第6話西へ!

 朝早く起きた雷次郎たちは、手早く朝食を済ませた後、出立の準備を始めた。準備と言っても小田原城までの距離であるから、さほど手間はかからなかった。雷次郎はいつもの着流しで雪秀は略服、光は町娘風の姿をしていた。


 そのとき、光が高価そうな琥珀色のべっ甲の櫛を頭に付けていることに雷次郎は気づいた。町娘の格好にしては不相応だと思ったが、特に指摘はしなかった。女性の服装にとやかく言うほど野暮なことはないので、彼は何も言わない。


「もう行くのね。いつぐらいに帰ってくるの?」

「さあな。大坂まで半月かかると見て、おそらく一ヶ月だとは思うが」


 玄関先で雷次郎に訊ねたのはなつめだった。彼女は「なるべく陸路で行きなさい」と助言した。他の二人は屋敷の外にいた。


「どうしてだ? 海路でも――」

「船で襲われたら対処しづらいし、沈没でもされたら助からないわ」


 元忍びらしい言葉であったが、どうしてそこまで警戒するのか、雷次郎は分からなかった。だから「意外と心配性なんだな」と軽く笑った。するとなつめは「あなたも分かっているでしょう?」と言う。


「この旅が一筋縄でいかないことを。あの子が何を抱えているのか分からないけど、きっとろくでもないことだわ」

「……親父はいつも俺にろくでもないことを押し付けるからな」

「あら。今更になって親への文句なんて。それこそ意外ね」


 雷次郎はなつめと正面に向き合って「文句じゃねえよ。ありのままを言っただけだ」と肩を竦めた。今までの思い出を振り返るとそういう厄介事が多かった。


「助言どおり、陸路で行く。多く見積もって一ヵ月半ほど留守にする。屋敷のことは任せたぜ」

「委細承知。気をつけてね――あ、なつさんに何か言っておくことない?」

「おふくろには心配要らないとだけ伝えてくれ」


 そして下男と侍女に見送られて、雷次郎は屋敷を出た。

 外では雪秀と光が会話もせず、立って待っていた。


「待たせたな。それじゃ、行くか」

「ええ。まずは戸塚の宿で一泊しましょう。小田原までは距離がありますから」


 雪秀の言葉に雷次郎は頷く。馬ならともかく、徒歩での旅となると小田原城までは遠かった。雪秀の先導で雷次郎と光は歩き始める。昨日は疲労困憊だった光だったが、一日経つとすっかり元気になっていた。


 江戸の町の目抜き通りにはかなりの人数がごった返していた。呉服屋や見世物、食事処も多い。雨竜家が北条家を倒し、この地にやってきたのが十五年前だと考えると、短い期間でこれだけ発展した都市にしたのは驚異だった。


 雷次郎は昔、丹波国に住んでいた。そのときと比べると段違いだった。京に近いとはいえ、山地で海のない国よりも、平地で湾岸に面している江戸のほうがここまで賑わうとは、幼い頃は考えもしなかった。


「雷次郎様! どこかへお出かけですか?」

「何やら旅にでも出るようなお姿をしていますが……」


 雷次郎だと気づいた町人たちが話しかけてきた。同時に脛に傷持つ者はこそこそとその場から離れる。雷次郎は「しばらく江戸から離れることになったんだ」と気さくに応じた。

 すると町人たちは顔を見合わせて「何かあったんですかい?」と一人の男が問う。


「まさか、何か仕出かしたんじゃ――」

「人聞きの悪いことを言うな。ちょっとした旅だよ。二ヶ月以内には戻るさ」

「そうですか。てっきり……」

「なんだなんだ。俺が江戸払になったと思ったのか? そんな悪人に見えるか?」


 おどけて雷次郎は言うと、町人が口々に「いや、悪人より滅茶苦茶なんだもん」と同じようなことを言う。これには雷次郎も笑って「あはは。こりゃ一本取られたな!」と納得してしまった。


 その様子を複雑な思いで見ていた雪秀に光が「あの人、結構有名人なのね」と耳打ちした。昨日のこともあり、なるべく雪秀に話しかけたくなかったが、聞いておかねばならないと光は思ったのだ。


