第25話有楽斎の頼み

 それは大井川の屋形船でも特に大きく豪華で『御屋形様船』と船頭たちの間で呼ばれている。もちろん船賃も相当値が張る。しかしこれほどの船で大井川しか渡らないとなると庶民は手を出せない。だから滅多に運航することもなく、余程の大名か商人しか利用しないのだ。それゆえ御屋形様船が出航する姿を見ようと多くの住民や旅人が船着き場に集まった。結果として大勢に見送られて雷次郎一行は大井川を渡河した。


 しかし甲板に出て観客たちに手を振るなどの行為を雷次郎はしなかった。普段の彼ならそうするであろう。だが今ははしゃぐ気分ではなかった。かつて愚かだった自分を変えた恩人であり、茶道の師である織田有楽斎と共にいるからだ――


「どうした雷次。下戸とは言わせねえぜ? それとも船酔いでもしたのか?」


 御屋形様船に比べたら劣るが、庶民が一生のうちに数度しか食べられないような贅を極めた料理がずらりと並んでいる大きな長方形の机。

 上座で鯛の刺身を一切れ取ってわさび醤油を漬け、口に運んで楽しんだ後、冷酒を飲む様は優雅そのものである。流石に千利休から台子点前を授けられ、礼法に熟知した有楽斎の所作だった。


「……いえ。いただきます」


 祖父や父に似て滅多に酒で酔わない――泥酔したことがない――雷次郎は有楽斎に注がれた盃を一気にあおる。その傍で雪秀と勝康は料理にも酒にも手を付けず、大人しくしていた。雪秀はともかく、勝康も静かにしているのは目の前の有楽斎が伝説の男だと知っているからだ。


 自身の父、徳川信康から一度だけ聞かされて、家臣からも何度も聞かされていた。

 曰く――茶人として達人。茶聖の千利休の弟子の中でも圧倒的に。

 曰く――大名として有名。高名な序列一位の織田家でも絶対的に。

 曰く――人間として際物。機を見るのに聡く誰よりも生き上手だ。


 それに加えて、徳川家の嫡男である自分を平気で殴ったり、気安く話しかけたり、父の信康から信頼されている雷次郎が緊張しているのを見て、それらが真実であると悟ったのだ。その嗅覚は勝康が生まれながらにして備わったものだった。


「実を言えば困ったことになってな。それでお前の力を借りたいんだ」

「俺なんかじゃあ力になれませんと思いますが……」

「はん。餓鬼の頃は無鉄砲で考えなしのはなたれだったのに。分別でも付いたのか?」

「それは……有楽斎様に鍛えられましたから」


 雷次郎の返答に「口は上手くなったな」と有楽斎は余裕で笑った。


「有楽斎様。一つ訊きたいのですが。どうして光と凜を別室に?」


 雷次郎の言うとおり、この場には光と凜はいない。

 有楽斎が「お前たちには別室を用意してある」と侍女に案内させたのだ。


「安心しろ。部屋の外には屈強な護衛を付けている。料理も俺と同じものを用意してあるしな」

「答えになっていませんが」

「お前、あの娘に自分の正体を明かしていないのだろう? これから話すことに差し支えるから分けたのだ。俺の配慮に感謝しろよ?」


 雷次郎の正体という言葉に勝康は首を捻った。自分はなんとなく誤魔化されているのは知っているが、仲間である光にまで明かしていないのはどうも分からなかった。

 そんな様子を見ていたのか、有楽斎は「信康のせがれ」と勝康を呼んだ。


「えっ? あ、なに……なんでしょうか?」

「お前も雷次の正体知らないだろう。いい機会だから聞いちまえ」


 興味がないと言えば嘘になる。

 勝康は首を縦に振った。隠居とはいえ自分の家よりも格上な者に対する返答ではなかったが、勝康にしてみればこれが精一杯だった。それを承知しているからこそ、他の三人は咎めたりしなかった。


