第23話崩れた天気
「呆れたわ! いつ襲われてもおかしくないのに、遊郭で遊ぶなんて!」
「まったくだ! 主命を何だと思っているんだ!」
肩を怒らしながら先頭を歩く光と雪秀。
二人が怒り心頭なのは、明け方近くに帰ってきた雷次郎が「悪い。安倍川遊郭で豪遊してきた」と悪気も無く白状したからだ。
光はともかく、雪秀も怒っているのは目覚めたときに雷次郎がいなかったからだ。彼を兄貴分として慕っているので、不在と分かるとかなり動揺してしまった。すぐに風魔衆を呼び捜索させた――そんな最中、しれっと雷次郎はご機嫌で帰ってきたのだ。
「今後、勝手に出歩くのは禁止ですからね!」
「それだけじゃ足らないわ! どうしてくれよう!」
激怒しているのは雷次郎を心配していた裏返しからだった。
それを重々と分かっている日の本一の遊び人は何も言えず後ろを少し離れてついて行く。
空はすっきりとしない天気で、こりゃ明日は雨だなと考えていた。
府中宿から岡部宿までの道中、勝康は雪秀と光の間に挟まれて歩いていた。はっきり言って怒っている年上の男女の近くにいるのは楽しくなかったが、すぐ殴る雷次郎と歩調を合わすよりましと判断した。
そして風魔衆の頭領、凜は後方を守ると言って雷次郎の傍にいた。
彼女は雷次郎を一切批判していなかった。
「……お前さんは責めないのか?」
「あまり舐めないでもらいたいな。貴様が般若の面を被った男と接触していたのは知っている」
「ほう。流石と言うべきか、当然と言うべきか」
前の三人に聞こえないようにぼそぼそと話す。
凜は「何故正直に話さない?」と雷次郎に言う。
「何か企んでいるのか?」
「別に。ただの気まぐれだ……と言いたいが、少し思うことがあってな」
誤魔化すか何も考えていないとばかり思っていたので、凜は虚を突かれた。
雷次郎は「光のことを知った。お前さんと雪秀も知らないことも」と言う。
「それを考えると、軽々に言える問題じゃない」
「若と私の知らないことか。あの般若の男は面を被っていて、唇が読めなかった。それに貴様は読ませないように死角で話していた」
凜はじろりと睨みながら「風魔衆の気配は既に特定できているのか」と雷次郎に問う。
「知っての通り、俺の生まれがあれだから、人の視線に敏感なんだよ」
「ふん。意外と臆病なのだな」
「親父とお祖父さんもそうだったと聞く。ま、血筋だな」
「雷次郎。私は別に、光の秘密を知ろうとは思わない」
凜はまだ怒っている光の背中を見つめている。
雷次郎はそれが冷たさではないことを知っていた。
「私は光を守る。それは若と奥方の命令だけではない。もちろん、貴様からの頼みからでもない――光のために守るのだ」
「忍びが情に絆されたか?」
「そうだとして、貴様は笑うか?」
雷次郎は「ある意味笑うな」と笑顔で言う。
精悍な顔つきに似合う、さっぱりとした笑み。
「お前さんが人間として成長できたと思うと、微笑ましい」
「……誉め言葉として受け取っておく」
凜はにこりともせず返した。
雷次郎は「そうだ。お前さんに良いことを教えてやろう」と手を叩いた。
「雪秀が俺に迫ったという話――」
「詳しく聞かせろ早く今直ちに!」
凜の凄まじい迫力に若干押されながら、雷次郎は「簡単な話だよ」と説明した。
「一時期、歌舞伎の舞台に出ていたんだ。女形で。当時、雪秀は歌舞伎に疎くてな。女形は男がやるもんだって知らなかったんだ」
「つまり、貴様を女として勘違いしたのか?」
「そうだ。俺は今の雪秀ぐらいの年だったから。結構な美少年で、化粧したら女みたいになるんだ」
「自分で美少年と言うな。なるほど……」
安堵の表情を浮かべる凜に、雷次郎は「どうしてお前さん、雪秀が気になるんだ?」と問う。
凜は当たり前のように「大事な主君だからだ」と答えた。
「次代を担う若様が、衆道に耽ってしまったら、お家断絶になりかねん」
「ああ、そうなのか」
「貴様はなんだと思ったのだ?」
雷次郎は同じく当たり前のように答えた。
「俺ぁてっきり、凜が雪秀に惚れていると思っていた」
