アメリカ独立戦争の終戦
ヨークタウンでの降伏によって、イギリス国王ジョージ3世は休戦の方向に進む議会への支配力を失っていた。ヨークタウンの降伏以降は、陸上での大規模な戦闘は無くなっている。
しかし、この時点でイギリス軍はニューヨーク、チャールストンおよびサバンナにまだ合わせて30000名の戦力を保有していたのだ。
そして、西インド諸島における英仏間の争いは続いていた。アメリカの多くの艦船がイギリスの船を襲っていなければ、イギリスは更にアメリカへ増援を送ることも可能であったのだ。
ロンドンでは、ヨークタウンの戦い以降は、戦争維持派の世論が急速に勢いを無くしていた。そして、フレデリック・ノース首相は1782年3月に辞任する。
同年翌4月、イギリス下院はアメリカとの休戦法案を通した。1782年11月には休戦の為の予備協定がパリで結ばれている。しかし、正式な休戦は1783年9月3日のパリ条約締結後であった。
1783年、アメリカ独立戦争におけるアメリカとイギリスの間の講和条約であるパリ条約が締結される。アメリカ側の使節団にはジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・ジェイ、ヘンリー・ローレンスが参加していた。講和条約の内容としては、イギリスがアメリカの独立を承認である。
そして、史実でのミシシッピ川以東のルイジアナの割譲は無かった。シュトイベン男爵がアメリカ側に参加しなかったことで、大陸軍の訓練が遅れており、アメリカ側の戦力は史実より大きく損耗していたのだ。アメリカ軍の練度不足と被害の大きさにより、アメリカ側のミシシッピ川以東のルイジアナ割譲要求は通らなかった。
このことは、アメリカとイギリスの間に新たな火種として残ることとなる。
イギリスは、アメリカとの講和条約としてパリ条約を結んだが、フランス及びスペインとの間では、ヴェルサイユ条約が結ばれている。
この条約によってイギリスは、セネガルをフランスへ、フロリダをスペインに返還した。フランスにとっては、莫大な負債を作ってまで参戦したアメリカ独立戦争で、獲得したものがセネガルぐらいだったため、政府に対して反発の嵐が巻き起こることとなる。これもまた、後のフランス革命の一因になった。
アメリカは、1784年1月14日にパリ条約を批准し、最後まで残っていたニューヨークのイギリス軍が撤退したのは1783年11月25日となる。
因みに、1783年にイギリス、フランス、スペイン、アメリカの間で講和条約が成立しているが、イギリスとオランダの間の第四次英蘭戦争は継続していた。
結局、英仏間の講和条約は、1784年5月20日にパリ条約が締結する。オランダは敗北を認め、インドのナーガパッティナムをイギリスに割譲した。
アメリカ独立戦争によって、イギリスのヘゲモニーは制限された。しかし、イギリスの世界戦略に影響を及ぼすことも無く、勢力は維持されたままだ。逆にフランスは、北米植民地戦争の借りを返すことに成功したものの、国家財政は底を突き、困窮を極めることとなる。
このままだと、フランス革命は史実通り起こりそうだ。
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