アメリカ独立戦争(サラトガ方面作戦)-3
「サラトガの戦い」は1つの出来事として表現されることが多いが、実際には2つの戦闘を節目とする1ヶ月間にわたる作戦行動である。
1777年9月初め、バーゴイン軍は勢力7000名を少し上回るものであり、ハドソン川の東岸に留まっていた。セントリージャーの部隊がスタンウィックス砦でしくじったことを8月28日に知り、ハウがニューヨーク市から支援を送るつもりがないことも、その前に知っていた。
冬季の防御しやすい宿営地に入る必要があったが、それはタイコンデロガ砦まで引き返すか、オールバニまで進むことである。そして、バーゴインはオールバニを選んだのだ。
この判断に続いて、更に2つの重要な決断をしている。1つは北との通信線を遮断することだ。それで自軍の位置とタイコンデロガ砦との間にある防御を厚く施した基地の並びを維持する必要が無くなる。
もう1つは、比較的強固な陣地にいたにも拘わらずハドソン川を西に渡ることにしたことだ。後方にいたリーデゼルの部隊に、スキーンスボロから南の基地を放棄するよう命じた。そして、サラトガの直ぐ北で川を渡るよう命じる。
渡河は9月13日から15日に掛けて行われた。インディアンの支援が無くなっていたことで信頼できる斥候部隊が居らず、バーゴイン軍は慎重に動いて南に進んだ。
9月18日、バーゴイン軍の前衛隊はサラトガの直ぐ北、大陸軍の防衛線からは約4マイル (6 km) に到着し、両軍の先導部隊の間で小競り合いが起こる。
ゲイツがスカイラーの軍を引き継いだ時、その大半はスティルウォーターの南、モホーク川の河口近くにいた。9月8日、当時10000名になっていた軍隊に、ゲイツはスティルウォーターで防御線を張るよう命じる。
ポーランド人工兵技師タディアス・コシューシコは、その地域が防御工作に適していないことが分かったため、更に北3マイル (5 km) の新しい場所を見付けた。この場所でコシューシコは川からベミス高地と呼ばれる崖まで防御線を敷くこととなる。
この防御線の右翼は、名目上はリンカーン将軍に与えられていた。しかし、リンカーンはタイコンデロガ砦に対する陽動行動を意図した部隊を率いている。そのため、ゲイツ自身が右翼の指揮を執っていた。
ゲイツは以前、人間関係の良かったベネディクト・アーノルド将軍を軍の左翼で、西の防衛線となるベミス高地に置く。アーノルドがゲイツが憎んでいるスカイラーの友人を参謀に選んだ時、両者の関係が拗れる。
ゲイツとアーノルドの双方の癖のある性格も組み合わされ、内部の権力争いにまで発展することになった。
バーゴインとアーノルドの両者ともに、大陸軍左翼側面の重要性を認識していた。バーゴインは大陸軍陣地の側面を突けると考え、軍隊を2つに分けて、9月19日に大きな部隊を西に派遣する。
アーノルドもイギリス軍が自軍左翼を衝いてくる可能性が強いと考え、その動きに対応するためにフリーマン農場へゲイツの部隊を動かす許可を求めた。しかし、ゲイツは予想される正面攻撃に対応するため、防御線の後で待機したかったので、アーノルドの提案を拒んだ。
しかし、ゲイツは、アーノルドがダニエル・モーガンのライフル銃兵と幾らかの軽歩兵を威力偵察に送ることは許可した。この部隊がバーゴイン軍側面に接触した時、フリーマン農場の戦いが起こることになる。この戦闘で、イギリス軍はフリーマン農場を確保したが、その軍隊の1割にあたる600名の損失を出すこととなった。
フリーマン農場の戦いの後、ゲイツとアーノルドの間の確執が爆発する。大陸会議に送る戦闘の公式報告書で、ゲイツはアーノルドについて全く触れなかった。それだけでなく、事実上独立してはいたものの戦闘中アーノルドの指揮下にあったモーガンの中隊を自分の指揮下に移したのだ。
