7. エール

 目を覚ました時、イルヴァが最初に感じたのは嗅ぎ慣れない匂いだった。寝かされていたのは柔らかな寝台の上で、蝋燭の灯りに照らされる敷布シーツも白く心地よい。

 身を起こすと、ずきりと後頭部に鈍い痛みが走った。殴られたのだ、とようやく記憶が蘇り、さらに床に倒れ伏していたノアの姿が目の裏にありありと浮かんだ。焦燥に駆られて寝台から起き上がり、床に下りたところで目眩がして足がもつれた。そのまま床に倒れ込みそうになったところを、闇の中から浮かび上がった黒い影が抱き留めた。


「目が覚めたのか」

 聞き覚えのある冷ややかな声に見上げれば、蝋燭の灯りに照らされる薄青い瞳が、それでも今はわずかに気遣うような光を浮かべている。

「離して」

「そうしてもいいが、倒れられては敵わぬ」

「あなたが殴ったくせに」

 相手に負けないくらいに冷ややかな声でそう言ったイルヴァに、男はなぜか一つため息をついた。

「謝罪はしない。お前に二度も逃げられるわけにはいかなかったからな」

「そもそも謝る気なんてないくせに。ノアは無事なの?」

「さあ? 縛り上げて放置してきたが、様子を見に来る親身な相手がいれば、まあ死にはすまい」


 その言葉を信じていいものかはわからなかったが、それでもイルヴァは最悪の事態を告げられなかったことに、ほんのわずかでも安堵する。もしその言葉が本当なら、アクセルが程なく見つけてくれるだろう。


「……気分は?」

「最悪」

「へらず口が叩けるなら大丈夫だな」


 言って、ようやくその腕から解放されて寝台の上に座らされる。乏しい灯りに照らされる顔はよく見れば髭も綺麗に剃られており、その眼はきつい印象を与えるが、十分に端正と言える。淡い色の髪に、凍えた冬の空か湖のような薄青い瞳。ノアほどではないが長身で、その体躯は鋼のように引き締まっている。歳の頃はノアよりももう少し上、三十後半から四十くらいだろうか。


 初めて山の中で襲われた時には野盗かと思ったが、こうして今見れば、身につけているものと立ち居振る舞いからして、どこぞの貴族かとも思われた。それでも、これ以上、厄介事に巻き込まれるのはごめんだったので、一応主張してみる。


「あなたみたいな人に絡まれる覚えはないよ。家に帰して」

「家? お前にもう帰る家などないだろう」

 嘲るようなその声に、イルヴァのは血の気が引くような思いがした。あるいは、怒りで逆に頭に血が上るような。

「……あなたたちがやったの?」


 彼女の義父母はすでに他界していたし、村の人々とさほど仲が良かったわけではない。それでも、そこは彼女が長い間育ってきた場所で、多くの失われた命は、彼女の知己だった。それを、平静に受け止められるほど他人事ではなかった。


 怒りを浮かべた眼差しで睨みつけた彼女に、だが男は首を振った。

「違う。私たちが見つけた時にはもう手遅れだった」

「手遅れ……?」

「あの村が襲われるという話を聞いて、駆けつけた時にはもう焼け落ちた後だった」

「話を聞いたって……」


 頷いて、だが男はそれについては詳しくは話そうとしなかった。なおも怪訝そうに見つめるイルヴァの眼差しをまっすぐに受け止めて、男はイルヴァの方に手を伸ばしてくる。身を強張らせた彼女には構わず、その後頭部から首筋に手を当てる。


「特に外傷はないな。痛みは?」

「痛いよ」

「……抵抗するからだ」

「あんな風に襲われたら普通抵抗するに決まってるだろ。それに、言うほど抵抗する隙も暇もなかったじゃないか」

「時間がなかったのだ」

「……どういうこと?」

 尋ねた彼女に、だが男は肩をすくめて、それから踵を返した。

「こんな暗い部屋で話すのも何だ、何か食べながら話そう」

「毒でも入ってるの?」

「殺す気なら、ここまで連れてきたりはしない」


 その声も眼差しも、凍えそうに冷ややかではあったが、その言葉は確かにその通りだろう。ゆっくりと寝台から下りると、それでもまだくらりと目眩がした。ふらついた彼女の身体を力強い腕が支える。間近に迫ったその顔が、イルヴァをまじまじと見つめ、少し眼を細めた。


「……美しいな」

「離して」

「そういう意味で言ったわけではない」

「じゃあどういう意味?」

「毛を逆立てた猫のようだな」

「離せってば」


 身をよじると、ようやく解放される。男はわずかに表情を緩め、面白そうにイルヴァを見下ろした。その眼差しは、人攫いにしては奇妙に穏やかで——どうしてだかノアを思い起こさせて、不意に胸の奥がずきりと痛んだ。


 本当に、無事でいるだろうか。死んだように動かなかったその姿がまた脳裏に蘇る。アクセルは毎日訪れるわけではない。それでも、彼を見つけてくれるだろうか。また、自分のせいで巻き込んでしまった。左肩もまだ完治していないというのに、何かあったら——。


 こちらを見下ろしていた男が驚いたように眼を見開く。

「……無事だと、そう言っただろう」

「何……を……」

 どうしてだか声が震えていた。男は冷ややかなその瞳にわずかに困惑を浮かべて、イルヴァの頬に手を伸ばした。その手が濡れていることで、ようやく自分が涙を流していることに気づいた。

