切り取られた五分間

アサツミヒロイ

女の持つ時計

その時計は一日に一度だけ、針を戻した分、最大五分間、時間を戻すことができる。

祖父から譲り受けたもので、持ち主の女は日常に起こる些細な後悔を拭うために、度々その時計を使っている。

朝寝坊をして、まず迷う。使えるのは一日に一度だけだから、こんなことで使ってしまっていいのかと、また迷う。迷っている間に時間は過ぎていく。

「駅まで走れば間に合うんだから、寝坊して使うなんて」

たいていこんなくだらないことに関しては、迷いはすれども使うことがない。女は急いで支度をし、家を飛び出した。


自分のために使うことはあまりないと、女は思っていた。


急いで職場に向かう道すがら、女はふと駅の改札近くにひとつ、綺麗なハンカチが落ちているのを見つける。混雑している駅構内で、それはまだ汚れておらず、誰にも踏まれたりしていないように見えることから、落としたばかりであろうと予想された。けれど、落とした人がわからない。

女はこういう時にこそ、本当に迷う。

落としたばかりのものならば、時間を戻せば持ち主が立ち去る前に返せるかもしれない。もしかしたらすごく大切なものかもしれない、このまま放っておけばひどく踏みつけられてしまうかも、もしかしたら引き摺られてどこかにいってしまって、捨てられて、持ち主のもとに戻れないかもしれない。

女はこういった些細に思えるようなことで、気を揉む人間だった。


女は結局、そこで時計のねじを回す。じっと時計だけを見つめて、長針を五分ぶんだけ、ゆっくりと戻す。そして、目を閉じる。


騒ついた駅構内の音が、ふと遠くなったような気がして、目を開くと、女が少し前に歩いていた場所へと戻っている。改札近くまでは、あと少し。

女はそれまで以上に思い切り走り、あのハンカチが落ちていたところまで辿り着く。そこにはまだ、何も落ちていなかった。息を酷く荒くしながらも、女は安堵する。そして、間もなく誰かがハンカチを落とすであろう場所を、注意深くじっと見守る。

それからとあるサラリーマン風の若い男が、あのハンカチをカバンから落としてしまった。男は気付かず、改札に向かう。女はすかさず駆け寄り、男に声をかけて、そのハンカチを渡してやることができた。

「あ、ありがとうございます!」

男は驚きながらも礼を言う。

「いいえ、渡せて良かったです」

女は遅刻ギリギリだったため、そんなやりとりもそこそこに、急いで職場へと向かう電車に飛び込んだ。


女がしたことはほんの些細な、世の中の流れや自分の今後にとってはどうでもいいことかもしれない。けれど立ち止まってくよくよする性格の女は、こういう小さな後悔をこそ拭うために、この時計を使っていた。




女はある日突然、不思議な出来事に見舞われるようになる。

どこかへ行こうと行動した訳でもないし、もちろん眠っていた訳でもない。それなのに、いつの間にかそれまで居た場所ではないところに居たり、時間が妙に進んでいたりする。

時計に変わったところはないように思う。おかしいのであれば、自分のほうである。けれど、時間に関することで、自分がおかしくなってしまった心当たりは、その時計くらいなものだった。

女は怖くなって、その時計を持ち歩くことをやめた。



ある日、また気付いたときには違う場所に居た。それも、今度は見覚えのない街だった。

街は薄暗く、ひどく寂れている。古い商店街のようなそこは、どこもシャッターが降りていて、人の気配がない。

「何よ、ここ……どこ? もう、どうなってるの……」

女が途方に暮れて彷徨っていると、一軒だけ明かりがついている店を見つける。古ぼけた時計屋だった。

とにかくここがどこなのか帰り道をたずねようと、女は店に入ることにした。


狭い店内に、いくつかガラスのショーケースが並べられている。しかしそのほとんどは空で、腕時計や懐中時計が数点、ぽつりぽつりと置いてあるだけだった。

奥のカウンターに男が一人。女と同年代くらいの、穏やかそうな男だった。

男は女に話しかける。

「おや、珍しいお客様ですね。修理のご依頼ですか?」

その言葉を聞いてふと自分の手元を見ると、いつの間にか女はずっと持ち歩かないようにしていたあの腕時計を握り締めていたようだった。

女はいよいよ怖くなってきてしまったが、もしも時計が壊れていて、それが原因で異変が起きているのならばと、どこか何かを見透かすような目をしたその店主らしき男に修理を頼んでみることにした。

店主はその時計を見て「ああ、少し歪んでしまっているみたいですね。大丈夫、直せますよ」と言う。

女はその時計の不思議な力について話すか迷い、しかし気味悪がられるだけだと話すのをやめる。店主は時計を怪しむこともなく、細かい部分をチェックしている。やがて慣れた手つきで時計を分解し、修理を始めた。もちろん男は時間を戻せるねじにも触れていたが、何事か起きている様子はなく、着々と作業を進めているように見えた。

「随分と大切にされているのですね」

「どうしてそう思われるんですか?」

「違うのですか?」

「いえ、確かに大事に使ってはいました。でも、もう随分と細かい傷とかもついちゃってますし……」

「品物じたいは、相当古いものですからね。使ううちについた細かな傷は、むしろこの時計を彩る飾りですよ。それに……すごく熱心に、修理の様子を見つめているものですから。大切なものなのかな、と」

