梗子
西乃狐
第1話
「あなたの奥さんになれて、本当に幸せよ」
リビングのソファの上で、
「疲れているんだ。分かるだろ」
「分かってる」
そう言いつつも伽奈子はその瞳に妖しい光を湛えながら、唇を重ねてきた。唇を吸い、舌を絡め、唾液を交換する。先ほどシャワーを浴びたばかりの伽奈子は長めのTシャツ一枚を纏っただけだ。押し付けられた乳房の柔らかさが疲れて萎んでいたはずの男心を刺激する。
伽奈子の顔が離れたとき、二人の間で唾液が糸を引いて、切れた。
その時、ふと目を向けたリビングから廊下に出る扉のガラス越しに誰かと目が合った。
驚いて身体を起こす。
「どうしたの?」
「誰かいる」
「そんなはずはないわ。あなたとわたしだけよ」
だが、確かに見たのだ。向こうもこちらを見ていた。
伽奈子を押し退けるようにして立ち上がり、扉へと歩いた。
廊下の明かりは消えており、扉の向こうはただ黒いだけで何も見えない。
ドアノブに手を掛け、そっと手前に引くと、扉は音も無く開いた。
首だけを出して覗き込む。
右はすぐ玄関。左は浴室や洗面へと繋がっている。
――誰もいない。
壁のスイッチに手を伸ばし、廊下の照明を点した。
玄関から奥に向かって、点々と土のようなものが落ちている。そしてその合間には足跡のような痕跡も伺える。誰かが泥まみれの足で廊下を歩いたようだ。
まさか――。
いや、そんなはずはない。ちゃんと埋めた。
花壇を見ればわかることだ。
リビングに引き返し、カーテンの隙間から庭の様子を確認したが、外も暗くてよく分からない。
スマホのライトをつけて照らしてみる。
「馬鹿な」
ホームセンターで季節の花や煉瓦を買い込んで、一晩かけて作り上げたばかりの花壇が無残にも掘り起こされて荒れ果てている。
「伽奈子、あれを見ろ」
返事がないのでソファを振り返ったが、そこに伽奈子の姿はなかった。
たった今そこにいたじゃないか——。
だが、よく見ると、ソファの向こうに足先だけが見えていた。
「伽奈子、大変だ、」
ソファの前に回り込んで息を呑んだ。伽奈子と目が合ったからだ。血に塗れ、顔の半分が原形を留めていない、その残った片方の目と。
「ぎゃあっ」
腰が抜け、尻もちをつくようにしてその場に座り込んだとき、硬いものが手に触れた。泥塗れで、血がべっとりと付着したゴルフクラブだ。それは確かに死体と一緒に花壇に埋めたはずのものだ。
「あ、あいつ、」
「よくも伽奈子を……許さんぞ」
クラブを握り締めて立ち上がった。
再び廊下に出て確認する。
足跡は浴室へと続いていた。
息を潜めて近づいて行くと、シャワーの音が聞こえてきた。
大胆なやつだ。土の中で汚れた身体を洗い流しているのか。
馬鹿め。大胆というよりも無神経なのか。無防備に過ぎる。お前のそういうところが堪えられなくなったんだ。悪いのはお前だ。
いくら頭を下げても、頑として離婚に応じようとせず、一生離れてやるもんかと息巻いた梗子——。
こっちは何度も冷静に話し合おうとしたのに、鼻で笑いやがって。
きちんと相場通りに慰謝料も払ってやると言ったのに。
一生ATMにしてやるだと?
結局は金だけが目当ての汚い女だったのだ。
生きる価値などない女だ。
殺されて当然の女だ。
悪いのは全部梗子の方だ——。
気づかれないよう、シャワーの音に紛れて慎重に浴室の扉を開いた。
中は大量の湯気が充満していて、よく見えない。
注意深く足を進める。
かすかにうしろ姿が見えた。
都合のいいことに、椅子に腰掛けて髪を洗っているようだ。
あの時と同じだ。
最初に梗子を殺したときと――。
二度目だ。
今度こそ、息の根を止めてやる——。
振り上げたクラブを、その頭部に叩きつけた。
鈍い音がして、勢いよく鮮血が噴き出し、視界が真っ赤に染まった。
血が目に入って、開けられない。
「くそっ!」
もたもたしていると梗子に逃げられてしまう。
悪態を吐きながら手探りでシャワーを探し、目に入った血を洗い流す。
ようやく視界が回復してシャワーを止めたとき、足元は血の海だった。
だが、そこに梗子の姿はなかった。
手ごたえは確かにあった。この大量の出血が何よりの証拠だ。
どこへ行った?
