scene 12. My Foolish Heart Ⅱ
画面に映しだされている写真は昔のもののようで、警官の制服をきちんと着こんだボロフスキー刑事は記憶にあるよりもずっと若く、きりっと表情を引き締めている。
想像もしなかったことに驚き、言葉を失ったままテディはTVのボリュームをあげた。
『――は、ヤルミラさんに脅されて揉み合いになり、ヤルミラさんの持っていたナイフを奪って胸を刺したと供述しているということです。
警察は、マクシム・ボロフスキー容疑者がしばしば捜査から離れ、ひとりでホテルの周囲をうろつくなど不審な行動をしていたことから疑いを強め、交友関係を調べたところ、被害者のヤルミラさんと親密な関係にあったことが判明し――』
偶々ぶつかったのが殺人犯である可能性が高いとわかったときも結構な驚きだったが、自分の眼の前に立って話をした刑事が殺人犯だったと知った今の衝撃は、更に大きかった。
ということは、あの刑事は自分が犯人でありながら、素知らぬ顔で捜査に参加していたのかと身震いする。
『……おい、聞いてるか。ルカ――』と、だらりと下げたままだったスマートフォンから聞こえた名前を呼ぶ声に、ルカははっとしてそれを耳許に当てた。
「ああ、悪い。驚いた……まさか、あの刑事が――」
話しながらなんとなくテディのほうを見て、ルカは言葉を切った。
「テディ? どうした」
テディはなにか怖ろしいものでも見たように、血の気を失った顔を引き攣らせていた。『テディ? テディがどうかしたのか――』と、電話の向こうからユーリの声が聞こえていたが、ルカは応答せずにスマートフォンを持ったまま、立ち尽くしているテディに歩み寄った。
「どうしたんだテディ、真っ青だぞ」
そのときだった。誰かの来訪を知らせるブザーが鳴り、同時に早く開けろと急きたてるようなノックの音が、分厚いドア越しにくぐもって聞こえた。
ふたり同時にはっとエントランスのほうを向く。なんだ、いったい誰だとルカは、エントリーホールの壁に設置したインターコムのモニターを視た。
「――ロニー?」
小さなモニターには、ジー・デヴィールの事務所、ポムグラネイト・レコーズの運営者兼チーフマネージャーであるロニーと、制服姿の警官が映しだされていた。よく見ると、その背後にもうひとりスーツを着た中年の男もいる。
ルカは首を傾げながらロックを外し、ドアを開けた。
「ロニー、いったい――」
「ルカ!! よかった無事だった! ……もう、なんで電話にでないのよ! テディもいるわね!? ああもう、ほんとにどれだけ心配したか……!」
そう云いながら泣きそうに表情を崩すロニーを見て、いったいなんなんだとルカが困惑していると、その脇をすり抜けるようにして警官が部屋を覗きこんだ。そして手にしていた携帯電話で「証人は在宅、ふたりの無事を確認しました。異常ありません」などと、誰かに報告をする。
無事とはどういうことだろうと、ルカは途惑いつつロニーの顔を見た。
「無事とか心配とか、いったいなんのことを云ってるんだ?」
「なんのことって……呆れた、なに呑気なこと云ってるのよ! あんたたち、殺人犯に狙われてたかもしれないのよ!?」
「え――」
そこへこほん、と咳払いひとつして、スーツ姿の男が一歩前に出た。
「いや、驚かせてすみませんね」と云いながら、男はあのときボロフスキー刑事がしたのと同じ仕種で、バッジと身分証を見せた。
「ルカ・ブランドンさん。カルロヴィ・ヴァリのホテル・インペリアルで、男とぶつかって服に血のようなものがついたと、黒いコートを提出されましたね?」
「ああ、うん」
厳密に云うと提出したのはテディだが、ルカは頷いた。もちろん、警察が来るのがそのことに関して以外にないことはわかっている。だが、ロニーの云った言葉の意味までは、まだぴんとこなかった。