アーノルドとゲイツの両者は、ゲイツの宿営所で激しい口論となり、その中でゲイツはリンカーン将軍がアーノルドと交代させると告げた。この口論の後で、アーノルドはゲイツに手紙を書き、その憤懣を述べ、ワシントン指揮下に転籍してくれるよう要請している。
ゲイツはアーノルドに立ち去る許可を与えたものの、残留を選んだアーノルドに対する卑劣な侮辱を与え続けた。
バーゴインは、翌日に攻撃を再開することを検討したが、フレーザーが多くの兵士は前日の戦闘で疲れていると進言したため、中止する。そのため、兵士たちには塹壕を掘らせた。
9月21日にニューヨークのクリントン将軍から受け取った手紙に、ハドソン川を遡ってゲイツの軍隊を幾らか引き付けるとあったので、バーゴインは南からの支援を受けられる報せを待つことにする。
バーゴインの部隊は脱走が続いており、兵力を減らしていたのだ。また、食料やその他の重要な物資が不足し始めていることに気付いていたがものの、大陸軍が日々その数を増やしつつあることは知らなかった。そして、ゲイツがイギリス軍の宿営地の緊急を要する状況について、情報を掴んでいることも知らなかったのである。
サラトガにいる両軍が先の戦闘後まで気付いていなかったことは、リンカーン将軍とジョン・ブラウン大佐が、タイコンデロガ砦のイギリス軍陣地に攻撃を掛けていたことであった。
リンカーンは、9月初旬にベニントンで2000名の兵士を集めている。クリントン隊はバーモントのポーレットまで進軍した後で、タイコンデロガ砦の守備隊を急襲できる可能性があるという報せを受けた。
リンカーンは3つの分遣隊をそれぞれ500名の兵士で編成し、「敵を悩ませ、分割し、動転させろ」と言って送り出す。1つ目の部隊はスキーンスボロに行って、そこがイギリス軍に放棄されていることを見付ける。2つ目の部隊はシャンプレーン湖東側のインデペンデンス山の占領しに行き、ジョン・ブラウン大佐が率いる3つ目の部隊はタイコンデロガ砦に接近した。
9月18日朝、ブラウン隊がジョージ湖とシャンプレーン湖を繋ぐ陸路南端でイギリス軍守備隊を急襲する。ブラウン隊はイギリス軍守備隊に対する急襲を続け大砲を捕獲していた。そして、タイコンデロガ砦を前にする高地に到着し「オールド・フレンチ・ラインズ」を占領したのである。
ブラウンの部隊は進軍中心に捕虜になっていた100名を解放し、更に300名近いイギリス兵を捕獲していた。
ブラウンが砦の守備隊に対して降伏を要求したものの拒絶される。その後の4日間をブラウン隊と砦の守備隊は砲撃戦を交わしたが、ほとんど効果は無かった。
ブラウンは実際に砦を襲うには兵力が足りなかったので、ジョージ湖まで引き返す。そこで湖上の島にある物資貯蔵所を占領しようとしたが成功しなかった。
ゲイツ将軍はフリーマン農場の戦いがあった日にリンカーンに伝言を送り、サラトガに戻ってくることと、「一瞬でも失われるべきではないこと」を伝えさせる。
リンカーンはベミス高地に9月22日に到着したが、部隊の残りが到着したのは29日のことだった。
ハウ将軍はニューヨークを出てフィラデルフィアに向かう時に、クリントンにニューヨーク守備の任務を与えていた。そして、もし機会があればバーゴインを支援するよう指示している。
クリントンは9月12日にバーゴインに宛てて伝言を送り、「貴方が2000名の兵士で効果的に支援できると考える」ならば、「約10日の内にモンゴメリー砦に圧力を掛ける」つもりだと伝えていた。バーゴインはこの手紙を受け取ったとき、即座にクリントン隊が支援のためにオールバニに到着できるという可能性に基づいて、前進すべきか後退すべきかクリントンの指示を求める返書を出す。バーゴインは10月12日までに返事を受け取らなければ、撤退を強いられることになると示唆していた。
