217話 噂話

 矢沢は既に外出準備を終えていたが、昼になってもラナーが部屋に来ることはなかった。まさか約束を放り出したわけではないが、それにしては遅すぎる。


 もしかすると、既にスパイだとバレて対応を協議されているのかもしれない。軍や治安維持警察の類が外を包囲しているかもしれない。酒に溺れるヘマをやらかした上、潜入先は王族の屋敷だ。いつバレていてもおかしくない。


 特殊部隊の経験者ではあるものの、任務内容はほとんどが臨検や島嶼部への浸透といったもので、諜報活動は座学程度に留まっている。そのツケがここで回ってくるなど、現役時代は全く考えも及ばなかっただろう。


 こんな時に諜報活動のプロである波照間がいてくれればよかったのだが、彼女は別の主要都市での諜報活動に回している。無いものねだりをしてもしょうがない。


 それだけでなく、アセシオンと対立する周辺国の緊張が解ければ、すぐにでもあおばをアモイ浸透の支援に回させるのだが。


 窓の外の代わり映えしない景色をじっと眺めていると、やっとドアがノックされる音が響いてきた。

 数時間も警戒しっぱなしで疲れが溜まっていた矢沢は、軽く「どうぞ」とだけ返す。


 入ってきたのはラナーだと思ったが、そうではなかった。例の褐色王子、ジャマルだった。彼は屋敷にやって来た時より表情が硬かった。何かを警戒していると言ってもいい。


「お邪魔するよ。君は確か、ネモと言ったね」

「ええ」

「君はどこから来たんだい? アセシオン? アルトリンデ? もしくは別の人族の国かな」


 やはり来たか。矢沢はごくりと息を呑んだ。


 ジャマルは探りを入れてきている。どこか目が厳しいのも、スパイを疑ってのことかもしれない。


 なるべく警戒している素振りを出さないよう、水差しから入れていたコップの水をあおって答える。


「シュミードというところです。今はアセシオンの領地になっていますが」

「シュミード……? なんだ、知らないのかい? シュミードは解放されたんだ」

「解放? どういうことですか」


 ジャマルの言葉は矢沢の斜め上を行った。シュミードが出身地だと答えると、そこは解放されたのだと説明したのだ。


 もちろん、矢沢はそのことを知っている。ダリア領を解放したアセシオンは、領土維持が困難という理由で3つの小国を独立させている。そのうちの1つがシュミードだ。フランドル騎士団の人員の半分がこのシュミード人で埋められている。


 ジャマルはさらに神妙な面持ちをしながら続ける。


「アセシオンは負けたんだ。それで4つの国が独立しているらしい。本当に知らないのかい?」

「確かにアモイに来たのは少し前ですが、理由わけあってアルトリンデに行っていました。そのことは存じていません」

「そうか……じゃあ、灰色の船の噂も知らないんだな」

「灰色の船、ですか」

「アセシオンは、その灰色の船と呼ばれる異形の海賊船に敗北したと伝え聞いている。その名の通り灰色の船で、マストもなく魔力も使わずに世界のどんな船より速く航行でき、更には狙った獲物は逃がさない、どこまでも飛ぶ槍で敵を殲滅するのだとか」

「……本当に実在するのだとすれば、恐ろしい話ですな」


 矢沢は動揺していることを読まれないように水差しへ目をやり、コップに水を注いだ。


 やはり、あおばの噂はアモイにまで届いている。そして、ジャマル王子はあおばに対し強い警戒感を抱いているのだろう。


 それもそのはずだ。アセシオンは人族国家の2大巨頭の片割れで、奴隷の取り扱いも盛んだ。その先進国が倒されたともなれば、その相手を警戒しないわけがない。


「恐ろしいなんてものじゃない。その海賊船は奴隷の解放を旗印にしていてね、この国の脅威になると中央は大騒ぎさ。外から来た人族の君なら何か知っているかもと思ったけど、知らないんじゃしょうがない。悪かったね」

「いえ、恐縮です」


 矢沢は抑えめに言い、軽く頭を下げる。


 本当なら、あおばについてどこまで情報を得ているのか聞きたいが、そこに突っ込んでは逆に怪しまれてしまうかもしれない。


 だが、一方で『ネモ』として聞くことができる質問がある。このジャマルという者が敵になるか味方になるか、それを見極められる質問が。


 ジャマルが手を小さく振って退室しようとしたところに、矢沢は重々しく質問を投げかけた。


「あなたは、奴隷に関してはどう考えていらっしゃるのですか。私は奴隷にされた友人を助けたいと願い、この国に足を踏み入れました。失礼でなければ、あなたの奴隷に対する考えを、聞かせてほしいのです。彼らは道具なのか、それとも人なのか、はたまた別の何かなのか」

「奴隷について、か……」


 ジャマルは振り返ると、腕を組んで天井に目線を投げかけた。しばしそうして考え込む仕草をした後、おもむろに口を開く。


「奴隷は必要だ。アモイは人手が足りないんだよ。一般的にエルフは労働を恥辱と考えるから、どうしても労働力を奴隷に求める。みんなそれに慣れてるから、今更そのスタンスを変えるわけにもいかないし、変えようとしたところでみんな反対する。それでなくたって、私たちはジンに嫌われているんだ。とにかく国を強くしていかないと、いずれジンに倒されてしまう。奴隷は彼らへの人質の意味もある。奴隷解放の運動は私たちにとって一番憂慮すべき問題なんだよ」

「……それは国内事情の話では? 私はあなたに聞いているのです」

「私に、か」


 ジャマルは一瞬キョトンとした表情を見せるが、すぐに取り繕って神妙な面持ちに戻る。


「国を持たせるためには奴隷がいる。だから私も奴隷を使うことには賛成だ。けど、彼らに乱暴を働いたりとか、そういうことはしたくない。彼らは社会の底辺ではあるけど、それでも国を成す要素であることには変わりないからね。基礎が揺らげば建物は崩れ去る。私はいずれ王位を継ぐ者として、奴隷も奴隷制も守っていかねばならないと、そう思っているよ。僕自身、恋の奴隷でもあるしね」


 ジャマルは最後にニタニタと下卑た笑みを浮かべていた。そこはさすがに冗談だろうが、その前の言葉は全て彼の本心だろう。


「そうですか。ありがとうございます」


 矢沢は再度頭を下げた。最低限の社交辞令ではあったが、それでも内心では絶望と言っていい失望感を覚えていた。


 確かに奴隷の扱いについては人道的な方だが、奴隷自体は賛成らしい。


 徹底的な現実路線。まさに為政者の思考回路だ。


 ほとんど傀儡として据えられていたアセシオンの王や政治的見地が欠けていたヤニングス、自分の利益ばかり追い求めていたサリヴァンらとは違い、このジャマルという者は極めて手ごわい相手だ。国王次第では、かなりの強敵になるかもしれない。


「じゃ、私は失礼するよ。ラナーからプレゼントも貰ったし、何より久々にゆっくり話ができてよかった。あの子は私の妹だけど未来の嫁でもあるから、君は唾つけちゃダメだよ」

「私には妻子がいます。この歳になって再婚したいとも思いません」

「……つくづく、人族の寿命の短さには同情するよ」


 ジャマルは憐れみをはらんだ目で矢沢を一瞥すると、丁寧にドアを閉めて部屋を辞した。


 まずは正体がバレなかったことを安堵したが、その次にやって来たのは、予想を超えたアモイの奴隷依存の実態への失望だった。


 奴隷は決して手放さない。それがアモイ王国の総意なのだとすれば、邦人たちはどうやって取り返せばいいのだろうか。

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