第10話地下牢にて
雷次郎が目覚めて数刻後、外が次第に白み始めていた頃だった。
叫び疲れて気力が無くなってしまった光が三角座りで頭を抱える中、雷次郎は誰かが牢に近づくのに気づいた。声をかけようかと思ったが、その者の目的が分からないので、警戒だけに留める。
「……お前は」
「雷次郎様、ご無事でしたか!」
小さな灯りを携えてやってきたのは、門番の多村与左衛門だった。
雷次郎は「何しにここに来た?」と声を潜めた。
光が顔を上げるのと同時に「牢の鍵を持ってきました!」と多村は懐に手をかける。
「ここから出ましょう! もちろん、手枷や足枷の鍵もあります!」
「お前、自分が何をしようとしているのか、分かっているのか? もし――」
「分かっていますよ! でも、雷次郎様を解放しないと、戦が起こるかもしれません!」
多村は雷次郎が雨竜秀晴の息子であり、次期雨竜家当主であることも知っている。ならばこの状況は不味いと考えていた。もし雷次郎が地下牢に囚われているのを知れば、雨竜家の命令で真柄家を取り潰される可能性があった。しかし城主の母である小松の性格を考慮すれば、彼女が戦を仕掛ける公算が高かった。
もちろん、多村は全ての事情を知っているわけではない。ただ雷次郎の取り巻く環境からそうなるかもしれないと勝手に想像したのだ。雷次郎に個人的な好意もあるが、一番は戦が起きないようにしたいのだ。
「……もしばれたらお前どうするつもりだ? かみさん、いるんだろう?」
「こ、こんな状況で、よく気遣えますね……」
「いいから答えろ」
多村は手を止めてしばらく考えてから「もし戦になれば、小田原城の城下町は焼かれるでしょう」と答えた。
「もしかすると、家内も戦に巻き込まれて死ぬかもしれません。それなら逃がした罪で俺が切腹になって、家内が生きているほうが――」
「分かった。やめろ。そんなことをするな」
多村の言葉を遮って、雷次郎は言う。
光と多村は同時に驚いた。逃げられる好機を失ってしまうのに。
「多村。そのまま帰れ。鍵も持っていくんだ」
「どうして――」
「だから、俺は逃げたりしないって。やめるんだ」
ここで光は奇妙なことに気づいた。
先ほどからやめろと言っている相手が、多村ではない。
視線が多村の後ろに――
「――よく気づいたな」
遅らせながら光は気づいた。
多村の後ろに覆面を着けた黒装束の忍びがいる。
光と雷次郎の牢屋は向かい合わせである。だから多村の背中しか見えない。しかし気づいた瞬間、多村の後ろに忍びが現れた。
「へっ? ……ひいいい!?」
多村が声に反応して振り向いて、忍びに気づく。驚きのあまり尻餅をついてしまった。
雷次郎は「ずっと視線を感じていたぜ」と肩を竦めた。
「どこから見ているのか分からなかったが、お前さんが殺気を出していたから気づいたのさ」
「そうか。今度から気をつけよう」
「……うん? もしかして俺を押さえつけた女忍びか?」
よく聞けば女性のように声が高い。
しかし覆面ごしの声で分かるのはよほど耳がいい。
「ご明察。どうして分かった?」
「俺は一度聞いた声は忘れない。台詞は覚えていないが、無礼者扱いしたのは覚えている」
忍びは覆面を取った。
その露わになった顔は――見目麗しいものだった。涼やかな目元。薄い唇。色が白くて病的に見えるかもしれないが、女性にしては鍛えているのは誰の目からも分かった。背丈は小柄で、雪秀より少し高く、光と同じくらいだった。年齢は雷次郎の一個か二個下だと思われる。
「ほう。なかなかのべっぴんさんじゃないか」
「……男はいつもそうだ。私の顔を見ると色情する」
「そりゃ、美人だからな。しかたねえだろ」
「下種が」
吐き捨てながら女忍びは苦無を取り出す。多村は青ざめながら這って逃げようとする。雷次郎は素早く「だからやめろ」と言う。
「そいつ殺しても意味ねえだろうが」
「城の中の反乱分子だ。殺しておいたほうがいい」
