短編集
小膳
少年は夜を殺す(1/2)
音もなく霧雨が降り続ける夜だった。
人通りの絶えた暗い街角に、大きな光を放つ建物があった。二十四時間営業のスーパーマーケット、サマーズ・ストアだ。
テーブルにつき、退屈しのぎにスマートフォンをいじっていた詠美は、ふと人影に気付いた。
いつからそこにいたのか。フードコートの隅のほうに、一人の少年がいた。椅子に浅く座り、ポケットに手を突っ込んで、ストローを口に咥えている。何をするでもなく、ただ宙を見つめ、咥えたストローを虫の触覚のように振っていた。
詠美は興味をそそられた。ハンドバッグを掴み、彼のほうに向かった。
椅子を引き、少年の向かいに座る。
「ここ、いいかな」
詠美は返事を聞く前に座った。
少年の目は大きく開いた詠美の胸元に一瞬釘付けになったが、すぐに視線をそらし、手元のコーヒー容器に落とした。ひと目で彼女が何の仕事をしているか気付いたようだ。
詠美は革のジャケットにヘソ出しのキャミソール、超ミニのスカートという格好の女だ。髪はベリーショートで、赤く染めている。
詠美は二十四時間営業のスーパーマーケットで客を引き、店内の多目的トイレで体を売る売春婦である。詠美を囲っている組織がカネや女を提供する代わりに、ストア店長は見て見ぬふりをしているのだ。
「あー……俺はカネがないんだ」
ぼそりと言った少年に、詠美は笑って首を振った。
「そんなんじゃないの。今夜はお茶引いてるし(*客がつかないという意味)。それとも目の前にいちゃダメかな?」
少年は十六から十八くらいで、ダブついたパーカーにデニム、ごつい靴といったストリート系のファッションをしている。印象的なのはその目だ。どこか狂犬を思わせる目をしている。目の前には手付かずのアイスコーヒー。
「俺といても楽しくないぜ」
「一人でいるよりかはマシじゃない?」
少年はふと言った。
「一人ぼっちって恥かな?」
「え? ……うん。どうだろうね」
少年は咥えていたストローを手に取り、笑った。
「俺は一人ぼっちでも平気だって思ってたよ。こないだまでは。だけど実際、誰も待ってねえ真っ暗な家ってのはな。帰りたくなるもんじゃねえよな」
「家族は?」
「両親は死んだ。兄貴は病気で入院中」
詠美は型通りの同情を含めて微笑んだ。
「お気の毒にね」
「今は俺一人だ。帰っても半額シールの付いた弁当食って、スマホをいじって、あとは寝るだけ」
「だからここで時間を潰してるわけ」
「あんたで時間を潰す気はないぜ」
「もう、何でそんなに警戒するの?」
苦笑する詠美に、少年は首を振った。
「俺は人見知りなんだ」
少年の目がふと、詠美の左手に向けられた。
「その指輪って〝シルバーシャイン〟の?」
「気付いた? イイでしょ。ちょっと前に雑誌の懸賞で当たったの」
詠美は得意げな笑顔をし、オモチャを見せびらかす子どものように指輪を少年に見せた。天外発の有名ブランド品だ。
「耳のも?」
詠美は恥ずかしそうにイヤリングに触れた
「ううん。こっちはシルバーシャインのマネして自分で作ったの」
「自分で? それもスゲエな」
「抽選で一名様なんて、絶対当たらないって思ってた。でも指輪が当たったとき、私は〝受け取った〟と思った。プレゼントだけじゃなくて、何て言うか……夢を。私なんかでも夢を持ってもいいよって、そういう何かを運命から受け取ったんだって思った」
詠美は目を細めて言った。
「それでこういうシルバーアクセを作るデザイナーになろうと思ったの。いつか自分の工房を持ちたくて。今ね、いろいろ勉強中」
少年は詠美に笑いかけた。
「何もかもうまく行くさ。きっとな」
その言葉が詠美には嬉しかった。早くも彼のことが気に入り初めていた。特に彼の目が好きだ。狂犬の目が笑うときだけ優しくなる。
そのとき、詠美を呼ぶ声がした。
「詠美!」
怒りと苛立ちの篭った男の声であった。詠美はびくっとして振り返った。
二人の男がフードコートの入り口に立っていた。詠美を睨み、手招きしている。詠美を囲っている元締の使いだ。
「あ……ちょっとごめんね」
詠美は少年に言い、席を立った。
少年は頷き、ストローを口に咥えて視線を宙に戻した。
詠美は男たちと一緒に三人で多目的トイレに入った。男の片方がスライドドアを締めて鍵をかけると、いきなり詠美の顔を拳で殴った。
ゴッ!
「あっ!」
頬の骨が軋んだ。詠美は短く悲鳴をあげてよろけ、スライドドアにぶつかって倒れた。
男は詠美の髪を掴んで強引に立たせ、歯を剥き出して怒鳴った。
「テメエ、客放り出して逃げたってどういうことだ!?」
詠美は両手で顔を守りながら必死に言った。
「だって首を絞められたのよ! あいつ、笑ってた! 殺されると思って、それで……あっ!」
男は詠美の手を振り払うと、再び容赦なく顔を殴った。
ゴッ!