10月3日、クリントンは3000名の部隊を率いてハドソン川を遡る。バーゴインの返書を受け取った翌日の10月6日には、クリントンとモンゴメリーと名付けられた2つの高台の砦を占領した。
この勝利の後で送った3人の伝令は、全て捕まってしまったので、バーゴインがクリントンの伝言を受け取ることは無かったのである。
クリントンは勝利の後でハドソン川に架かっていた鎖を壊し、襲撃隊に川を遡らせて10月16日には北のリビングストン荘園まで進んだが、その後に撤退している。クリントンの動きに関する報せがゲイツのもとに届いたのはベミス高地の戦いが終わった後だった。
リンカーン部隊の2000名に加えて、民兵隊が大陸軍宿営地に殺到し、大陸軍は15,000名以上まで脹れ上がる。バーゴインは10月3日に軍隊の食料が底を突き、翌日には作戦会議を招集した。この会議の結論は、約1700名の部隊を大陸軍左側面に送って威力偵察を行うことに決まる。
10月7日の午後、バーゴインとフレーザーは分遣隊を先導した。その動きは見張られており、ゲイツはダニエル・モーガンの兵士だけが対抗して送り出す。アーノルドはそれでは明らかに不十分であり、大部隊を送るべきと言った。しかし、ゲイツはアーノルドの言葉を最後まで聞かず、その言を無視して「貴方はここでは仕事ができない」と伝える。だが、ゲイツはリンカーンから与えられた同様な忠告には同意した。
モーガンの中隊をイギリス軍の右翼に送ったことに加え、エノック・プアの旅団もバーゴインの左翼に派遣する。プアの部隊がイギリス軍と接触したときに、ベミス高地の戦い(第2次サラトガの戦い)が始まった。
大陸軍の最初の攻撃は非常に効果的であり、バーゴインは後退を命令しようとしたが、その命令が伝えられる前に副官が撃たれた。激しい戦闘の中で、バーゴイン軍の側面が露出する。中央ではブラウンシュヴァイク兵がラーニド隊の決死の攻撃に耐えていた。
戦闘のこの段階で、フレーザーが瀕死の重傷を負ってしまう。フレーザーが倒れ、大陸軍の援軍が到着したことで、バーゴインは軍の左翼に塹壕線の背後まで後退するよう命令した。
アーノルドは自分が関わられない戦闘の音によってイライラが募り、ついに大陸軍の作戦本部から馬に乗って飛び出し、前線に加わる。イギリス軍前線の右翼は、フリーマン農場に造られていた2つの土盛り堡塁で構成されており、ハインリヒ・ブライマンが指揮するブラウンシュヴァイク兵とバルカレス卿が指揮する軽歩兵が守っていた。
アーノルドは兵士を鼓舞し、まずバルカレスの堡塁を攻撃したが成功しなかった。続いて、大胆にもカナダ人非正規兵の小さな中隊が守る2つの堡塁の間の空間を馬で抜けて進んだ。
ラーニド隊の兵士が後に続き、ブライマンの堡塁のがら空きになった後方を襲撃する。アーノルドが乗っていた馬が撃たれ、アーノルドは倒れた馬の下敷きになり、足を骨折した。そして、ブライマンは激しい戦闘の中で殺され、その陣地は占領される。そして、夜が訪れ、戦闘は終わったのであった。
この戦闘はバーゴイン軍にとって流血の多いものであり、約900名が戦死、負傷または捕虜となる。対して大陸軍は約150名の損失であった。
フレーザーは受けた傷が元で、翌日早く亡くなる。しかし、埋葬されたのは日没近くなってからだった。
バーゴイン軍の塹壕線は、大陸軍によって執拗な嫌がらせに曝されていたので、バーゴインは撤退を命令する。そして、バーゴイン軍がサラトガに到着するまでに2日近く掛かった。激しい雨と、大陸軍の探りを入れる攻撃のため、イギリス軍の歩みは鈍いかったのだ。
