「帰ろうか。」

西野 夏葉

1年目

<バス乗れた?>



 彼からのLINEに「いま乗ったー」と返信すると、すぐにスタンプで反応が返ってきた。利き手と反対の手で書いたような、テキトーな人の絵。両手をあげて、横にはまた適当な字で「ウェーイ」と書いてある。どうやってこんなスタンプ見つけてくるんだろうね。しらんけど。



 それを追いかけるように、すぐにまた彼からメッセージが届いた。



<坂を上って、途中で曲がった後しばらくしたら「桧通ひのきどおり」ってバス停に着くから、そこで降りて! 着くぐらいの時間に待ってる>

「わかった! でも雪降ってるし、無理しないでいいよ」

<いやいや。好きでやってるんで、なんも気にしないで笑笑>



 好きでやってる、かあ。

 客を迎えに行くことを好きでやってるのか、わたしのことが好きでそれをやってるのか、どっちなんだろうな。優しくていい人だとは思うけど、彼の場合、純粋に誰にでも優しいんじゃないか……って思うときもあるし。


 バスの窓の外を眺めながら思った。曇った窓の向こうには、すれ違う車のヘッドライトと、それに照らされ浮かび上がった、舞い落ちる雪しか見えない。




 大学に入ってすぐサークルを見つけて、まさかその中で恋人ができるとは思っていなかった。2年生で突然訪れた、春。

 ……いや、嘘。それはまあ、絶対そんなことあり得ないとはさすがに思ってなかったけど。それでもなぜか、今もよくわからない感覚が胸の中にあった。


 今から、初めて、一人暮らしの彼氏の家に向かう。

 そのことを事実として受け入れていいものか、夢オチの可能性を考えておくべきなのか、と。

 こういう難しい性格だから、これまでも長続きしなかった自覚はあるんだけど。

 あるんだけどね。

 まあそんな簡単に人間って変われないからね。


 もう何度目になるかわからない言い訳を唱え続けていたら、バスは長い上り坂を、エンジンを唸らせながら上りはじめた。冬はいくら凍結防止剤や砂利を撒いたところで、厳しい寒さのせいで道路はばきばきに凍ってしまう。だからこの街を走る路線バスは、後輪にチェーンを巻いて走っている。


 坂の途中で、左に折れて、少し緩やかな上りの道を進む。降りしきる雪は強くなるばかりで、途中のバス停で乗ってくる人はみんな、雪でコートや鞄を真っ白に染めていた。

 大丈夫なのかな。むしろバス停降りてからどのくらい歩くんだろう、彼の家。初めて来る場所だからぜんぜん距離感がわかんないんだけど。




<次は、桧通、桧通でございます。お降りの方は、押しボタンでお知らせください>



 アナウンスが流れた。人差し指で、壁のボタンを押す。火が灯るみたいに「とまります」の文字が浮かび上がった。

 バスの速度が少しずつ落ちてゆく。運転手さんが何か言ってるんだけど、マイクが近すぎるせいか、何も聞き取れなかった。たぶん「桧通です」って言ったんだと思う。窓から一瞬見えたバス停には、黄色地に黒字で大きく「桧通」って書かれていたし。


 前の折り戸が開く。バスを降りるなり、斜めから粉雪が身体に吹きつけてくる。街灯のオレンジの明かりが、雪片の一つひとつを浮かび上がらせていた。



「お、よかった。ちゃんと着いたね。おつかれ」



 声のする方へ目線を向けると、彼が待っていた。上着のフードをかぶっているけど、たぶんさっきまでかぶってなかったな、こいつ。融けた雪が前髪の先で雫になって、ぽたぽたと滴っていた。



「無理しなくてよかったのに」と言う。いやいや、と彼は手を振った。

「迷うと困るじゃん。こんな吹雪の中」

「困るは困るだろうけど、そんなに遠いの? 家まで」

「まあ、わかりにくい場所なんで。とりあえず、行くべ」



 彼はそう言って、わたしの半歩くらい前を歩き出した。言われるがまま、彼の足跡を踏んでゆく。この前に除雪が入ったのがいつなのかわからないけど、バスを降りた時に、ブーツの靴底が埋まるくらいは積もっていた。天気予報によれば、少なくとも今晩は止む見込みがないらしい。というか、なんで悪いときばっかり当たるんだろうね、天気予報って。


 彼の足跡は、かなりサイズが大きかった。靴のサイズ、いくつなんだろう。わたしも女性にしては大きいのが悩みのひとつだし、彼もきっと靴屋さんに行くたびに同じ―――。



「よっしゃよっしゃ。ここです」



 は?



 思わず、ずっこけるところだった。


 得意げに言い放った彼の後ろに、サイディング張りの二階建てアパートが、雪に埋もれるように建っていた。壁が白いおかげで、この吹雪の中だと完全に雪景色に溶け込むかのようだ。


 ここです……ってことは、彼の家はこの中の部屋のどれかなわけで。

 だとしても、わたしは思わず、口を開かずにはいられなかった。



「あのさ」

「ん?」

「わたし、バス降りて一回しか角を曲がってないんだけど」

「うん」

「なんなら、角を曲がってから百メートルも歩いてないね」

「そうすね」

「……ここならさすがに、方向音痴のわたしでも、分かったと思う」

「そうかそうか。はっはっは」

「ははは、じゃないわ!」



 そうは言いつつも、彼があまりにも子供みたいに笑うから、つられて笑ってしまった。力任せに、ずい、と彼の肩を押す。これは別に今が初めてのことじゃなくて、彼と付き合う前から、たまにやっていた行動だった。



「まったく。だから、無理しなくていいよ、って言ったのに」



 わたしがそうやって言うと、彼は相変わらず、やわらかい顔をしたままで、そっと呟いた。



「おれ、そこまでいい人じゃないから、普段はこんなことしないよ」




 ふーん。そっか。



 え?



 ……いや、そういうことさりげなく言うんだ。


 今日は特別にやってくれた……ってことか。


 相変わらずぶきっちょだよね、感情表現。

 

 



 寒い寒い……と廊下へのドアを開ける彼に続いた。

 フードを下ろした彼の耳が、真っ赤になっているのが見える。



 まあ、寒さのせいだって思っておくことにした。

 言わぬが花、って言葉もあるし。

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