時空を斬る刃

大谷寺 光

第一章:リクルーター / 採用する人

 交通量の多い表通りから脇道に逸れると、そこは別世界の入り口のような塩梅で、庭木を配した家々の庭先から零れ出る静かな空気が辺り一面を満たしていた。積み石の上に据え付けられた竹格子といぬつげの生垣や、道路脇の排水溝に迫る板塀によって各家の隠逸性は保たれてはいるが、それぞれがこの小宇宙を形作る構成要素の一つとなって、その区画全体に独特な雰囲気を醸し出すのに貢献している。軒を連ねる家屋においても、東京大空襲の業火を免れたものはまだ若い方で、中には関東大震災を生き延びたのではと思しきものまで点在していて、この街が歩んできた歴史を刻み、その風情と趣をいまだに色濃く残す異次元の様ですらあった。東京大学に近く、歴史に名を刻む文豪たちが闊歩していた頃の匂いをいまだに感じられそうだと言えば、その街の個性を余すところなく表現できるのではないだろうか。そんな情緒あふれる街の一角にそれは有った。


 和菓子本舗『澁谷』である。


 創業は慶長とも天正ともいわれ、正確な記録は無い。元来、和菓子文化が花開いたのは、それがお茶の文化と切り離せない必需品だったからであり、それは鎌倉時代から始まったと言われている。従って澁谷の発祥が、慶長や天正よりも更に四〇〇年ほど遡った頃であってもおかしくは無いのだが、いわゆる砂糖の使用が本格化し出したのは江戸時代に入ってからとされ、和菓子造りを生業とする店舗が立ち上がったのは、古く見積もっても安土桃山から江戸時代初期がいいところだろう。

 その江戸の風情を残したこじんまりとした店の面構えに似合わず、店内には巨大な梁 ──現代の常識から考えれば、それは豪奢という形容が当てはまる── が走り、それを下支えする柱たちと併せて日本建築の粋を体現化している。それら柿渋を施された骨格部材は長年の使用に伴い暗褐色に変化してはいるが、その建築構造体としての意義と材料力学上の機能は、おそらく建築当初から微塵も変化してはいないのではなかろうか。

 店の玄関の引き戸も、渋く枯れた色合いの木枠にガラスをはめ込んだ、昭和レトロな一品だ。今時珍しい緑と黄のダイヤガラスで周りを囲み、中央の透明な擦りガラスには「和菓子本舗 澁谷」と文字通り擦り込まれている。それらのガラスは現代の技術革新によって大量生産されている均質で安定したものではなく、その厚みや化学成分濃度にもムラが有る昔ガラスだ。その組織内に封入された気泡もまた、趣有る古びた味にアクセントを加えていて、決して不良品とか粗悪品というようなカテゴライズは相応しくないだろう。それはきっと、ガラスよりも硝子と書く方がしっくりとくるもので、最近では「レトロガラス」とか「昭和ガラス」などとも呼ばれるものである。

 大通りに面してすらいないこの小さな店が、潰れることも無く現在まで営業を続けて来られたのは、ひとえに伝統を重んじた和菓子作りにこだわった先代の教えを、代々忠実に伝え続けて来たからに他ならない。今の時代、希少とすら言える和菓子の本道を守って来た『澁谷』は、知る人ぞ知る名店として一部の食通の間ではその名を馳せてはいたが、営業規模拡大には何の価値も見出さない店主の経営方針により、その名が表舞台に取り沙汰されることは一度も無かったのである。

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