外へ逃げたか——?
見ると、真っ赤な湯に満たされた浴槽に、小さな
その中に隠れているのか?
再びクラブを構えた。
どうせ息が続くまい。出てきたところでとどめを刺すまでのこと。
案の定、やがて息を潜めるのも限界が来たらしく、小さな泡が次々と現れ始めた。
さあ、来い——。
クラブを握る手に力を込めたその時、背後に気配を感じた。
驚いて振り向くと、そこには頭半分が砕けて陥没し、腐りかけた顔一面を血と
妻は溢れ落ちかけた眼球でわたしを見て、優しく微笑んだ。
わたしも微笑み返した。
片方の眼球がぞろりと床に落ち、
次の瞬間、妻が振り下ろしたゴルフクラブがわたしの脳天を打ち砕いた。
*
捜査一課の刑事、小山が暑に戻る車に乗り込もうとしているところへ、フリーライターの田所が駆け寄って来た。
「小山さん」
「何だ、忙しいんだよ」
「冷たいこと言わないで、ちょっとくらいいいでしょ」
田所は芸能人のスキャンダルから殺人事件まで嗅ぎ回っては適当な記事をでっち上げて週刊誌に売っている。小山もあまり相手にしたくはない人物ではあったが、無下に出来ない事情があった。
田所は顔を寄せて来て、臭い息を吐きながら囁くようにして言った。
「また困った時にはまた用立てしますから、ね」
小山は別れた妻との間に二人の息子があり、その養育費の支払いで生活が苦しかった。対する田所は妙に金回りの良いところがあって、小山がどうしようもなくなった時に金を用立ててくれたりもするのだ。取材の中で得た情報をネタに相手から金を脅し取っているのではないかと、小山は睨んでいる。
だが、小山が最も理解できないのは、そんな田所ですら妻子があり、婚姻関係が破綻せずに継続しているらしいということだった。
——こう見えて、私は意外と子煩悩なんですよ。
いつか田所がそんなことを言っていたのを苦々しく思い出す。
「まだ事件が発覚して間もないから、お前が欲しがるようなネタは無いぞ」
「分かってますよ。取り合えず確認だけです。小山さんは何も言わなくていいから、わたしの言うことが間違ってたら、ちょいちょいと、ね、」
「分かったよ。早くしてくれ」
田所はスマホにメモを取っているらしく、その画面を見ながら事件に関する情報を喋り始めた。
浴室の男性遺体は、現場となった住宅の住人、
「——で、被害者の妻、大貫梗子は行方不明ってのは本当ですか?」
「ああ、そうだ」
「けど、掘り返されていた庭の花壇からはその梗子のものと思われる肉片が見つかった、なあんて話も聞こえてきているんですけどね」
小山は溜め息を吐いた。
どこからそんな情報が洩れるのか。発信源は警察内部でしかない。自分同様に弱みを握られている関係者がいるのだろうと想像するのみだ。
「それはまだ正式発表されていないんだ」
「分かってますよ。勝手に表には出しません」
田所がいくらそんなことを言っても、どうせすぐに広まることだろう。
「それよりも、その肉片ってのが実は目ん玉だっていう話もあるんですけどね」
そこまで知られているのかと、あきれてしまう。
そんな小山の反応を見て、田所は庭から眼球が見つかったと言うのは事実だと確信したようだった。
「それでも梗子って女がまだ生きてると、警察は思ってるんですか?」
夫の不倫を知った妻の梗子が、夫と不倫相手を殺して逃亡した。それが今、警察が公式に描いている絵だ。
だが、庭から見つかった眼球の腐敗具合からしても梗子が生きている可能性はゼロに近い。鑑識の知り合いはそう言っていた。梗子が死んでいるのだとしたら、その死体は何処へ行ったのか。誰が梗子を殺したのか。問題はそれにとどまらない。夫と不倫相手を妻である梗子が殺したという説とも矛盾が生じる。
「梗子って女が死んでいるとなると、それでは説明がつかないことが多いんだよ。だから今は生きていることも否定せずに捜査が進んでいる」
「なるほど。ではその辺はまた追々。こっちはこっちでもう少し調べてみますから」
じゃまた、と立ち去ろうとする田所を、今度は小山が呼び止めた。
「実はな、先月の養育費の支払いが出来ていないんだ……」
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