フォルスターとの出会いと海外進出構想
俺はリヒテンベルクの紹介を経て、ゲオルク・フォルスターと会うこととなった。フォルスターはドイツ圏に博物学者であるが、旅行家として有名な人物だ。
フォルスターは、子供のときから父に付き添って、科学的な探検に参加している。 その中で最も有名なのがジェイムズ・クックの2回目の太平洋航海だ。
フォルスターの書いたクックの2回目の航海の報告である『世界一周の航海』は、ポリネシアの民俗学に大きな貢献をした。この報告が高い評価を受け、フォルスターは22歳でイギリスの王立協会の会員になっている。フォルスターは後に、近代の科学的な旅行文学の創立者と評される人物だ。
また、フォルスターはドイツにおける啓蒙思想の中心人物であり、リヒテンベルクを含む多くの啓蒙思想の人物と交際があった。彼の思想と人格は19世紀ドイツの偉大な科学者であるアレクサンダー・フォン・フンボルトに大きな影響を与えている。因みに、アレクサンダーの兄であるヴィルヘルムが、後にプロイセンで改革を行うフンボルトだ。
フォルスターは後に、革命家として扱われるのは、フランス革命戦争期の1793年7月に建国されたマインツ共和国に関わっていたからである。今はどうか分からないが、将来的には危険になりうる人物と言えるだろう。
フォルスターは、1784年からリトアニアのヴィリニュス大学で自然史の教授を務める。フォルスターがリトアニアに赴く前に会えたのは僥倖と言えるだろう。
ポツダムの宮廷において、フォルスターに会うと、俺は殆ど話すこと無く、侍従が対応していたが、俺の反応があまり無いことに、不思議そうにしていた。いつものことなので、俺はあまり気にしないがな。
フォルスターから、彼の研究についての話を聞いた後、一番興味のあるクックの第2回目の太平洋公開についての話を聞く。
クックは第1回目の太平洋探検航海から帰還後、その功績を認められて「軍艦を指揮する海尉」から海尉艦長に昇進する。そして、クックは、王立協会から南方大陸探検隊の指揮を委任された。
第1回目の太平洋探検航海のニュージーランド周航によって、ニュージーランドが南方の大陸(テラ・アウストラリス)とは繋がっていないことが判明する。そして、東海岸の測量によって、オーストラリアが大陸であろうことも、既に明らかにされていた。
しかし、王立協会はテラ・アウストラリスは、更に南に存在するはずと信じていたのだ。こうして1772年7月12日、クックは第2回目の太平洋探検航海に再び出帆した。
探検隊長のクックは、英国軍艦レゾリューション号を指揮し、トバイアス・ファーノーはアドベンチャー号を指揮する。アフリカ大陸南端から東進した一行はきわめて高緯度の地域を周航し、1773年1月17日にヨーロッパ人として初めて南極圏に突入した。これがどれほどの偉業であったかは、次の南極圏突入が50年後だったことからも明らかである。
南極圏の濃い霧によって、はぐれた2隻はニュージーランドで落ち合う。そして、南太平洋を東進してさらに南下し、南緯71度10分まで到達した。
その後もクックは探検を続けたが、ファーノーは先に英国へ帰還することになった。しかし、ファーノーはニュージーランドでマオリ族との戦いで10人の部下を失ってしまう。
クックは、もう少しで南極大陸を発見するところであった。しかし、南方大陸に人類が居住可能な緯度には存在しないことを確かめ、伝説の南方大陸の探索に終止符を打つ。
補給のため、北のタヒチへ進路を取り、オマイというタヒチ人の若者を伴って再び南へ向かった。しかし、オマイは第1回目の太平洋探検航海のトウパイアほどは太平洋の地理に明るくなかったのである。
そのため、帰りの航海では、1774年にトンガ、イースター島、ニューカレドニア、バヌアツに上陸した後、ふたたび南下して南緯50度から55度付近の航路を取った。この航路を取ったことによって、クックは南極大陸北方の海を周航したことになったのである。そして、南方大陸がこの緯度までには存在しないことを確定させたのだ。
この航海によって、南方の未確定領域は大幅に狭められることとなった。その後、クックは東進し、南アメリカ大陸南端を回り南ジョージア島と南サンドウィッチ諸島を発見している。
クック一行の帰国報告によって、テラ・アウストラリスの伝説は沈静化した。一方で、クックは探検した海域の南方には大陸があることを予想する。しかし、それは人類が居住できるようなものではないことも予測していた。クロノメーターが活躍し、正確な経度の決定が行われたことも、第2回目の太平洋探検航海の大きな業績となる。
因みに、クックは南サンドウィッチ諸島をサンドウィッチ・ランドと命名していた。しかし、第3回目の太平洋探検航海で、クック自身が発見し、命名したサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)と区別するため、後にイギリスが南サンドウィッチ諸島と改名している。
多大な業績を挙げたクックは、帰国後に直ちに勅任艦長に昇進した。同時に海軍を休職して、グリニッジの海軍病院の院長に任命される。水兵から勅任艦長への栄進は、極めて稀な事例であった。壊血病予防に対する貢献に対して王立協会からコプリ・メダルを授与され、フェローにも選出されている。
しかし、未だ48歳のクックは海から離れるのに耐えられず、航海記を書き上げた直後に、彼の最後の航海となる第3回目の太平洋探検航海に出帆した。クックはこの航海で、ハワイ人によって殺されている。
実際に航海に参加したフォルスターの話は有意義なものであった。質問については、筆談を活用して尋ねる。普段は客人に対してなど使わないのだが、気になることを解消するためには仕方ない。フォルスターはこれに対しても、しっかり答えてくれた。
フォルスターとの話も終わり、今後も書状の遣り取りをすることを約束する。
フォルスターから、クックの第2回目の探検航海について聞くことが出来たが、将来的なプロイセンの外洋進出の参考になった。
特に、ニュージーランドのマオリ族など危険極まりないな。実際のところ、ニュージーランドはマオリ族たちによる戦国時代状態だ。余力が無いと関与するのは厳しい。優先順位は低いな。
プロイセンが太平洋に進出するなら、ニューカレドニアやタヒチを優先すべきだろう。
ハワイはクックが殺されているので、交易程度に留めておいた方が良さそうだ。
プロイセンの将来のためにも、外洋政策はしっかり考える必要があるだろう。
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