scene 1. カブリオレで行こう Ⅱ

 プラハから車で走ること約二時間。ボヘミア地方西部に位置するカルロヴィ・ヴァリはカールスバートというドイツ語名でも知られ、嘗てはプロイセン王フリードリヒ一世やマリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフ皇后エリーザベトなどの王侯貴族をはじめ、ゲーテ、トルストイ、ベートーベン、ショパンなど多くの著名人もやってきたという、由緒ある富裕層向けの温泉保養地である。

 緩やかな弧を描くテプラー川沿いに十八世紀から十九世紀末頃の建物が並ぶ美しい街並みは、ケーブルカーで山頂まで行けば、豊かな森に囲まれたその全貌を展望塔から見渡すことができる。が、この季節は街中こそ舗道は乾いているものの、山は粉砂糖をふるったように雪化粧をしており、山頂にあるレストランもクローズしていることが多いようだ。

 地中深くから湧き出る温水が流れ込むテプラ―川は、方々でうっすらと湯気が立ち昇っている。その湯気のヴェールの向こうには色とりどりの建物が建ち並び、その前に伸びる石畳の舗道を馬車が往く。

 まるで絵本の中から抜けでてきたような街には到る処にスパカップ、即ち温泉水を飲むため持ち手部分がストロー状になっている陶器のカップを売っている露店がある。ここを訪れる観光客のほとんどは、様々なデザインのスパカップを買い、十二の源泉が湧き出るコロナーダと呼ばれる飲泉所を巡るのだ。



 何度か来たことがあるというユーリがルカに替わってハンドルを握り、曲がりくねる山間の道を越えるとようやくカルロヴィ・ヴァリの街に辿り着いた。

 賑やかな場所を通り抜け、テプラー川を渡るとメインストリートらしい広い舗道に、何組かのカップルや家族連れが歩いているのが見えた。

「プラハとはまた違う雰囲気だね、いい感じだ」

 ずっと景色を眺めていたテディがそう云うと、ルカは頷いた。

「ああ、なんかダンツィヒに似てるな。あそこは港街だけど、こう、川沿いにカラフルな建物が並んでてさ」

「うん、川のある街ってやっぱり好きだな……。ダンツィヒって?」

 テディがどこだっけ、と首を傾げていると、ユーリが答えた。

「グダニスクのことだ、テディ」

「あ、そっか」

 車は道なりに右方向へと進み、細い道へと入っていった。進むにつれ急になっていく坂道を登っていくと、軒を連ねていたブティックや宝飾店、レストランなどの店舗がぽつりぽつりと減っていき、かわりに立派な佇まいのホテルが多く目につき始めた。

 やがて、そのなかでも特に立派なアール・ヌーヴォー様式の建物が見えてくると、後ろからルカが手を伸ばして「あれだ。あのホテル」と云いながら指さした。ユーリは黙って頷き、そのホテルの前で車を停めた。

 すぐに制服に身を包んだホテルのドアマンが近づいてきた。三人は車から降り、荷物を任せた。ルカは車のキーと一緒にさりげなくすっとチップを渡し、云った。

「予約したヴァレンタインだ」

「ヴァレンタインさまですね、お待ちしておりました。ラグジュアリー・スパ・ホテル・インペリアルへようこそ」

 ご案内いたします、と荷物を持って先を行くドアマンについて歩きながら、テディは「なんでヴァレンタイン……」とルカの顔を見た。

「いいだろ別に」

 フロントでチェックインを済ませると、ラウンジにてウェルカムドリンクとケーキのサービスがございますと云われたが、ルカはそれを断った。嵩張ってしまうので着たままでいるダウンコートを、早く脱ぎたかったのだ。

 サングラスだけ外し、真っ白な壁とシャンデリアが吊るされた高い天井が醸しだす優雅な雰囲気の空間をポーターについて進んでいくと、臙脂色の絨毯が敷き詰められた廊下に出た。奥には階段と、その脇に半円形の外側にあるローマ数字の階数を針が示す、クラシカルなスタイルのエレベーターがあった。