「ああ、いえ、すみません! じろじろと見てしまって……」

「いえ、構いませんよ。あまりそう見られることもないので、少し緊張してしまいますが」

そう言う店主は、変わらず飄々としていて、緊張しているようには見えない。底の知れない人だと、女は思った。


時計の内部構造などには詳しくない女は、店主が何をしているのかはわからなかったが、着々と修理は進んでいるように見えた。

「退屈でしょう」

店主の手元をじっと見ていると、彼はそう言った。

「いいえ、職人さんの仕事なんてなかなか見られませんから、なんだか楽しいです」

と女は返す。

優雅な手つきで作業をこなす店主。内部に入っていた石のようなパーツを、机の上にあった皿のような装置に乗せると、それはぼんやりとした光を帯び始める。不思議なその光景に、女はつい身を乗り出すようにする。

「それは、何をしているんですか?」

「……この子は少し、長く働き過ぎたようですから。休ませてあげている、というような感じでしょうか」

「時計も、疲れるんですか?」

幼い質問だと思いながらも、女は問う。

「ええ。普通の時計であれば、ただ時を刻むだけですが、この子はどうやら何か、たくさんのものを抱えていたようですね」

店主のその言葉は、何も知らぬ人が聞けば、訳がわからないだろう。けれど持ち主である女には、心当たりがたくさんある。その時計の力について女は何も話してはいないというのに、何もかもわかっているような店主の言葉に、女は全て話してしまいたくなる。


「……その時計、ねじを巻くと、不思議なことが起きるんです」

「不思議なこと、というと?」

「一日に一度、五分間だけ、時間を戻せるんです。時計の、じゃありません。世界が、五分前に戻るんです」

いざ言葉にしてみると、それはあまりにも壮大な話で、女は少し恥ずかしくなった。けれど、これは現実に女の身に起きていることである。

「最初は私も、何が起きてるのかわからなかったんですけど。その時計の長針を五分ぶんだけ戻すと、いつの間にか時間が戻っていて、さっき五分前に起きたことが同じように繰り返されるんです。……私はちょっと、鈍くさいというか。ああすればよかったとか、ああ言えばよかったとか、後になって思うことが多くて。そういうとき、私はその時計で、『やり直し』をするんです。まあ、そんな大それたことはできないんですけど……この前も、駅に落ちてた綺麗なハンカチが気になってしまって、落とし主が困ってたり悲しんでたりしたらどうしよう、この時計を使えば、返せるかもしれないって。そのときはちゃんと落とした人を見つけてお返しできたので、良かったんですけどね。たまに五分戻したところで、何もできないこととかもあって……」

女は一気に話したが、その声はだんだんと小さくなっていく。

「ごめんなさい、こんな話。信じられないですよね。バカみたいですよね」

「いいえ、そうは思いませんよ」

「信じてくれるんですか?」

「ええ」

「……そうですか」

店主はさほど驚いた様子もなく、ただ女の話を信じると頷いた。女も何故か、店主がお世辞を言ってくれているわけではないような気がした。


「直りましたよ」

しばらく経ってから店主はそう言い、女に時計を返した。

女は礼を言い、時計を受け取ろうとする。そのとき、店主が告げた。

「お気をつけて」

「え?」

穏やかだった店主の、一変してひやりと突き刺すような声に、女は驚く。店主は続ける。

「何事にも、代償はつきものです。この世は、何かを失うことで、何かを得るようにできている。どんなに小さなことでもそうです。息を吸い込んで、吐きながらでなければ、こうして言葉を紡ぐことができないように。私がこうしてあなたとお話するには、あなたの生きる時間を使わなければならないように。あなたが何か大切なことを成そうというとき、必ずあなたは大切な何かを失っていきます」

店主の話はとても当たり前のことのようでいて、女の心の中のずっともやがかっていたところを確実に探ってきていた。

「それでもあなたは、この時計を使いますか?」

「私は……」

迷う女に、店主はそれまでの冷徹な表情を和らげ、ふと微笑む。それは女を安心させるためのものでもなければ、もちろん何かが可笑しかったからでもない。何かを見透かし、そして何かを押し黙らせるような、不可思議で少し恐ろしい笑みだった。

「失礼しました、余計なお節介でしたね。どうかお許しを。本日はご来店ありがとうございました」

「あ、こちらこそありがとうございます。お代は……」

「いえ、お金は結構ですよ。『いただくものは、もういただきましたから』」

「え?何もお渡しはしてませんが……」

「いいえ、受け取りました。『あなたの時間』を」

「は、はあ……」

女は釈然としないまま、時計を受け取る。それから、ハッと気が付いた。

「そ、そうだ、帰り道! 私、迷ってここについて、道がわからないんです」

「そうでしたか。お帰りは店を出て右手に。真っ直ぐ進めば、駅近くの大きな通りに出られますよ」

「ありがとうございます」

女は丁寧に頭を下げ、店を後にする。男の言葉の意味を、考えながら。

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