武装中立同盟

 アメリカ独立戦争が勃発し、我がプロイセンも介入していない訳ではなかった。大伯父フリードリヒ大王は、1780年にロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世が主導する武装中立同盟に参加したのだ。


 イギリスはアメリカ独立戦争において、中立国船舶捕獲宣言をし、対米海上封鎖を行ったいた。中立国でも、アメリカと交易する船は拿捕するとイギリスは脅しをかけたのである。

 それに対し、1778年に中立国のスウェーデンが中立国船舶の保護を訴えた。翌1779年、イギリスの政策に対抗してロシアの女帝エカチェリーナ2世は、中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言を唱える。この提唱によって、1780年に北欧を中心にロシア・スウェーデン・デンマーク・プロイセン・ポルトガルの5か国が参加し、武装中立同盟を成立させたのだ。

 参加国はそれぞれ、植民地政策でのイギリスとの対立や、当時盛んになった啓蒙思想に共鳴したことなどの思惑があり、武装中立同盟参加の鍵となった。こうして、参加国は、中立国としてアメリカへの輸出を推進する。

 武装中立同盟の結成により、アメリカ独立戦争はより国際化し、フランス・スペイン・オランダからも宣戦布告されていたイギリスは国際的に孤立する結果となった。これが結果的に、アメリカの独立を間接的に支援する結果となるのだが。


 武装中立同盟によって、大伯父フリードリヒ大王は、アメリカ独立戦争を支援することとなりアメリカからは喜ばれた。大伯父は、イギリスの港を経由せずにアメリカとの貿易を始めることに興味を示す。そして、プロイセンでアメリカの代理人が武器を買うことを認めたのである。

 大伯父は、アメリカの成功を予言し、アメリカ合衆国を認知することを約束する。そして、フランスと同様にアメリカの外交官を受け入れた。

 また、大伯父は、イギリスへの援軍として、帝国諸侯の軍隊がプロイセン国内の道路を通行することを禁止する。そのため、アンハルト=ツェルプストの軍隊が通行することが出来なかった。この部隊は1777年から1778年の冬に、ハウ将軍がワシントンの軍隊を潰すために必要としていたものだったが、到着が遅れることとなる。


 しかしながら、アメリカに有利に運ぶ様に動いていた大伯父は、ロシアなど隣国がアメリカに派遣する軍隊を起ち上げる時に干渉していた。プロイセン国内でアメリカのために徴兵することを禁じたのだ。

 大伯父としては、アメリカ独立戦争が長期化することで、イギリスとアメリカを支援するフランスの双方が疲弊することを期待していたのかもしれない。


 しかしながら、神聖ローマ帝国においてバイエルン継承戦争が勃発すると、大伯父フリードリヒ大王は、プロイセンとイギリスの関係に大変神経質になふ。アメリカの船舶はプロイセンの港に接近することを止められることとなった。

 史実では、1783年のパリ条約に調印するまで公式にアメリカ合衆国を認知していない。アメリカ独立戦争後も、アメリカ合衆国は共和国として運営するには大きすぎるので、間もなくイギリス議会に代表を送って大英帝国に復帰するだろうと予言している。残念なことに、その予言は外れてしまうが。

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