アメリカ独立戦争(ヨークタウン方面作戦)-3
ラファイエット、アーノルド及びフィリップスがヴァージニアで動いている間、連合軍の指導層であるワシントン将軍とロシャンボー伯爵は今後の方針を検討していた。
5月6日、コンコルドがボストンに到着する。その2日後、ワシントン将軍とロシャンボー伯爵はド・バラス伯爵と重要な伝言および資金の到着を知らされた。
5月23日と24日、ワシントン将軍とロシャンボー伯爵はコネチカットのウェザーズフィールドで会合を開き、次にどのような手段を採るかを検討する。2人はロシャンボーが受けた命令に従い、ロシャンボーがその軍隊をニューポートから大陸軍の宿営するニューヨークのホワイトプレインズに移動させることにした。
更にド・グラス伯爵には2つの可能性のある作戦を説明する伝令を発している。ワシントンはニューヨーク市を攻撃するアイディアを好んだ。しかし、ロシャンボー伯爵はイギリス軍の防御態勢が弱いバージニアで作戦行動を行うことを好んでいた。ワシントンからド・グラスに宛てた手紙では両者による2つの選択肢を説明していたのだ。
ロシャンボーは私信でド・グラスに自分の好みを伝えている。最終的にロシャンボーは、ド・グラスが命令されて来ていた北部への遠征に向かうのではなく、2つの作戦のどちらでも支援可能な様に、その艦隊を準備しておくように言い含めたていた。
6月20日、コンコルドはニューポートを出港し、ワシントン、ロシャンボーおよびド・バラスからの伝言、更にド・グラスが要請していた水先人を運んだ。
フランス陸軍は、6月にニューポートを離れ、7月7日にニューヨークのドブズフェリーでワシントン軍と合流する。ワシントンとロシャンボーはド・グラスからの伝言を待つ間、ニューヨーク市周辺のイギリス軍の防御度を視察する旅に出発した。
ド・グラスは西インド諸島で、幾らかの成功を収めている。その軍勢はイギリス艦隊と小さな海戦を行った後、6月にトバゴ島を占領していた。その後は、ド・グラスもイギリス海軍のジョージ・ロドニー提督も重要な海戦を避けている。
7月16日、ド・グラスがキャップ・フランセに到着すると、コンコルドが彼の到着を待っていた。ド・グラスは即座にスペインとの交渉に入る。ド・グラスは北に向けて出帆する意図を伝えたが、不在の間にスペインにその地域を任せることとした。その代償に、11月には戻ってきてスペインの作戦を支援すると約束している。
スペイン側からフランスの商船と領土を守る約束を取り付けたのため、全艦隊である28隻の戦列艦を率いて北に向かうことが可能となった。この艦隊に加えて、サンシモン侯爵指揮で3500名の兵士を載せている。そして、ハバナに居るスペインに対しては、ロシャンボーの軍隊に支払うために必要な資金を要請していた。
7月28日、ド・グラスはコンコルドをニューポートに向けて出帆させる。そして、ワシントン、ロシャンボー及びド・バラスに8月末までにはチェサピーク湾に到着すること、10月半ばまでには戻る必要があることを伝えさせた。8月5日、ド・グラスはキャップ・フランセを出港し、意図的にバハマのあまり使われていない海峡を通って緩りと北に向かう。
フランス陸軍がニューヨーク市地域に動いたことで、クリントン将軍は大いに心配事が増えた。クリントンが押収させたワシントンの手紙には、同盟軍がニューヨーク市を攻撃する作戦を立てていることを示唆している。
6月からコーンウォリスに宛てて送り続けた手紙には、混乱させ議論を呼ぶような繰り言、提言および推奨が含まれており、具体的で直接的な命令は数度しか無かった。これらの手紙の幾つかは、かなり遅れてコーンウォリスのところに届いており、2人の間の対話を複雑にしている。
6月11日と15日、明らかにニューヨーク市に対する脅威に反応したクリントンはコーンウォリスに、ヨークタウンとウィリアムズバーグのどちらかを要塞化し、少しでも余裕のある軍勢をニューヨーク市に戻すよう要請した。
6月26日、コーンウォリスはウィリアムズバーグで2通の手紙を受領する。コーンウォリスは技師にヨークタウンを調べさせ、防御を施しても無駄なことが分かった。
コーンウォリスはクリントンに手紙を書き、ポーツマスに移動して、そこで手に入る輸送船で部隊を北に送ると伝えている。
7月4日、コーンウォリスは幅広いジェームズ川を渡り、ポーツマスに行軍するためにジェームズタウンの渡し場に向けて軍隊の移動を始めた。
ラファイエットの斥候が、コーンウォリス軍の動きを観察しており、ラファイエットはイギリス軍は渡河の間に脆弱になるであろう判断する。ラファイエットはグリーンスプリング・プランテーションまで軍隊を前進させた。
