第172話 怖い

 裏口からホテルに入って、水場で大きなシンクに水を張り、おれ達から受け取った花をつけた。


「ここまでありがとう。帰っていいわよ」

「お疲れさんじゃな」


 ハノさんはこれからホテル中の花を生け替えるのだ。すごいな。

 もうおれ達は邪魔だ。師範が送ってくれて、家に帰り着いた。


「……もう一度寝るというのは可能でしょうか」


 ハジメが上方を見て問うた。

 眠いよな。


「はっはっは、よいよい、おやすみ」

「わしも寝るでな」

「おやすみー。おれは稽古あるから、また朝ごはんの時な」

「おやすみー」


 まあ、おれだって後で昼寝する訳だし。

 2人が二階に上がってしまったタイミングで、師範が言った。


「今日は竹刀を持て」

「はい」


 そうか、明日は試合だから。

 師範も竹刀持つのかな? 竹刀で稽古なんだろうか。


 もしそうならすごい。

 めっちゃドキドキワクワクする!

 おれも竹刀持つのは久しぶりだから、どんな稽古になるのかすごく楽しみだ。


「いつもよりちと早いが良いか?」

「はい」

「うむ。では着替えておいで」

「はい」


 静かに2階へ上がって着替え、道具一式持って降りてくると、師範も着替えて待っていた。その手に竹刀袋を掴んでいる。


「行こう」

「はい」


 促されて家を出た。

 明るくなってきた道を、無言で歩いた。


 師範の歩みは一定の速度で、悠然としたその足運びを見ながら後をついて行く。

 完全に安定してる。圧倒的な安心感。

 おれにもこんな風になれるだろうか────このままずっとついて歩けば。


 道場について防具を付け、立ちあがろうとした時気付いた。

 師範、防具付けないの??


「あの、」

「大事ない」


 いや、あるよ!!

 ええ、これ、絶対打たれない自信があるってことだよね??

 でもおれ、面付けてない人に打ち込めない。怖いよ!


「落ち着きなさい。試合う訳ではない」

「え……?」

「それにわしは面など持っとらん」


 そうなんだ!

 じゃあ竹刀はたまたまあったのかな。


「いつもやっていた稽古を思い出すだけの練習である。難しく考えることはない」

「はい。お願いします」


 そろそろと立ち上がり、目測で距離を測り、礼。

 三歩出て竹刀を構え、蹲踞。

 何度も繰り返した動作が心を落ち着ける。


 竹刀の先に師範の顔────

 剣先が揺れ出すのを止められない。

 微動だにしない師範の顔が、おれの心を見つめてる。


 怖い。

 当たる、当たらないじゃない。

 当たるようにすることなしに打ち込むなんてあり得ない。


 面でも胴でもなんであれ、おれは狙っているんだ。

 集中して一瞬の隙を突いて、全力で叩き込む一撃に、大丈夫なんかない。

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