吐露

ボケ猫

第1話 見方を変えてみると



人の脳の重さを考えたことがあるでしょうか?

重くても1500g程度。

だいたい1200g程度だと言われています。


成人の大人の体重を50㎏とすると、脳の比率は2%程度です。

その2%に過去から未来までの情報が入り、宇宙までが入っています。

凄まじいものでしょう。

でも、自分の身体のことをどれくらいわかっているのでしょうか?

今日はこれくらい爪を伸ばしてやろう。

思ってもできないでしょう。

心臓を何回今日は拍動させようか。

わかるはずがない。

まばたきは?

食べるときにどれくらい唾液を出すのか・・などなど、パッと考えるだけでも意識しないものはたくさんあると思います。


何が言いたいか。

人の身体には、自分が思っているよりも大きなわからないもの、無意識が存在するということです。

意識なんて、その身体からみると2%足らずの、ほんの一部の作用に過ぎないのでしょう。

そんな意識が世界を取ったかのように自分の身体を動かす。

たったその比重の存在が、自身の残り98%の命を左右する。

これっていいのだろうか?

いやいや、そんなことを書きたいのではないのです。

まぁ、そういった考えも基礎となっていますが。


今、書こうと思ったのは、河合隼雄氏の著書『対話する生と死』という本の中の1節です。

『・・近代自我はひたすら進歩と発展をめざしてその力をふるってきたが、すでに述べたように、そのシステム内に「死、老、女、病」などを入れこめないところに大きい問題を抱えている・・』

とあり、次に『死について考える』という文節が現れます。

1990年4月、アメリカ、ニューポート研究所の「死ぬことのむずかしさ」というシンポジウムに参加されたそうです。

そこで議論は誠実に熱気にあふれていた。

しかし、誰も「結論」を出すことはできない。

そんな時に河合氏に発言が求められたそうです。

『・・要点のみを言えば次のようなことを申し上げた。

「あなた方の誠実な議論には感心したが、おそらく熱心にやればやるほど答えは出ないだろう。 それは、あなた方の用いている思考や議論の方法は、これまであなた方が『いかに生きるか』ということを押しすすめるための強力なものとして採用してきたものであり、その延長線上で死を論じても答えが出て来ない。 これに対して、現代の日本はともかく、過去において日本人は『いかに死ぬか』に答えようと努力し、その文化をつくってきた。 そのような日本がかつて欧米との戦いに敗れたことはよくご存じのとおりである。 洋の東西を問わず、現代に生きようとするものは、『いかに生きるか』という問いと、『いかに死ぬか』という問いと、いずれに対しても答えられるように努力しなくてはならない。 この葛藤のなかで生きることが現代人の課題ではなかろうか」

という一節です。


会場はスタンディングオベーションだったそうです。

見方の違いで世界が変わるのです。

そしてその簡単なことになかなか気づけない。

どちらが優れているというのではないのです。

このどちらが・・の二者択一の方法自体が西洋の考えなのですが、日本は場の空気を重んじる民族。

欧米は意見をぶつかり合わせていく文化。

どちらかに優劣を作るのではないのです。

今の時代、この両方が必要なのでしょう。


日本人はそういった自我が弱いのは事実。

それを鍛えつつ、今までの日本のシステムと融合させていくと、成長できるのではないか。

そんな気がします。

欧米、ことにキリスト教などの一神教のおける民族は、自我を強く意識させられ、教育を受けるのでしょう。

何せ、神と人という絶対的な区別がありますからね。

この区別、英語を見るとよくわかります。

常にIとかYouなどで区別されます。

河合氏はこの区別する文化の強さを父系社会と呼んでいます。

日本などの何でも受け入れるような社会を母系社会と言っています。


そんな中、昔の父は強かった、などという言葉を聞きます。

私も、河合氏の本を読むまでは漠然と思っていました。

しかし、本当に強い父親などは、戦争に行って強い敵を倒すとか武道が強い父なんかではないのです。

戦争に行けと言われたら、何で行かなきゃいけないんだ。

俺は行きたくないと、はっきりと言える意思を持った人が強いのです。

過去において、そんな人はいましたか?

場の空気に流されている人が多いのではないですか?

今の社会でも同じようなものでしょう。

はっきりと物事を言う人。

それができる人が、父系の強い人です。

良いとか悪いとかではないのです。


場の空気を読めないとこれまた困ります。

山本七平氏の本に『空気の研究』なる本があります。

これも面白いですよ。

日本人は、空気によって左右されるという内容だったような・・詳しくは忘れました。

何が言いたいのか。

人は生きていくには、どちらも選択できて、選択するべきではない物事もある。

それらの両方を自分に内包して自然とうまくやっていける、そういう人生を歩めると、より成長し豊かな人生があるのではないかということです。

私もわかりません。

自分も実験中ですからね。


余談ながら、こんな知識を得て思うこと。

英語の勉強を義務化する必要があるのかということです。

最近ではリスニングの強化さえ行われているようです。

英語の言葉の中に、キリスト教が入っているのをわかってやっているのでしょうか?

何でも分割する言葉。

男と女。

白と黒。

そういった言葉の集まりでしょう。

日本語みたいに曖昧なものは、ほとんどないと言えると思います。

日本の民族文化には、決して混ざらない思想ですよ。

無理やりそれを行っているのです。

できるわけがない。

だから勉強しても、離れると忘れるでしょ?

私だってそうですよ。

試験のための勉強をすると、ある程度はできるようになります。

でも、身についた感じがない。

そりゃ、しゃべれと言われれば、簡単な言葉をつなげてしゃべれますよ。

通じるのかどうかわかりませんが。

It is 〇〇 for me to 〇〇・・・.

こんな感じでほとんどの言葉をしゃべりますよ。

それで通じていると思いますよ(笑)

そして、スマホでかなり精巧な同時翻訳アプリがありますよ。

それで十分です。

もっときちんと日本語を学びましょう。

余談が過ぎましたね。


本当に教育をして日本の国を作っていくなら、もっと違うアプローチをしないとダメなんじゃないかと思うのです。

大学を出ても、自分の分野を生かせている人はどれくらいいるのでしょう?

せっかくの才能がもったいない社会システムですよ。

そういった転換点に、私たちは立っているのかもしれませんね。

とにかく愚痴が言いたかったものですから、失礼しました。
















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