「鑑識の結果、コートに付着していた血液は被害者のものと一致しました。実は、我々はボロフスキーの行動がどうも怪しいと目をつけていまして……調べたところ、被害者との関係や動機が判明して、重要参考人として取り調べていたんですが――」
「ああ、うん。今ニュースで視てたところだよ。でもそれがどうし――」
「ルカ……俺たち、危なかったんだよ。運が良かったんだ。ルカがメモを失くしたり、面倒臭がったりしたから……」
テディがいつの間にか傍に立っていて、独り言のように呟いた。だがやはり、さっぱり意味がわからない。ルカは眉間に皺を寄せ、テディに向いた。
「危なかったって、なにがだ?」
「わからないの?」
テディはルカを見つめ、ぎゅっと袖を掴んだ。「もしもルカが、ぶつかったことをうっかり忘れてたりメモを失くしたりしないで、コートに血がついてたことをボロフスキー刑事に云ってたら――」
ルカははっとした。
「え――」
「ええ、そうらしいんです」と、スーツ姿の刑事がテディの言葉を受け、続けた。
「ボロフスキーはあなたがたの周りを張りこんでいたようなんです。初めはそのことについて問い詰めてもなにも云わなかったんですが、エレベーター前の映像を見せてコートの血痕の話をすると、観念したようにブランドンさんたちをどうにかする必要があるかもと、見張っていたことを白状しました」
ロニーが胸に手を当て、怖ろしいものを避けるようにきゅっと目を閉じる。しかしルカは、まだ半信半疑で当惑していた。だが――
「ほら、部屋を出ようとしたとき……」
テディの言葉でようやくそれを思いだしたルカは、思わず「あっ」と声をあげた。
「それで、ブランドンさんにもお話を伺う必要があるということで、ホテルに登録されていた電話番号に何度かおかけしたんですが、でられなかったんで……。他におふたりいらしたのは把握してましたが、そちらは電話番号がわからない。で、あのジー・デヴィールの方だというのがわかったので、事務所のほうに連絡させていただいたというわけです……というのも、ボロフスキーは確保しましたが、その前になにか小細工をしている可能性もありましたんで……。とにかく電話が繋がらなかったので、こうして確認に来た次第です」
何事もなかったようでよかった。証拠品と証言などについては、またあらためて――と結んだ刑事の言葉に、ルカはまだ信じられないと首を横に振った。
「……小細工って……俺らをどうにかするって、なにを――」
「たとえば……車になにか仕掛ける、とか」
テディが云うのを聞いて、ルカがまさか、という表情になる。
「いま考えるとおかしかったよ……。なにか気がついたらって自分のモバイルの番号渡すとか……ホテルにはずっと警官もいたし、そんな必要ないじゃない。俺がドアを開けたあのとき、やっぱりあそこに隠れてたんだ……笑い声がしてから駆け下りていった足音、あれはあの刑事だったんだよ。俺らの様子をこっそり見てて、ぶつかったときの自分の特徴かなにかをもしも思いだしたりしたら、口封じするつもりだったんだ」
テディがそう具体的なことを云うのを聞いて、ルカも顔面蒼白になる。
「口封じ……いや、でも……そんな、まさか――」
結局なにも起こらなかったのだし――と思いかけて、ルカはそれに気がついた。
サーラが気を利かせてくれ、車は車庫にあったのだ。もしも他の客の車と同じに、屋外の駐車場かどこかに駐められていたら? もしもメモを失くさず、ボロフスキー刑事に電話をかけていたら? 証拠品のコートを受け取りに来たなどと云われ、部屋に入れていたら――
ルカが茫然とし、その場がしんとしたそのとき。手のなかでプルル、プルル……と電子音が鳴った。ルカはびくっと躰を竦ませ、手に持ったまま忘れていたスマートフォンを見た。