「お部屋はお二階でございます」

 ポーターがエレベーターのボタンを押しながら三人を促し、ユーリ、テディの順に乗りこむ。ルカもそれに続こうとすると、なにやらカカカカ……と、忙しなく階段を下りてくる足音が聞こえた。

 なんの気なしに、ルカがその足音のほうを向くと――

っ!」

 帽子を深々と被り黒いサングラスをかけた男が、どんっとルカにぶつかった。

 ルカは思わず声をあげ、ぶつかったまま勢いよくエレベーターの前を過ぎた男を見た。男も立ち止まり、こっちを振り返っていた。しかし男はなにを云うこともなく、エントランスに向かって足早に歩きだした。

「くそ、謝るくらいしろよな……」

 ルカはむっとして男の去っていったほうを見ていたが、ポーターが「大丈夫ですか?」と尋ねる声に振り向き、エレベーターに乗った。





「――部屋はいいけどさ、見晴らしがよくないよ。もう少し上か、できれば最上階の部屋に変えてもらえないか」

 何故か上層のフロアにある部屋が好きなルカの我が儘に、テディとユーリは苦笑しながら視線を交わした。若いポーターは困った顔で「申し訳ありません」と説明した。

「ただいま客室のほうはお二階だけしか使用してないのです……その、今、この時期は閑散期でして――」

「いいじゃないルカ、別にここで」

「あんまりしつこいと、なんとかと煙は……って云われるぜ」

 テディとユーリはそう云ったが、どうしてもルカは二階なのが気に入らない。

「そう云わないで、いちおうフロントに訊いてみてくれよ。繁忙期の二倍の額を払うから」

 ルカがそう云い、その手に追加のチップを握らせると、ポーターは「じゃ、じゃあいちおう……訊いてきますので、少々お待ちください……」と云って廊下に出た。すると――

「なあに、どうかしたの」

 さっきのドアマンと似たデザインの制服を着て、襟元にスカーフを巻いた女性スタッフが部屋の前を通りかかった。ポーターがルカの希望を伝えると、その女性はきりっと姿勢を正し、開いたままのドアをノックして「失礼いたします」と部屋に顔を出した。

「大変申し訳ございません、お客さま。ご希望のお部屋の変更でございますが、ただいまあいにくと――」

 女性はそう云いかけて――ルカの顔を凝視したまま目を丸くして固まり、言葉を切った。

「ええ、どうしても無理ならもう他へ行くから、キャンセル――」

「る、る、る、ルカ・ブランドン!?」

 大きな声をあげ、すぐにはっとしたように女性は真っ赤になった顔を伏せ、謝罪した。

「しっ、失礼いたしましたっ! た、たたたた、大変っ、申し訳ございません!! お、お、お、お客さまのお名前を、その――い、いや、あのえっと、お、お部屋の変更でございますねっ! たっ、直ちに当ホテル自慢の、最上階のエグゼクティヴ・スイートルームをご用意いたしますので、しょ、しょしょしょ少々、お待ちくださいませ……っ!」

 おそらくジー・デヴィールのファンなのだろう、驚き焦って噛みまくる女性にテディとユーリが顔を見合わせくすっと笑う。すると、ヴォーカルのルカだけではなくベースとドラムのふたりもいることにようやく気がついたらしい彼女が、「へぁっ!?」と奇妙にひっくり返った声を漏らした。

 ルカは素知らぬ顔でテディに向き、云った。

「スイートルームか、それならいちばんいい。ぜひお願いするよ……ほら、云ってみるもんだろ? テディ」

 テディはルカに近づきながら伊達眼鏡を外し、にこっと微笑んだ。

「うん、よかったねルカ。……じゃあ、どうしよう? この部屋出て、ラウンジで待ってたほうがいいのかな」

 ねえ? 小首を傾げてテディが女性スタッフを見つめると、彼女は腰が砕けたかのように、へなへなとその場に坐りこんでしまった。

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