ツツノオ

ゆうき

   ―はじまりー


外は大嵐だった。


風はゴウゴウと吹き荒れ、海は激しく泡立てられて白と黒が混濁する。

暗々とした雷雲が、怒り狂った野生の馬のように空を駆け巡っていた。


その刹那、天空から放たれた雷鳴は、ぽっかりと海に浮かんだ孤島の姿を照らし出した。


それはまるで、荒れ狂う海に引きずりこまれまいと必死にもがく頭のようにみえた。



 松明の炎が赤々と燃え上がり、岩肌の壁にくっきりと映し出された黒影がゆらゆらと躍る。

 社の奥に隠された〈オビロンの間〉には、小さな老婆が一人いた。額からにじみ出る汗が肌をつたうのも厭わずに、兆しを読み取ろうと必死に祈りを捧げている。

 壁一面に描かれた、鯨神オビロンの白く優美な巨体は、二本の角を持つイッカク鯨の戦士ルフを従え、壁画に広がる海のうえで炎の赤に照らし出されている。

 海の王者の蒼眼は、休む間もなく祈り続けている小さな老婆を見下ろしていた。

(こんなことは初めてだ。はて、なんと難しいこと……)

 兆しを妨げているのは白い靄だった。それは、絶えず搾られ流れ出ている牛の乳のようにグルグルと渦を巻きながらその濃さを増していく。もう少し、あともう少しで手が届きそうなのに。一族を救うためには一刻も早く対策が必要なのに。焦りともどかしさのせいで心が乱れているのだろうか?彼女にとって、今までに一度足りとも兆しが読めないことはなかったのだ。


深く息を吐き、鯨神の心に寄り添おうと試みる。灰色に濁っている両の瞼を閉じた。わずかな皮膚の動きに、汗が滴る。

(さあ、落ち着くのだ)

これで何度目であったであろうか。もう一度呼吸を深く吐き、集中する。


嵐の海のなかを、怒りや喜び、憎しみや悲しみ、それらが入り混じった剥き出しの感情が激しく暴れ、かき混ぜる、かき混ぜる……。

(今度こそ、捕まえる)

 目の前には、何かとてつもない巨大な力だけが起こすことのできる、何百万、何千万もの細かな泡が、行き場をなくして逃げ惑う魚の群れのように拡散していく。

(この先に、いる)

 必死に泡の軌跡を追った。

(もう少し――)

 強い力に押し返された。しかし、負けじと腕を伸ばした。そのとき、何かがみえた。


 あまりにも巨大。神々しく、白く、力に満ちたその尾ひれ。


 体中から放たれるエネルギーが、光となって溢れた。


それは絶対的なものだった。


 あまりの圧倒的な輝きに反射的に瞼に力が入った。しかしそれでも防ぎきれない閃光が網膜を焼く。どこからともなく漂ってきた霞がその姿を覆い隠した。

(やっと追いつけた)

 そのとき、彼女の固く縮こまった体を、何か暖かいものが包んだ。まぶたを閉じたまま、彼女はゆっくり問いかける。

「イサナ一族はこのままでは全滅です。一体なにが起こっているのですか」

 目の前のそれは何も答えない。しかしそんなことはわかっている。何故ならそれには話せる口がないからだ。話せる舌をもっていないからだ。


ここまできたのは会話をするためではない。イサナ一族の賢者として、お告げを受けるためだ。しかしそれでも焦りが彼女の口を動かす。このお告げはイサナ一族にとって一刻も早く必要なのだ。それが彼女の胃をちくちく刺すようにして催促する。

そのとき感じた。

霞の向こうで、荒々しく暴れまわっていた力が収束し〈それ〉のなかに入っていく。力の代わりに、音楽といえるのだろうか。例えるならば、森の囁き、海のため息、大地の鼓動、そんなようなものが思い浮かぶ〈唄〉が聴こえた。

(おぉ……。これをもう一度聴くことができるとは………)

 閉じたまぶたの縁からいつの間にか一筋涙がこぼれたことに、彼女は気づかない。それほどその唄に引き込まれていた。その言葉のない唄は彼女の心の奥底に入り込む。そしてそこに、ゆっくりと調べを紡いだ。(新しい巫女を? 祝福の徴は……銀灰の……風。もうひとつ……そして…もうひとつは………青藍の……青藍の炎!)


ピシャーン!ガラガラガラ!


 洞窟の近くに雷が落ちた。おかげで彼女の意識は現実に引き戻された。

(お告げは何とか受け取れた。さて……)

 ふ、とはりつめていた糸が切れたとき、刹那、何か別のとてつもない不穏な予感に襲われた。

(まさか、またなにか良くないことが……?)

 そのときオビロンの間に悲痛な叫びが響いた。

「ファーリ様、大変なことが!巫女フィン様が、じ、自害なさいました!」

「何だと?」

 真っ青な顔の侍女のほうを振り向いたファーリは、驚愕のあまり二の句を告げることが出来なかった。

その背後で、壁画に描かれたオビロンのまぶたが音もなく閉じられた。

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