プロローグ5 テキストを買いに街へ行こう

 いま、ゴウの心拍数は爆上がり中である。

 バクバクである。


 微笑みながら頭をこてりと傾け、耳の辺りから少し髪をかき上げるような仕草で「ね?」なんて言われたら……。


 もう、ワンパンでKOされるほかない。


 無自覚ではあるものの、若干、あざといルリカの言葉に(仕草に)ゴウは、


「ひゃい」


 と答えるのが精一杯だった。


「さて、アタシ、そろそろ行かなきゃ」


 黒ネコのアノンを抱いたまま、ルリカは立ち上がった。

 つられてゴウも立ち上がる。


 ふたりは無言のまま、上野天満宮を後にした。


「アタシ、こっちだから。じゃあね」


 横断歩道の前で立ち止まったゴウに、右手を振りながらルリカは言った。


 少し名残惜しい。

 ルリカともう少しおしゃべりしたかった、ゴウはそう思った。


「……さようなら。先生、ありがとうございました」


 そう言ってゴウは、ルリカに軽く会釈して別れの挨拶をする。


 歩行者信号が青に変わるのを待っていると、ふいに声がした。


「ねぇ、おーい!」


 声のする方を見た。

 少し離れたところから、ルリカがなにか伝えようとしている。

 

「ねぇ、このまま帰っちゃダメだよー」


(は?)


 普通、学校の先生が帰宅する学生に対してかける言葉といえば「まっすぐ家に帰りなさい」である。

 それが「このまま帰るな」とは、いかに?


「いまから本屋へ行って、テキストを買いに行くといいよー」


 ゴウは、はっとした。

 やると決めたらすぐに動け、と言われたばかりだ。


「はいっ」


 笑顔でゴウは返した。

 ルリカも、笑顔でゴウに大きく手を振っている。


 横断歩道の信号が青に変わった。


 ルリカは立ち止まって、横断歩道を渡りきるまでゴウを見ていた。


 ルリカに背中を押してもらったゴウは、彼女の言葉にしたがって地下鉄東山線池下駅へと向かう。


(どこへ行こう? 名駅めいえきにするかな…)


名駅めいえき」というのは、名古屋駅の略称である。

 名駅周辺には、ジュンク堂、三省堂といった大きめの書店がある。


 池下駅から地下鉄に乗って12分。


 名古屋駅で降りたゴウは、「三省堂書店さんせいどうしょてん」に向かった。


 タカシマヤゲートタワーモールをエスカレーターで8階まで昇る。


 8階に着くと漫画や雑誌等には目もくれず、やや足早に法律書が並ぶ書棚へと歩いた。


「貸金業務取扱主任者試験のテキストは……」


 このとき法律系資格試験の参考書でスペースをとっていたのは、宅建士、行政書士、社労士などだ。


 しかし資格試験コーナーと化しているスペースをいくら探しても、貸金業務取扱主任者試験の参考書は見当らない。


「おい、……ねぇぞ?」


 ルリカに背中を押され、いいカンジに勇んで、遥々はるばる、名駅まで来た。

 なのに、なのに……である。 


(ここへきて参考書置いてないとか、ガチで、やめて。こんなところで、オレのヤル気を削がないでくれぇ!)


 若干、苛立ちげにウロウロするゴウの姿は、傍からみるとちょっとキモイ人だ。


 とりあえず、順番に書棚を確認していくことにした。


(憲法……のトコにあるワケねぇし。民法は……、おっ、内田貴『民法Ⅲ(第4版)』(東京大学出版会)が出てる! って、いまはイラネ……)


 というカンジで。

 ひととおり国際法のところまで確認したが、それらしいものはない。


 ふと、金融系の書棚が目についた。


「もしかして?」


 お目当ての参考書は、そこにあった。

 しかも、金融系の書籍が置かれているコーナーの隅の方に控えめに並んでいた……。


 参考書の種類も少ない。

 三種類ほど、置かれているだけだった。


「どの参考書が、いいのかな?」


 スマホで検索するのもアリだが、ゴウは先ず自分の手に取って判断したい派だ。


 すべての参考書をパラパラ見た結果、金融関係で実務向けの書籍を中心に出している出版社のテキストと過去問集を購入することにした。


 総額1万円超えだった……。


(うぅ……イタイ)


 しかし、後悔はない。

 小さくとも、一歩を踏み出せたのだから。


 少し興奮気味に三省堂書店を後にしたゴウは、景気づけと称して大好きなラーメンを食べに行くことにした。


 JR名古屋駅の新幹線口から線路沿いに西へ歩いて行くと「麵屋めんや 獅子丸ししまる」というラーメン屋がある。


 ゴウは、この店のファンである。

 名駅に立ち寄ったさい、よく食べに行くラーメン屋だ。

 ちなみに「麵屋めんや 半蔵はんぞう」という姉妹店が、地下鉄東山線藤が丘駅近くにある。


 ゴウは店に入ると、食券販売機で「伊勢海老らぁめん」(920円)の食券を購入して席に座る。

 店員に食券を渡して、ラーメンが出てくるのを待った。


 しばらくすると、表面に細かな泡が立った白いスープのラーメンがゴウの前におかれた。

 ふわりと伊勢海老の香りがする。


 スープを一口すすってみる。


 ふわふわ感のある鶏白湯。

 伊勢海老の香りが鼻腔をくすぐる。


 麺を箸で掬いあげ、口のなかへはこぶ。


 コシがあり、ツルツルした食感。

 全粒粉の自家製麺で、麺自体がめちゃくちゃウマい。


(ホント、いつ来ても、うまっ!)


 ゴウは大満足で「麵屋めんや 獅子丸ししまる」を後にすると、そのまま家路についた。


 自分の部屋へ入ると、真っ先に買ってきたばかりのテキストを開いた。


「よーし。やってやる」


 そう意気込んだのも、つかの間。

 テキストの最初の方に記載されている「試験の概要」を読んでいたときだった。


「あれ? 今日って9月17日だったけ?」


 すでに、フラグは立っていた。

 思い付きで資格試験を受験しようとする者が、極小の確率で遭遇する三大ホラーのひとつ。


「のぉぉ~! もう、受験申込期間が終わっているだと!?」


 ゴウがネットで貸金業務取扱主任者試験の概要を調べたとき、試験日についてはチェックしていた。

 しかしあろうことか、受験申込期間をチェックしていなかったのだ。


 貸金業務取扱主任者試験の受験申込は、1週間前に終わっていた。


 ゴウが、ぶらぶらしている間に終わっていた。


 ゴウは、そのままベッドへダイブした。


 ふて寝である。

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