「何だ……これ……?」


 あの日、村が焼け落ちているのを見た日から、ずっと心のどこかが凍りついたままだった。ノアと過ごすうちに、少しずつ溶け始めていたそれは、この非常事態で不意に春の雪解けが大河を作るように、押し留めていた最後の何かまで決壊してしまったようだった。


 男の手が、しばらく迷うように浮いて、それからイルヴァを抱きしめた。そもそもこの男がノアを襲ったのだ。抵抗しなければと思うのに、それでも心が黒く塗り込められるような不安の前に、身を包む温もりに逆らえず、手も足も木偶でくのように動かない。


「ノア……ノア……っ」

 ただ、小さな子供のようにその名を呼ぶ。共に過ごしたのは、ほんのわずかな時間なのに、今、その安否がわからぬままに、こうして離れていることが何よりも耐えがたかった。

「無事だと、言っているだろう」

 泣きじゃくる彼女に、その男はノアよりも遥かに不器用な手つきで背を撫で、それだけをただ繰り返した。


 ひとしきり子供のように泣いて、それから連れてこられたのはいくつもの蝋燭の灯りで明るい食堂らしい部屋だった。全体はわからないが、通り過ぎた廊下の様子から、大きな屋敷か、下手をすれば城の中かもしれないと考える。ただ、どう考えても敵であるその男の腕の中で泣きじゃくったという失態に、詳しいことを訊くために口を開くことさえ今はためらわれた。


 大きなテーブルの上には、いくつもの料理と木製のカップが置かれている。促されるままに座り、そのカップを覗くと白い泡が見えた。

「何これ?」

「エールだ。麦芽と鞠花ホップを発酵させた酒だな。鞠花を加えているから厳密にはエールとは異なるものとも言えるが」

「お酒? じゃあいらない」

「大して強い酒じゃない。今のお前にはちょうどいいだろう」


 まだ目の端の赤い彼女に、男は相変わらずの微かに嘲るような響きを含んだ冷ややかな声でそう言う。その男は人攫いのはずで、それでも泣きじゃくる彼女を抱きしめる腕は温かかった。何かがおかしい。そうわかっていても、今のイルヴァにできることは何もなかった。

「酔っ払わせてどうにかするつもり?」

「子供に手を出すほど不自由はしていない」

「じゃあ何で攫ったの?」

 そう訊いても、酒に口をつけるばかりで答えようとはしない。何もかもが面倒になってきて、カップに口をつけると、その黄金色の酒は、まず苦味が広がって、それから妙に爽やかな後味が残った。苦いのに、何となく癖になるというか、意外と飲みやすい。

香菜の種コリアンダーシード柑橘の果皮オレンジピールが入っている。肉にも魚にも合うぞ」

 言いながら男は皿の上にのった鶏の丸焼きを切り分けて、さらにいくつかの茹で野菜を添えてイルヴァに渡した。もはや抵抗しても無駄だと思い、口をつけると思いのほか柔らかくじんわりと肉汁が溢れて口の中に広がった。脂味の多いそこは、確かにさっぱりとしていながらも、しっかり苦味のあるこのエールとよく合う。

 茹で野菜には塩といくつかの香辛料スパイスが添えられていたが、白い根菜も細い緑の茎菜スティックブロッコリーも瑞々しく甘く、そのままでも十分に食べられるものばかりだった。


「……美味しい」

 思わずそう呟くと、冷ややかな眼差しが、またわずかに面白そうな光を浮かべる。しまった、と思ったが口から出てしまった言葉は取り戻せないので、エールを飲んで視線を逸らす。

「口に合ったのなら何よりだ。あの男の元ではろくなものも食えていなかったのではないか?」

「何言ってんの? ノアのごはんの方が遥かに美味しいよ」


 即座に心の底からそう答えると、相手は今度こそ驚いたように眼を丸くする。初めてその男の生の表情が見えた気がした。イルヴァの表情に気づいたのか、男は何かを誤魔化すように、一つ咳払いをする。

「ノア、と言ったか。あの男は何者だ?」

「知りもせずに襲ったの?」

「お前を攫った男だ。こちらとしてはそれだけで十分だ」

「山の中で、に雨でぬかるんだ泥の中に引きずり倒されて、攫われるところを助けてくれた人だよ」

 可能な限り声に棘を大盛りにして睨みつけながらそう言ったが、男はさして堪えた風もない。一体自分は何をしているのだろうか、とイルヴァがため息を吐いていると、男が何かを載せた皿を差し出してきた。小さな丸く茶色い生地の上に、黄色いクリームのようなものが詰められたそれは、菓子だろうか。


 促されるままに、一つつまんで口に入れると、こんがりと焼けた表面と底の生地の香ばしさに加えて、とろりとしたクリームの甘みが口の中に広がる。少し癖のあるそのクリームはそれでも甘すぎず食後にちょうど良い。いつもの癖で、また美味しい、と呟きそうになって慌てて口元を押さえて言葉を止める。そんな彼女の様子に男は眉を上げて笑った。


卵の焼き菓子エッグタルトだ——お前の母親も気に入っていた」


 一瞬、イルヴァは、言われた言葉を全く理解できなかった。

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