「……多村は自分なりの考えで逃がそうとしたんだ。それも真柄家を守るために」
「関係ないな」
多村は口をぱくぱくさせている――死にたくないと言いたいけど声が出ないみたいだ。
雷次郎は「もし殺したら俺は脱走するぜ」と牽制する――女忍びの動きが止まった。
「ほれ。このとおり、手枷と足枷は外れている」
今まで付けているふりをしていた雷次郎だったが、女忍びの目の前で外して見せた。
光は外せないとか言ってなかったかしらと緊迫した状況の中、ぼんやりと思った。
「朝方近くになったら逃げようと思っていた。今からでも逃げてみせる」
「では、こいつを殺さなかったら、お前は逃げないのだな?」
「約束するよ。俺は約束と張り替えたばかりの障子は破ったことないんだ」
しばらくじっと笑っている雷次郎を見ていた女忍びだったが、逃げかけた多村の首根っこを掴んで、針を刺した。すぐに意識を失う多村。光は思わず、悲鳴を上げた。
「騒ぐな女。殺していない」
「それじゃあ交渉成立ってことでいいか?」
「一応、このまま見張らせてもらう。おい、この者を外に出しておけ」
女忍びの命令で二人の忍びが現れて、多村を両脇に抱えて運んでいく。
雷次郎はその様子を見ながら感心したように「上役なんだな」と呟いた。
「少なくとも下忍ではないな」
「私のことなど、どうでもいい」
「でも、俺はお前さんのこと、なんとなく知っているぜ」
雷次郎はにやにや笑いながら布団に寝転んだ。
女忍びは「知っている? 何を知っていると言うのだ」と苛立っている。
「私の何を知っている?」
「さあな。忍びということ以外何も分からんが、雪秀から昔話を聞いたことがある」
「…………」
「聞かされた話を今ここでしようか? 時間はたっぷりあるからな」
女忍びは酷く低い声音で「黙れ」とだけ言う。
目には殺意が滲み出ていた。
雷次郎は再び肩を竦めて黙る。
「ね、ねえ。その、雪秀の様子はどうなの?」
沈黙が続く中、光が恐る恐る訊ねた。
女忍びは「若様と小松様のことは言えん」と素っ気無く答えた。
「それから若様の名を呼ぶときは敬称をつけろ」
「べ、別にいいじゃない。知り合いなんだし……」
「分を弁えろと言っている」
非常に重苦しい空気が流れる地下牢。
雷次郎はそれを壊すように「今も話し合っているんだろ」とのんきに言った。
「あの親子はどっちも頑固だからな。まったく誰に似たんだが……まあ忠勝のじいさんに似たんだと思うが」
「黙れと言わなかったか?」
「言ったけど了承はしていない。それよりも俺はお前さんの話が聞きたいね」
雷次郎は女忍びに「このままだと戦が起こるぜ」と言う。
「言いたくはないが、俺の素性を知っているんだろう?」
「無論だ。いつか雪秀様のために殺してやろうと思っている」
「痺れるねえ。でも俺を殺したら大変なことになるぜ」
「小松様には私の想像もつかないお考えがある」
「どうせ家中の人間巻き込んで謀叛でも起こそうって考えだな。でも、そこが分からねえ。雪秀を守るために旅の中止――主命を拒否するんだろう? でも謀叛起こしたらいずれ死ぬぜ。雪秀も、小松さんも」
「…………」
女忍びは沈黙した。その行為は雷次郎にしてみれば分かりやすい答えだった。
「なるほど。つまりお前さんは上役どころの立場じゃないわけか」
「…………」
「ど、どういうことなの? 雷次郎?」
話についていけない光が問うと、雷次郎は「雪秀から聞いていたんだ」と明かした。
「数年前に、風魔衆の新たな頭領が女に決まったってな」
「えっ? ということは――」
女忍びを反射的に見る光。
彼女は無表情で黙っていた。
「そうだろう? 風魔衆頭領の――風魔小太郎さんよ」
雷次郎は代々頭領が名乗る名前を口にした。
女忍び――風魔小太郎は、それにも答えなかった。
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