しかし、バーゴインは大陸軍の宿営地における兵站の問題に救われる。大陸軍は物資を前に進めていなかったため、食料を発給するのが遅れていたのだ。そのため、大陸軍は前進する力を奪われていた。
しかし、ゲイツは分遣隊をハドソン川の東岸に派遣し、如何なる渡河の試みにも対抗するよう命じる。
10月13日朝までにバーゴイン軍は完全に包囲されたことで、作戦会議を開いて交渉を開始することを票決で決めた。降伏条件は10月16日に合意に達したが、バーゴインは降伏よりもむしろ「協議」と呼ぶことを主張する。
10月17日、バーゴインがゲイツにその刀を渡し、直ぐにそれを返してもらうという儀式に続いて、バーゴイン軍はその武器を渡すために行進し、大陸軍の音楽隊は「ヤンキードゥードゥル」を演奏した。
イギリス軍は11月にタイコンデロガ砦とクラウンポイントから撤退し、12月初めにはシャンプレーン湖からも居なくなっていた。一方、大陸軍はまだやることが多い。
クリントン将軍によるハドソン川襲撃の警告を受けて、10月18日に軍隊の大半は南のオールバニに進んだ。
そして、別の部隊は「協議の軍隊」を伴って東に向かう。バーゴインとリーデゼルは、降伏の儀式を見るためにオールバニから北に来ていたスカイラー将軍の客になることに決まった。
バーゴインの降伏に反応した大陸会議は、1777年12月18日をサラトガにおける軍隊の成功と認識し「厳粛に感謝を献げ称賛する」国民の日と宣言する。これは初めてアメリカとして祝日を公式に祝う機会となった。
協議の条件の下で、バーゴイン軍はボストンまで行軍し、そこからはその構成員が正式に交換されるまでこの戦争に参加しないという条件で、イギリス船でイングランドまで送り返されることになっていた。
大陸会議は将来の戦争に関する合意条件が守られるように、バーゴインに軍隊構成員のリストを提出するよう要求する。しかし、バーゴインがこれを拒むと、大陸会議は協議の条件を履行しないことを決め、軍隊は捕虜のまま留まった。
バーゴインの軍隊はニューイングランド中の疎らな宿営地に暫くの間留めらることとなる。個々の士官は交換されたが「協議の軍隊」の大半は最終的に南のバージニアまで移動し、数年間捕虜のままとなった。
捕虜となっている間に、数多くの兵が逃亡し、実質的に脱走兵となってアメリカ合衆国国内に定着することとなる。
1777年12月4日、ヴェルサイユのベンジャミン・フランクリンの元に、フィラデルフィアが陥落したことと、バーゴインが降伏したという報せが届いく。2日後、フランス国王ルイ16世は同盟の交渉に承認を与えた。
同盟条約は1788年2月6日に調印され、フランスは1ヶ月後にイギリスに対する宣戦布告を行い、7月のウェサン島の海戦で戦争が始まる。
スペインは直ぐには参戦しなかったが、1779年になって、秘密のアランヘス条約に従ってフランスの同盟国として参戦した。
フランスの参戦に続くヴェルジェンヌ伯の外交努力によって、後にオランダの参戦が実現し、ロシアのような他の重要な地政学的担い手が中立宣言を発することにも影響する。
バーゴイン降伏の報せがロンドンに届いた時、ノース卿のイギリス政府は厳しい批判に曝された。ジャーメイン卿については、「大臣は戦争を遂行できない」とまで言われ、ホレス・ウォルポールは「我々はアメリカでの戦争を終える時に近付いている」と語っている。
ノース卿は独立の条項を含まない和平条件を議会に提出した。これはカーライル和平委員会によって大陸会議に届けられたが、拒絶されることとなった。
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