その言葉にしばし沈黙して。
凜の顔が真っ赤に染まった――
「そ、そんなわけ、あるか! この馬鹿!」
◆◇◆◇
岡部宿に着いた途端、ぽつりぽつりと小雨が降ってきた。
どしゃ降りになる前に宿屋に入って、いつものように男女で別れた。
勝康は部屋の真ん中で大の字に寝転んだ。初めてこんなに歩いたと愚痴っている。
「へえ。甘やかされて育ったと思ったが、案外根性があるじゃあないか」
「……この状態を見ての皮肉か?」
勝康の疑うような目に「俺は途中でもう帰るって言い出すと思ってた」と雷次郎は言う。
「それに輿を用意しろとか、もう歩けないとか。弱音を吐くと思ってた。でも最後まで歩きとおせたのは偉いぞ」
「私はただ、貴様に頼るのを良しとしなかっただけだ! それに弱音を吐いたら、殴るに決まっているだろう!」
雷次郎は弱った人間を殴ったりしない。甘える者や道理を弁えていない者に怒りを覚える。雪秀はそれをよく知っていた。
「別にそんなことしようとは思わねえ。おい、雪秀。女将から手ぬぐいとぬるま湯が入った水桶貰ってくれ」
「分かりました」
「何をする気なんだ……?」
不安そうな勝康を余所に、用意された手ぬぐいを湯にくぐらせて、十分に絞ってから「勝太、こっちにこい」と言う。
「按摩してやる。そのままじゃ明日歩くこともできない」
「い、痛くしないよな?」
「気を付けるが、お前さんも痛かったらすぐに言え。力を緩めるから」
半信半疑だったが、足が酷く痛むのは本意ではない。
恐る恐る、雷次郎に足を預ける勝康。
足の裏を手ぬぐいで優しく拭いて血行を良くした後、一度手ぬぐいを湯に入れて温め、足全体を揉みながら拭く。
意外と繊細で優しい按摩に勝康は眠気に襲われた。
「寝てていいぞ。晩飯のとき起こしてやる」
「…………」
返事をする気力すらなかったらしい、勝康は夢の世界へ誘われた。
雪秀は「面倒見いいんですね」と目を逸らして言う。まだ怒っているらしい。
「お前にもやってやろうか?」
「結構です。痛みはありませんから」
「悪かったって。だから機嫌を――」
「安倍川遊郭に行ったって、嘘でしょう?」
唐突に切り出された――雷次郎は「よく分かったな」と認めた。
「やはり。帰ってきたとき、少し血の臭いがしましたから」
「鼻が利くのは素晴らしいな」
「どうして、私に嘘をついたのですか? 光殿は仕方ないとしても――」
「本当に怒っていると思ったんだ」
雷次郎は頬を掻いた。
雪秀は「光殿に悟られないように芝居を打ったんです」と無表情で言った。
「誰と戦ったんですか?」
「黒脛巾組」
すっかり寝てしまった勝康に掛け布団をそっとかける雷次郎。
雪秀は「そういうのは風魔衆に任せてください」と苦言を呈した。
「それだけじゃない。般若の男にも会ったぞ。それで光の秘密を知った」
「……そうですか」
その後、二人の間に会話は無かった。
雪秀の聞きたいことは、雷次郎が全て言ってくれた。
雷次郎も言いたいことを言えた。
外の雨音は少しずつ酷くなってきていた。
明日は大井川を越えて日坂宿に向かわなければいけないのに、大丈夫だろうかと雪秀は思った。
同時に雪秀は様々なこと考えた。伊達家及び黒脛巾組の襲撃への備え。雨竜家当主、雨竜秀晴が何故、雷次郎と自分に主命を下したのか。そして何より、将軍に会うことで全て解決できるかどうか――
「雪秀。頭の中でいろいろ考えてはいると思う。だけどな――」
雪秀の思考を柔らかく止めた雷次郎は穏やかな顔で言う。
「楽しいことがあったら楽しもうぜ。たとえば今日の晩飯とかな」
「……そうですね。地元の料理が食べられればいいのですが」
雷次郎のどうでもいい言葉は、雪秀の心に響いた。
そしてこの人は本当に軸が定まっているなと感じた。
揺るがない決意さえあれば、何者も打ち崩せると確信しているような、落ち着いた笑顔を雷次郎はしていた。
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