第9話:アーニャ、落ち込む

 ジルがエリスと作業部屋へ移動する頃、猛スピードで一気に階段を駆け上がったアーニャは、二階の一番奥の部屋の扉を開け、バンッ! と勢いよく閉めた。ゼエゼエと乱れた呼吸を整え、閉めたばかりの扉にもたれかかる。


 いったい自分は何から逃げてきたんだろう、と疑問に思いながら。


 実際に思い出してみると、ジルが上目遣いで見上げてくる姿が脳内再生され、ボンッ! と頭から蒸気が出てしまう。偶然にも、勇気を出したジルは涙目になっていたこともあり、それがまた、アーニャの心に突き刺さっていた。


 もう一度、あわわわっと口が開いてしまうほどに。


(な、なんて純粋な目で感謝してくるのよ! エリスのばか~~~!)


 全ての責任を姉のエリスに押し付け、アーニャは自分の心を落ち着かせる。


 こんな気持ちを抑えるくらい、大人の女性であるアーニャには朝飯前のこと。いつもと同じように対応に失敗しただけで、恋ではないのだから。そう、決して恋ではない!


 純粋な男の子に感謝の気持ちを伝えられ、動揺しているだけである!


 ふと手元を見れば、ジルに腕を捕まれたことを思い出してしまうほど、頭の中には鮮明に残っている。多方面で黒い噂が流れているアーニャの腕をつかむ人は、滅多にいないのだ。


 いつも強気な自分を抑えてくれるのは、妹くらいであって……。


 妹のことを思い出したアーニャは、真っ赤になっていた顔から血の気が引いていく。落ち着いた……というより、冷静にならざるを得ない、というべきだろうか。


「本当に、あんたのためじゃないんだから。勘違いされても困るの。あのエリクサーは、妹のために……」


 ボソッと呟いた後、一人でいるには少し広い作業部屋で、アーニャは机に向かって歩き始める。少し複雑な気持ちに、頭を悩まされて。


***


 机に向かい合ったアーニャは、頭の中を空っぽにして、錬金術の準備に取り掛かった。


 午前中に行うことは、調合する薬草類の分量測定や、真水を小分けにすることがメイン。あとは錬金術ギルドの依頼であるポーション作りなどをパパッと作り、エリスに提出。午後は自分の家で作業しているため、手早く作業を済ませていく。


「はぁ、錬金術って面倒くさいわね。もう少しくらい大雑把に作っても、良い品質くらいできなさいよ」


 小言を言いながらも、アーニャは片目をつぶって、真水を入れたメスシリンダーのメモリを正確に読み取っていた。


 錬金術で作成するものは、正確な分量で作業を行うと、品質が向上されると考えられている。製作者が手を抜いたり、怠けたりした分、品質に影響してしまうのだ。そのため、優れた錬金術師ほど細かい作業に手を抜かない。


 わざわざアーニャが錬金術ギルドで仕分け作業をしているのも、理由がある。この部屋は能力の高い錬金術師用に設計されていることもあって、分量の測定ミスが起きにくいから。


 床と机が平行になるように定期的にチェックされており、凹凸もなく机がガタガタと揺れることはない。正確なメモリを読み取れるようにして、品質の良いアイテムができる環境を作るために、錬金術ギルドも必死である。


 作業によっては湿度も影響するため、部屋には温度計と湿度計も管理されている。火と水の魔石で作り出された、除湿も加湿もできる装置が部屋に備え付けられているだけでなく、カーテンには闇の魔石が組み込まれていて、太陽光を通さない。逆に、電球には光の魔石だけでなく、火の魔石を取り入れることで、擬似的な太陽光も作り出せる。壁には土の魔石を取り込み、防音や振動が起きにくい作りになっていた。


 錬金術の作業には最適な空間になっているのだが、アーニャはこの場所を嫌っている。


「なんでこんなに静かなのよ。本当にもう、イライラするわね」


 基本的にアーニャは恥ずかしがり屋さんの寂しがり屋さんであり、シーンとしている孤独の空間を好まない。周りが賑やかだったら、「うるさい!」と怒るようなタイプで、ちょっと面倒くさいが。


 そうやって心が乱れたときに、いつも精神を安定させてくれていたのは、アーニャの妹だった。ふとしたときに思い出すため、錬金術の作業中に集中力が途切れてしまうことも多い。


 とはいえ、今日はまだ作業を開始したばかり。いつも以上に心が乱れてしまうのには、大きな原因がある。


「本当に作ることができるのかな、を解くポーション。二年もポーションを作り続けて、呪いの侵蝕を遅らせるだけで精一杯だったのに」


 ポーションが出回っている世界とはいえ、稀少なエリクサーを手にすることは滅多にない。存在すら怪しいと言われ、見ることもなくこの世を去る人の方が多いほどの代物である。


 手に入れたアーニャも、天然もののエリクサーが偶然オークションに流れてきたため、金にものを言わせて競り落としただけ。破壊神と呼ばれるほどの冒険者だったアーニャは、手元にお金がたんまりとある。だから、迷うことなく大金を突っ込んだのだ。


 妹が呪いで苦しむなか、そんな稀少アイテムをエリスに譲ってしまうほど、アーニャは心優しい人間ではない。しかし、自分と同じような境遇で苦しむエリスに、過剰なまでに感情移入をしていた。


 エリクサーを渡さなければ、妹よりも強い呪いで寝込むエリスの弟は……と考えてしまうほどに。


 これには、友達ができない性格のアーニャと、エリスが親しい関係になったことも影響している。ジルが呪いから解放されたとしても、一緒に喜んであげられる気分にはなれないけれど、エリスには幸せになってほしいとアーニャは思っていた。


 まだ妹の呪いであれば、自分が頑張れば治療できる。それなら、私が頑張ればいいだけのこと。そう言い聞かせ続けたものの、心の弱さが出てしまう。


 エリクサーを譲ったことを、後悔していないと言えば嘘になる。でも、小さな命を見殺しにはできなかったわけで……。


「妹を呪いから解放させるための、エリクサーだったのよ。感謝なんてされても、嬉しくないんだから……」


 シーンとする作業部屋で聞き取れないほど、アーニャは小さな声で呟くのだった。

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