詠美の唇の端が切れて血が跳ね、床と壁に点々とかかった。口の中に生温い血の味が広がる。
つい先ほどの話だ。詠美はある政治家の家に派遣されたのだが、その男は異常な性癖の持ち主で、事の最中に詠美の首を両手で絞めたのだ。生易しい力ではなかった。詠美は死に物狂いで振りほどいて逃げ出した。
今、詠美の目の前にいる男たちは彼女を囲っている売春組織の連中である。
床に倒れてせき込む詠美の前に男はしゃがみ込んだ。震える詠美の前髪を掴んで頭を上げさせ、睨み付けた。
「明日の夜になったらあの客んとこに行ってワビ入れろ。謝罪のサービスだ。タダ働きしてもらう」
「……」
男は詠美の左手を掴み、強引に指輪を抜き取った。
「これはもらっとく。罰金代わりだ」
「それは私の……!」
「私の?」
詠美は抵抗しようとしたが、男が目に威圧を込めた。
「人間みたいなことを言うんじゃねえ。ここはどこだ? 便所だ。お前は何だ? 便器だ」
詠美は成すすべなく自分の手から指輪が抜き取られるのを見ていた。
男たちが多目的トイレから出て行ったあとも、詠美はトイレの床に突っ伏したまま泣いていた。しばらくすると立ち上がり、鏡に向かって化粧を直した。
鏡の中にはボロボロの素顔を化粧で薄氷のように覆った自分がいる。殴られた頬の痛みよりも、プライドを踏みにじられた痛みが響いた。
「泣かないぞ。負けないぞ」
詠美は自分に向かって震える言い、こぼれそうな涙を拭いた。
「夢を叶えるんだ」
多目的トイレを出て、フードコートに戻った。痛みでくらくらした。
少年の前に座り直した。また涙が溢れそうになったが、詠美はそれを押し込め、彼に何事もなかったように微笑んだ。これまでに何度もそうしてきたように。
「お待たせ」
少年は詠美の顔を見た。詠美の殴られた痣は隠し切れていないし、唇の端の血も止まってはいない。彼はそれに当然気付いてはいたが、何も言わなかった。
少年の目はフードコートのガラス壁に向けられた。そちらに見えるサマーズ・ストアの駐車場で、あの男二人が何か話しているのが見える。男の片方は手にした銀の指輪を眺め、値踏みしていた。
男二人は自分たちの車に乗り、駐車場を出た。
次に少年の視線は詠美の左手に向けられた。詠美は隠すように左手をテーブルの下に持って行った。あの男たちから指輪を守り切れなかったことが恥ずかしかった。
「大事なものはハートの金庫に入れとくのよってママが言ってた」
詠美はともすれば泣き声になりそうな震え声で言い、笑った。
「そこに入れておけば誰にも奪われないって。それで……そこに入らないものはね、失くしても惜しんじゃダメだって。いつか必ずなくなるものだから」
少年は何も言わなかった。彼はちらりと腕時計を見た。夜十一時五十五分。
「あー、そろそろ日付が変わる。月曜日になる。コンビニにボンドが並ぶ」
「ボンド?」
「週刊少年ボンド。漫画雑誌の」
「ああ……」
「ボンド買ってくるから、読者プレゼントのはがきを書いてくれないか? あんたの強運を貸してくれよ」
「うん……いいよ」
「テレビ欲しいんだよな。超でけえやつ。すぐ戻る」
少年は席を立ち、店を出た。
***
その少年、
垂直の壁を両足で、である。
サマーズ・ストアの屋上看板の上に立つと、目を凝らす。月も星もない闇夜の中であっても、彼の目は真昼のようにはっきりと物が見える。そしてあの男二人が乗った車のエンジン音をも正確に聞き取ることができる。
何もかも人間業ではない。それも当然のことだ。日与は人間ではないのだ。
日与は建物の屋上から屋上へと飛び移り、車を追い駆けながら、あの男たちの会話を思い出した。多目的トイレから出てきたあの二人の会話を盗み聞きしたのだ。
(((兄貴ィ。あの女、次こそホントに殺されますぜ。いいんですかい)))
(((詠美の稼ぎは大したことねえ。不良在庫だ。だからあのブタ野郎に殺させて、それをネタに脅迫して抱き込む予定だったんだよ。それがあのバカ女! 大人しく殺されときゃうまくいったもんをよ……そんな顔すんじゃねえ、リーダーの命令だ。しょうがねえだろ)))
日与としても、詠美がどうなろうが日与の知ったことではない。知り合ったばかりで縁もゆかりもない街娼だ。それなのに、自分は一体何をしているのだろう?
「ただの暇潰しだ」
日与は自分に言い訳するように呟いた。
「他にやることもねえしな」
車に追いついた。
日与はシティホテルの看板を蹴り、中空に身を躍らせた。その姿はメキメキと音を立てながら変貌して行く。
ガシャアア!
日与は男たちの乗った車の上に三点着地! 衝撃でルーフが潰れ、フロントガラスにヒビが入って真っ白になる。
次回 01/17(00:00) に更新予定!
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