どうやら応答せずに放ったままだったのをユーリがいったん切り、かけ直してきたらしい。ルカは受話器のアイコンをタップし、電話にでた。
「ああ……悪い、今、ちょっと警察が来てて……」
『こっちも来てた。おまえが電話にでないっていうんで、いま話してたって云ったらほっとされたぞ。いったいなにやってたんだ』
どうやらユーリのところにも警察が来たらしい。こちらにいる刑事たちもとりあえず用は済んだようで、ロニーが「本当にお騒がせしました、ごくろうさまでした」と神妙な態度で帰っていくのを見送っている。
「別になにも……っていうか、なんだか俺らが狙われてたとか……、おまえもまさかと思うだろ?」
『俺も驚いたが……まあ、ありえないことじゃないと思うぞ。ニュースを視てて気づいたが、警察の連中はいつもふたり以上で動くのに、あの刑事はひとりで部屋に来たしな。おまえがもしぶつかった奴のことをなにか云ってたらやばかったかもな』
ユーリにまでそう云われても、ルカはまだ自分が狙われていたとまでは信じられなかった。
そうだ、あの刑事は、非番なのに近くにいたから捜査に駆りだされたと云っていたではないか。きっとそれでしょうがなく、ひとりで捜査をして――否、しているふりをしていたのではないか。
コートの血痕は確かにあのときぶつかった男が殺人犯であったことの証拠にはなるのだろうが、あのときの男がボロフスキーだなどと自分にはわからなかったのだから、まさか口封じとか、そこまでは……と、ルカは自分の身に起きたかもしれないことを必死で否定しようとしていた。だが――
「ああもう、ほっとしたら喉が渇いちゃった。すぐに帰るけど、そのまえになにか一杯ちょうだい」
そう云うロニーをテディが「うん。入って」と促し、一緒にリビングに戻ると――現職の警察官が殺人事件の被疑者として逮捕されたというニュースはやはり衝撃的なのか、TVの画面にはまだあのホテルを正面から撮った映像などが映っていた。そっちに顔を向け、画面が変わり映しだされた写真を見ると、ルカはぴりっと電流が走ったようなショックを受け、立ち止まった。
テディとロニーが倣って足を止め、どうしたのかとルカの表情を窺う。
スマートフォンを耳許に当てたまま、ルカはTVの画面を見つめ、云った。
「――なあテディ、ユーリ」
ニュースは警察官として活躍していたボロフスキーがどのような人物だったか、同僚の証言を流しながら警官時代の写真を大写しにしている。同僚と肩を組んでにっこりと笑っている、若き日のボロフスキー。その顔には、一度見たら忘れないであろう、ある特徴があった。
「俺……思いだしたよ。あのぶつかった男、顎に大きな
ルカと並んでTVをじっと視ながら、テディが云った。
「うん……ちょうどあの黒痣があるあたりに、絆創膏が貼ってあったよ……。俺、非番なのに呼ばれて、慌てて髭剃ったときに切ったのかなって思ったから、憶えてる」
「絆創膏……」
ルカはそんなことを憶えてはいなかった。というより、気づいていなかったのだろう。
「じゃあ、やっぱり……俺が面倒がらずに、ぶつかったことやコートの血のことや、もしも黒痣のことをしっかり覚えてて、それを云ってたら……」
「……自分がそうだって気づかれる前にって、署で話を聞かせてくれとか云って、どこかに連れていかれて殺されたりしたんじゃないかと思う……考えたくないけど」
やめてよ、ほんとに考えたくないわそんなこと、とロニーが云い、テディがごめん、と苦笑する傍らで――ルカは、急に脚ががくがくと震えだすのを感じ、膝から崩れ落ちるように床に坐りこんだ。
『――面倒臭がりで命拾いしたな、ルカ』
ことんと床に落としたスマートフォンから、皮肉っぽいユーリの声が聞こえた。
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