「勝康……俺の名は雨竜秀成という」

「う、雨竜……!?」

「ああ。雨竜家の後継ぎだ。お前さんと一緒だよ」


 これには勝康も驚いた。

 雪秀のほうを見ると「本当です」と言われた。

 雨竜家の始祖、雨竜雲之介秀昭の伝説は、織田有楽斎よりも世に知れ渡っている。父の信康の命の恩人として語られることもある。

 そして――


「ど、どうして言ってくださらなかったのですか!? う、雨竜様!」


 思わず詰問してしまうのも無理は無かった。

 勝康はわがままで自分勝手な子供だが、幼いながらも雨竜雲之介を尊敬していたのだ。自分の父を救っただけではなく、数々の伝説を知っているからだ。


「もし、本当だとしたら……私が敬愛している方の孫だ……」

「なんだ。お前さんもお祖父さんの信望者だったのか」

「そ、そうです……!」


 一気に素直になった勝康の変化に戸惑いつつ「それで力を借りたいとは、どんな内容ですか?」と有楽斎に問う。


「三年前。俺とお前のじいさんの師匠だった千利休が亡くなっただろう」

「ええ。葬儀には行かれませんでしたが。親父殿が悲しんでおりました」

「その後、豊臣家の筆頭茶頭が山宗――山上宗二になった。これも知っているな?」


 雷次郎は頷いた。幼き頃、彼に茶をご馳走してもらったこともある。あの頃は茶の美味さが分からず「苦い!」と言ってしまった。山上は笑った後、少し薄めた茶と甘い茶菓子を用意してくれた。


「あの兄弟子は師匠の利休が死んだ後、深く落ち込んでいてな。気丈に振る舞っていたが覇気が無くなってしまった。それに病を患うようになった」

「それは、知りませんでした」

「御茶湯御政道を亡き兄上から引き継いでいる豊臣家だ。それを担う男の弱った姿を風評しないだろう」


 有楽斎は「それで話はここからだ」と笑いながら姿勢を崩した。

 雷次郎は逆に姿勢を正す。有楽斎が真面目な話をするときはそうやってわざと楽な体勢になるのを知っていた。


「山宗の奴、耄碌したのか自分が死んだ後の筆頭茶頭は一座建立を持って決めろと言ったのだ」

「それは……もてなしで決めろということですか?」


 有楽斎は頷いた。要は茶道の技量で決めろと言ったのだ。

 これはとんでもないことだと雷次郎は思った。

 万が一にでも非道な男が選ばれてしまえば豊臣幕府が崩壊してしまうかもしれない。それほど御茶湯御政道における筆頭茶頭の地位は重い。


「あの、有楽斎様が……」

「なる気はない。隠居したとはいえ序列一位の織田家の俺が筆頭茶頭になってみろ。均衡がたちまち崩れるぞ?」

「まあそうですね……」

「それに女と遊ぶ時間が減るし面倒だ」


 後から言った理由が本音だと雷次郎たちは感じたが、言葉には出さない。


「実を言えば元から参加する資格はない。山宗の指名で俺が審査することになっているからな。細かく言えば俺と長岡忠興と千宗旦の三人の入れ札で決める」

「その三人が選んだなら文句は出ないでしょう」

「それで、ここからが本題だが――」


 有楽斎は一呼吸置いてから――告げた。


「――山宗が十日前に亡くなった」

「…………」

「それで徳川家の領内の日坂宿で決めることになった」


 山上が亡くなったことも衝撃だが、すぐ近くで天下の大事が決められることに驚いてしまった雷次郎。

 有楽斎は雷次郎の動揺の隙を突いて言う。


「雷次郎、お前出ろ」

「……何をおっしゃるんですか?」

「筆頭茶頭を決める勝負の場――競茶会に出ろって言ってんだ」


 雷次郎は「冗談ですよね?」と確認する。


「序列三位の雨竜家の後継ぎが筆頭茶頭になるのは不味いでしょう」

「お前はまだ継いでいない。というより、そのためにお前の父は継がせなかったのだ」

「あの親父……」


 雪秀はようやく、だから秀晴様はそういう判断をなさったのかと得心した。

 有楽斎は「お前しか勝てぬ相手もいる」と言う。


「俺の弟子で、祖父譲りの感性を持つお前でないと勝てん。あの『奇人』は」


 雪秀や勝康はは有楽斎も十分奇人だと思っているが、それを上回るほどの男がいるのかと驚いた。

 雷次郎は「どなたですか?」と問う。

 有楽斎は格好つけるように笑った。


「千利休の弟子で『人真似をするな』の教えを守り続ける男――古田織部だ。あいつが筆頭茶頭になったら、茶道も泰平の世もめちゃくちゃになっちまうぞ」

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