7月6日、ラファイエットはイギリス軍の後衛部隊のみが渡し場に残っているという情報に基づき、ウェイン将軍の部隊を送り出して攻撃させる。しかし、コーンウォリスは巧妙な罠を仕掛けていた。手荷物とそれを守る部隊幾らかのみを渡河させ、「脱走兵」を装った者を派遣してラファイエットに嘘の情報を伝えさせていたのだ。
グリーンスプリングの戦いでは、ウェインが巧みにその罠を回避したが、少なからぬ損失を出し、野砲2門も失われる。コーンウォリスはその後に川を渡り、軍隊をサフォークまで移動させた。
コーンウォリスは再度ヴァージニア中部を襲撃させるため、タールトンを派遣する。タールトンの襲撃はグリーン将軍の部隊に送られる補給物資を途中で抑えられる可能性があるという情報に基づいていた。
この襲撃はタールトンの部隊が4日間で120マイル (190 km) を駆けたものの、補給物資は既に動かされていたため、失敗に終わった。
コーンウォリスはサフォークにいる時、クリントン将軍の6月20日付けの手紙を受け取る。そこには乗船させた部隊はフィラデルフィア攻撃に使うべきと書かれていた。
コーンウォリスがポーツマスに到着すると、クリントンの命令に従って部隊の乗船を始めさせる。7月20日、数隻の輸送船がほとんど出帆できるまでになっていた。しかし、このとき新しい命令が到着する。それは前の命令を撤回するものだった。
クリントンは最も直接的な言葉で、コーンウォリスが必要と考えるだけの兵士を使って水深の深い要塞化した港を構築することを命じる。コーンウォリスはポーツマスを調べて、そこがヨークタウンよりも適していないことが分かった。そのため、クリントンに宛ててヨークタウンを要塞化するつもりであることを伝える手紙を書いている。
ラファイエットは7月26日にコーンウォリスが部隊を乗船させていることを知らされた。しかし、その最終的な目的地に関する情報が欠けており、上陸点となる可能性がある数地点をカバーするための操軍を始める。
8月6日、コーンウォリスがヨークタウンに上陸し、同地とヨーク川向かいのグロスターポイントの要塞化を始めたことを知った。
ロドニー提督は、ド・グラスが少なくとも艦隊の一部を率いて北に向かって行く作戦を考えていると警告されていた。ロドニーは全艦隊を率いて行く口実があったが、ド・グラスはキャップ・フランスにいるフランスの商船団を置いて行くはずがないのである。そのため、ロドニーはド・グラスの艦隊の一部が、商船団をフランスまで護衛して行くとみなしていた。
その後、ロドニーはその艦隊を分け、15隻の戦列艦をサミュエル・フッド提督が率いて北に向かわせる。そして、ド・グラスを見つけてニューヨークに報告するよう命令した。
ロドニーはこの時病気であり、残りの艦隊を率いてイングランドに戻っている。フッドはド・グラスに遅れること5日後の8月10日にアンティグアを出帆した。
その航海の間、艦船のうちの1隻がはぐれてしまい、私掠船に捕まってしまう。フッドはチェサピーク湾に直行するルートを辿り、8月25日に到着したときは湾口が空であることを発見した。
その後は、アーバスノットが去ったあとのニューヨーク駐在部隊の指揮に就いていたトマス・グレイブス卿に会うためにニューヨークに向かっている。
8月14日、ワシントンはド・グラスがチェサピーク湾に向かって航海する決断をしたことを知った。翌日、渋々ながらもニューヨークを襲撃する考えを放棄し、「事態は重要な地点に来ており、決定的な作戦を決める必要がある。私は...ニューヨークを攻撃する考えを全て諦めることを強いられた。」と記している。
8月19日、フランス・アメリカ連合軍は南部への移動を始め、その意図をクリントンに悟らない様にするため、幾つかの策略を用いたていた。
幾つかの部隊は、ニュージャージー海岸に沿ったルートを進み、スタテン島攻撃の準備をしているかの様に見せるため、宿営地の準備をするよう命じられる。その部隊はもっともらしく見せるために上陸用舟艇を運んでいた。
ワシントンはラファイエットに、コーンウォリスがノースカロライナに戻らない様にさせる命令を送る。コーンウォリスがヨークタウンに籠もってしまったことを8月30日まで知らなかったのだ。
2日後に軍隊はフィラデルフィアを通過する。給与が支払われるまでフィラデルフィアに留まると脅した部隊に資金が宛がわれて、新たな暴動は回避された。
8月25日、ド・バラス提督の艦隊はニューポートからフランス軍の攻城戦兵器を載せて出発する。イギリス艦隊との遭遇を避けるため、慎重に海岸から離れたコースを選んで進んだ。
