると? 曲がりなりにも国家を自称しているのなら、人として守るべき最低限の道徳的責任があろう」
横から口を挟む者がいた。インド代表の男だった。
今回の裁判は国際社会の注目度が特に高いことから傍聴席には多数のマスコミが集まり、さらに厳粛な手続きに従って選出された検察官ではなく各国の代表が検察官の代わりを担っている。本件は国際司法裁判所や国際刑事裁判所では対応できないものの火星人を大々的に断罪せよという国際世論に国連が逆らいきれず、特別に設立した法廷であった。
「宇宙条約などという地球外に誰も済んでいなかった頃に作られたカビの生えた代物を押し付けておいて、国家の責務とは。地球は頑なに火星を国家として対等に扱ってこなかったではありませんか」
ロシア代表が割って入る。
「話の腰を折って悪いが、君達が火星で発見、回収したとされる異星文明の情報記録媒体、通称エイリアンレコードについて訊きたい」
「エイリアンレコードか、我々はボトルメールと呼んでいますがね。あれはあなた方がイメージしているよりこう、きっと、情緒的なものであるはずだと思っていますから」
「君の個人的な解釈は求めていない。その言い草からして、まだ解読は完了していないのか」
「あれに内蔵された情報量は膨大で、しかも異星人の言語体系と技術体系に基づいた記録です。地球から途切れ途切れの補給物資で造った設備では、解読に時間がかかります」
「ならばこの場で改めて要請する。エイリアンレコードを国連に引き渡せ。解読が難航しているのならなおさらの話だ」
「拒否します」
「レコードは全人類が共有すべき財産だ。火星が独占していいものではない」
インド代表が口を挟むと、他の代表達も次々と異口同音に続いた。カレルレンは涼しい顔をして黙っていた。
アメリカ代表の女が挙手をした。
「裁判長。証拠となる映像をお見せするため、法廷正面のスクリーン使用の許可を求めます」
裁判官らは顔を見合わせ困惑した。検察側から事前に提出された証拠の中には映像媒体のそれは無かったからだ。そしてアメリカ代表以外検察官らのざわめきから、どうやら検察側の中でも事前に共有されていないのではないかと気付く。裁判長がアメリカ代表を問いただす。
「証拠資料は事前に提出されたものしか……いえ、認めましょう」
裁判長は溜息をついた。
検察側が完全に暴走し始めた。もはや厳粛で厳格な法廷の空気は雲散霧消し、法廷にいような熱気が漂っている。大国の代表が検察席を乗っ取り、法廷の仔細が全世界に同時生中継されているこの状況では、うかつなことは言えない。被告を擁護していると少しでも勘違いされればどうなってしまうか分からない。目の前にいるこの異形の男はもはや全人類に敵視される存在であり、彼を糾弾することが全世界が共有する正義なのだ。
「それと傍聴席のマスコミの皆様。これから流す映像には大変ショッキングな内容が含まれていますので、一時的に放送を中断するなど然るべき措置をお願いします」
裁判席の後方に設置されたスクリーンに映像が映る。
「これは我が国の調査機関が極秘に入手した。火星のコロニー内部の映像です」
変色した目元の皮膚にツノ、白髪交じりの皺の多い男の遺体が、数人に運ばれている。病院服のような簡素な作りの死に装束の胸元には、Kristofer Johnsonと書かれた名札。映像の角度や微細なぶれ、虫の羽音のような小さな雑音から虫型のスパイカメラドローンで撮影したものであろうことは容易に想像がついた。
コロニー特有のチューブ状の廊下を抜けると大型の機械の前で止まり、傍らの数人が遺体の死に装束を脱がした。さらにストレッチャーから担ぎ上げた遺体を機械の中に置くとその蓋が閉まる。
機械の駆動音と、水分を含んだ柔らかい物体を引き裂き、それと硬い物体を砕くようなくぐもった音。
今度はコロニー内の調理室の映像に切り替わった。
7、8人の火星人が顔を覆うマスクと、ツノで歪に膨らんだ帽子と調理師服に身を包んでいる。容器を抱えた一人の火星人が別の調理師の前にそれを置き、蓋を開けたところで映像がストップされ、画面が拡大した。容器の側面と挽肉を包むビニールラップにはそれぞれKristofer Johnsonとペンで書かれている。
さらには長机が所狭しと並ぶ大きな食堂で、ハンバーグのような肉料理を頬張る火星人達が映る。
「資料は以上となります」
法廷の空気は凍り付いていた。少し突いただけで破裂する風船のような緊張感が全体を支配している。
「簡潔に申し上げましょう。火星では亡くなった方の遺体を粉砕機にかけ、調理し、他の植民者の摂る食事として提供していた疑いがあります」
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