「雷次郎様の名は江戸中に響き渡っている。ま、知らぬ者はいないとまでは言わないがな」


 腕組みをして雪秀はそう答えた。彼は武士らしくない雷次郎をどんな思いで見ればいいのか分からなかった。

 憧れとも嫉妬とも羨望とも違う。

 強いて言うなら、自由奔放で心配になるから、目を離しておけない。

 物心がついていない幼子を見守る親……いや、いつ爆発するか分からない火薬を見張る兵士の心境なのだろう。


「ふうん。有名人で人気者なのね。悩みなんてなさそう」

「……雷次郎様にそれがないわけではない」

「どういうことよ?」

「いずれ分かる」


 意味深なことを言われて光の頭に疑問が生まれた。昨日のことと言い、雷次郎の秘密が何なのか気になり始めていた。しかし自分も『秘密』を隠している以上、教えてはもらえないのだと思っていた。


 町人たちから旅のご加護と気遣いを述べられ、また餞別に団子やらをご馳走になりつつ、雷次郎一行は江戸から出て、東海道を歩いていく。雨竜家と駿遠三を支配する徳川家の共同作業で整備した街道は歩きやすく、旅人もちらほら歩いていた。


「そんでよ。柏屋と成田屋が名演だったんだ。いやあ、あれはますます腕上げたね」


 雷次郎がこの前見た芝居小屋の歌舞伎の話をしていると、道端で地図を広げて唸っている老人が立っていた。道に迷っているのか、杖をついたまま微動だにしない。


「なんだ。迷っているみたいだな。どれ、道を教えてやろう」

「雷次郎様。余計なことはしないでください」


 雪秀の注意を無視して、雷次郎は「ご老人。道に迷いましたか?」と彼にしては丁寧な口調で話しかけた。

 老人は「ええ。実は、江戸に向かう途中なのです」とにこやかに答えた。


「ほう、江戸か。一体どんな用事だ?」


 世間話のつもりで聞いた雷次郎。すると老人は雷次郎に地図を手渡す。何気なく雷次郎は持つと――


「光、というおなごを始末する用事です」


 老人らしからぬ動きで、持っていた杖を引き抜き――仕込刀だ――地図を死角にして雷次郎を突く!

 だが雷次郎は予想していたように後ろに飛んで、刀の切っ先が届くかどうかの距離まで下がることに成功する。その際、広げていた地図、江戸城の箇所に穴が空く。


「……良い反応ですな」


 老人は刀を逆手に構えて、雷次郎を睨みつける。老人の割りに背筋は曲がっておらず、総白髪と刻まれた皺はその者が歴戦の達人であることを証明していた。背丈は小さい――雪秀ほどではない――が、強者の威厳を醸し出している。


「おい雪秀! あいつ敵だぞ! 危ねえなあ!」

「だから余計なことをしないでくださいって言ったのです」

「あれ? お前、分かっていたのか?」

「微かに殺気がありましたからね」

「なら言えよ!」


 騒がしい雷次郎と対照的に光は蒼白な顔になって黙り込んでいる。

 雪秀は「どうかしたのか?」と訊ねた。


「あ、あの人……私を追い続けている……」

「はあ? ……じゃあ敵確定だな」


 雷次郎が両手を組んで指を鳴らす。

 雪秀はやれやれとばかり腕を回した。


「おい、じいさん。何の目的だか知らねえけど、ぶっ倒す」

「……若いですね。血気盛んで向こう見ずだ」

「当たり前だ。俺ぁいつでも真っ直ぐだ」


 老人が指をぱちんと鳴らすと、街道から男たちが五人現れた。

 雷次郎はどいつもこいつも強そうだなと思った。


「光殿を渡してもらいたい。そうすれば命だけは助けよう」

「さっき殺そうとした奴の台詞とは思えねえな」

「ま、言ってみただけだ――やれ」


 老人の号令に五人は、刀や短刀を抜いて、じりじりと寄って来る。

 雷次郎は「雪秀、光を守れよ!」と言って刀を抜く。


「それからなるべく殺すなよ。こいつらからいろいろ聞かないといけないからな」

「委細承知。お任せください」


 雪秀は徒手空拳で構える。そして光を守る体勢になった。

 雷次郎は「江戸から出た途端これかよ」と笑った。


「親父の奴、何を企んでいるんだ?」


 五人の男たちが距離を詰めて、一斉に襲い掛かってきた――

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