ド・グラスの艦隊は、フッドに遅れること5日の8月30日にチェサピーク湾に到着する。コーンウォリスを封じ込めているラファイエットを支援するため、即座に艦隊から兵士を降ろし、艦船の幾つかをヨーク川とジェームズ川を封鎖するために配置した。
8月28日、グレイブス、クリントン及びフッドが会合していたニューヨークに、ド・バラス提督の艦隊が出港したという報せが届く。ニューポートを守っていたフランス軍がすでにそこにはいなかったので、彼らはニューポートのフランス艦隊に攻撃を掛ける可能性を検討する。
クリントンは、この時点でもワシントン軍が南に向かっていることを知らず、9月2日になってやっとそのことを知った。ド・バラスの出港を知った時に、彼らは即座にド・グラスの艦隊がチェサピーク湾に向かっているに違いないと判断している。しかし、このときもその戦力をわかってはいなかった。
8月31日、グレイブスは19隻の戦列艦を率いてニューヨークを出港する。クリントンはコーンウォリスに宛ててワシントンがそちらに向かっており、クリントンは4000名の援軍を派遣するつもりであることを報せる。
9月5日、イギリス艦隊はチェサピーク湾口に到着し、そこにフランス艦隊が停泊していることを発見した。兵士を上陸させていたド・グラスは急遽イギリス艦隊を迎撃するために錨索を切断し、艦隊を出動させる。
チェサピーク湾の海戦では接戦だったものの、ド・グラスが戦術的な勝利を得た。この海戦後、両艦隊は数日間南東方向に流れて行った。しかし、イギリス艦隊が戦闘を避けたため、両艦隊共に洋上で艦船の修理を行っている。
この一連の行動はド・バラス艦隊の到着をイギリス艦隊が妨害しないように仕向けるド・グラスの策略の一部だった。9月9日、チェサピーク湾を目指す艦影が視認され、翌日ド・グラス艦隊もその後を追う。
グレイブスは艦船の内、1隻を沈船させざるを得なくなり、修繕のためにニューヨークに戻った。フランス艦隊の小さな艦船はフランス・アメリカ連合軍をチェサピーク湾を南下してヨークタウンまで運ぶことを手伝い、コーンウォリス軍包囲網を完成させる。
9月6日、クリントン将軍はコーンウォリスに宛てて、援軍を期待するよう告げる手紙を書いた。この手紙をコーンウォリスが受け取ったのが9月14日である。
この手紙はバナスター・タールトンが比較的弱いラファイエット部隊を破って脱出することを勧めたにも拘わらず、ヨークタウンに留まって脱出の試みを行わないと決断する要因になった可能性があった。
ワシントン将軍は自家のあるマウントバーノンで数年ぶりに数日間を過ごした後、9月17日にヨークタウン郊外の宿営地に到着している。
同じ日に、ニューヨークのイギリス軍指導部は作戦会議を開いた。この時、チェサピーク湾の支配を取り戻すまでは、コーンウォリスに援軍を届けられないということでは合意する。
その1日前、コーンウォリスは「私は貴殿たちが直接この場所に来てくれること以外、私に有効なことをできないという意見である」という絶望的な救援依頼を書いていた。コーンウォリスはこの手紙を9月17日に発送する前に、「貴殿たちが、早急に私を救出できなければ、最悪の事態を知らされることに備える必要がある」と付け加えている。
ワシントン、ロシャンボー及びド・グラスは、ド・グラスの旗艦ヴィル・ド・パリの上で作戦会議を開き、包囲戦の準備をすることに決した。ド・グラスはそのため約2000名の海兵と大砲数門を提供することに同意している。この会合の際、ド・グラスは10月末まで出発を延期させることにも同意していた。
ワシントンたちがウィリアムズバーグに戻ると、イギリス海軍の援軍がニューヨークに到着しており、フランス艦隊が脅かされるかもしれないという噂を聞くこととなる。
ド・グラスは警戒措置として、艦隊を湾の外に出すことを望んだが、ワシントンとロシャンボーからラファイエットを通じて運ばれた嘆願書でそこに留まるよう説得された。
9月28日、ヨークタウンの包囲戦は始まる。コーンウォリスはグロスター・ポイントから逃げ出そうとしたものの遅すぎた。その試みの後、包囲の輪が縮められ、連合軍の大砲がイギリス軍宿営地に混乱を生じさせる。10月17日、コーンウォリスは交渉を開始し、降伏した。
まさにその日、イギリス艦隊が6000名の部隊を乗せてニューヨークを出港しているのだ。しかし、そのイギリス艦隊も合流したフランス艦隊に数で負けており、最終的にはニューヨークに戻ることとなった。
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