第十九話

お兄ちゃんの言うとおり、特訓後間もなく降り出してきた雨は勢いを増し、夕方の今になっても降り続いている。文字の勉強のために読んでいる絵本のページを捲る音と雨粒が窓を叩く音が響く静かな自室で私は夕食までの時間をひとりで過ごしていた。

三洋大陸公路の公用語は日本語だけれど、会話を文字に起こす時に使うのは魔法文字と呼ばれるクライス文字を使っている。

ゲーム中はクライス文字が読めなくても字幕がついていたから苦労しなかったけれど、今の生活には当然字幕がないので一から勉強しているのだけれど、これがなかなか難しい。


「うーん…」


どうしてこの文字でこの読み方をするのかが全然わからない…。漢字みたいに形と意味がわかりやすかったら覚えやすいのに。前世では勉強は片っ端からノートに書き写して覚えていたけれど、今の私にはペンを握る握力がまだないからその方法が使えなくて勉強の進みもそんなに早くない。お父さん達はじゅうぶんだって言ってくれるけど、もう少しスピードを上げたいのが本音。それもこれも全部、握力がないせいだ…。

精霊の加護プラス神子の私は身体的な発達も早いはずなのに、握力がなかなか上がらない。身体に負担をかけすぎない、でもこの年ではじゅうぶんな握力向上の運動も取り入れているにもかかわらず、握力だけは全く成果が見えない。

お父さん達曰く、私は身体より感覚の発達の方が早いらしく、だからどうしても感覚の発達と比べると身体の成長が遅く感じるのだろうって。まあ感覚の発達が早いおかげでこの年齢でも力の制御に取り組めることを思えばしょうがないかな、とは思うけど。

でもお父さん達は身体の発達の方が早かったらしい。その時はやっぱり人によって違うのかーぐらいにしか思っていなかったけれど、やりたいことが増えてきた今では当たり前にできそうにないことに最近少しストレスを感じつつある。力の制御は成果をきちんと感じられるのに、勉強が目に見えた成果を得られないから余計に。

早くペンを握れるようになりたい。勉強もはかどらせたいし、何より少しでもゲームの知識を残したい。それなのに…ってネガティブになっちゃ駄目!さ、勉強再開しよう。


「?」


心を奮い立たして次の絵本を手に取ったその時、唐突に違和感を覚えた。何の前触れもなく降って湧いたような“揺れ”ともいうべき感覚に首を傾げていると、風を切る音と共に目の前にシルフが現れた。


《久しぶり、明藍》


「!あ、うん。ひさしぶりだね、シルフ」


特訓を始めてから数ヶ月、気配を感じてもすぐいなくなったり気配を感じなくなったりして私の前に姿を見せなかったシルフの突然の来訪に最初こそ驚いたけれど、久しぶりに顔を見られた安堵の気持ちがすぐに勝った。

お父さん達の守護精霊は見えなくても常に側にいる感覚はあったけど、シルフの気配は感じ取れなかった。神様の右翼も務めているからお父さん達の守護精霊とは違った意味で忙しいのかなってちょっと心配していたけど、目の前で元気に動いているシルフから揺らぎは感じられないから心配は無用だったみたい。


《少し顔を合わせなかった内にここまで話せるようになっているなんて思わなかったから驚いたよ》


「したったらずだけどね」


《舌っ足らずでも幼子でそこまで話せていたらじゅうぶんだよ。その上もう文字の勉強か。君の年齢からすればじゅうぶんすぎるほどできることは多いのに、どうして満足できないの?》


机に積んでいる絵本を指差し、私を褒めてくれる姿は見た目も相まって本当に子どもみたいでその無邪気さが荒みつつあった心を徐々に落ち着かせてくれたのに。疑問を投げかけてきた声は表面上純粋だったけれど、そのすぐ裏側には刃物のような鋭い感情が隠れているように感じて答えを躊躇ってしまった。ザワザワと落ち着かない気持ちを落ち着かせようと服の上から心臓の辺りをきゅっと握り、深呼吸してもう一度シルフと視線を合わせる。


「いまのじぶんにできることをふやしたいからだよ。だから、がんばるの」


《増やしてもできないことがあるのに?現に今、君は勉強で行き詰まっている》


「あくりょくがついてきたら、べんきょうもはかどるようになるよ。そしたら」


《できることが増える、って?描く未来のために努力する姿は尊敬に値するけれど、努力し続けた先に何があるのか、君はちゃんと考えているの?》


シルフから伝わってくる空気がいつもと違う。でもその感覚を探る前に“危険だ!”って警鐘を鳴らすような感覚が瞬間的に湧き上がってきたせいで一歩引いてしまい、一瞬の機会を逃がしてしまった。

気のせいだと割り切るには重い“何か”だったけれど、シルフが次々と問いを投げかけてくるからそっちに意識が持っていかれてしまう。いや、そうじゃない。持っていって集中しないと、取り返しの付かなくなることになりそうな嫌な感覚があった。

だから私はすべてを振り払ってシルフとのやりとりに集中し、本心で答えていく。シルフの圧は強いけれど、私も引くわけにはいかない。私は常日頃から未来を変えたいって言っているけれど、国を変えたいとか大きなことをしたいわけじゃない。私が行き着きたい先は――。


「たいせつなひとたちのえがおがあふれている、みらい。それいがい、なにもいらない」


《大切な人達、ねぇ。でも君の行いって家族だけじゃなく、全然関係ない人達の未来まで救うってことだけど?》


「そうだよ」


《ふーん。どうしてそこまで肩入れできるの?君からすればこの世界で生きる人達はたかがゲームの一キャラクターなのに》


「たかが、じゃない」


ドスの利いた声が出てああ、こんな声も出せるのかって頭の片隅で思いながらシルフを睨み付ける。私の態度にシルフがまるで楽しむようにニヤリと口角を上げた。シルフに圧されつつあった私が初めて剥き出しの感情を晒したことが気に入ったのか、そもそも怒らせることが目的だったのか。表情の変化からその意図を読み取ることはできないけれど、今はそういうことはどうでもよかった。

確かに最初はここがゲームでは過去として扱われる時代なことにとても驚いて同時にどうして今?って思った。変えなくてはいけないこと、救いたい、救わなくてはいけない人々があまりにも多すぎて、記憶を失っていくばかりの私にそれができるのか不安だった。でもそうして不安がっている私を風野家の皆は、私の家族は包んでくれた。私が抱えている不安の正体がわからなくても、丸ごと私を受け入れ、愛してくれた。

家族が私の存在を許してくれているおかげで私は自分を、状況を冷静に見つめ直せた。だから、覚悟を決められた。私の生き方に影響を与え続けてくれる家族はもうとっくに“ゲームの一キャラクター”の枠を超え、ただの“私の家族”だ。

つまり、その家族に影響を与えられ、共に歩む私自身もまたこの世界で生きる者のひとりということ。シルフの言う“たかがゲームの一キャラクター”は私にも当てはまっていたことで、今は当てはまらない。


私はとっくにこの世界で生きる覚悟を決めている。だから救いたい人達の未来を守るために努力を重ねるの。

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