風よ。聖女に届いているか
深閑とした “
煌々とした “
一〇〇〇人の人間の喧噪に満ちていたこの街も、今は深い休息を摂るようにひっそりと静まりかえっています。
わたしは一番手近な “街灯” に近づくと、儀式を始めました。
みんなに頼んで任せてもらった、大切な儀式です。
「……ありがとうございました」
お礼の言葉を述べ、灯りを消します。
丈高い杭の頂点に灯された魔法の光がふっと消え去り、周囲が闇に包まれました。
わたしは次の街灯に向かいます。
カドモフさんが掘ってくれた、共同の洗濯場です。
水が冷たくて洗い物は大変でしたが、洗濯をしながらよくガールズトークをしました。
いつもの女の子とだけでなく、ここで知り合った他の女官や侍女の人たちとも。
「……楽しかったです。ありがとうございました」
またひとつ、拠点から灯りが消えました。
用水路に沿って進み、次は大浴場です。
最初は真水を引き入れただけの施設でしたが、後にボッシュさんが追い炊き器を設置してくれて、本当の公衆浴場となりました。
なまくらな武器や呪われた防具を溶かしてボイラーを作ってしまうなんて、あの人こそ工匠神の
「……この時間がとても楽しみでした。ありがとうございました」
拠点がまた、闇に近づきます。
次はいくつも並んだ
これがあったからこそ、わたしたちは長期に渡り地下迷宮で生活できたのです。
最初は “和式” で用を足していましたが、やはりボッシュさんが後に洋式便器を設置してくれたので、女性たちにも好評でした。
なんと使い道のない迷宮金貨を溶かして作った、黄金の便器です。
豊臣秀吉や徳川家康だって、ここまでの贅沢はしていないでしょう。
外装に使っているトレバーン陛下の御座馬車の壁と合わせて、気分はもう王侯貴族のそれでした。
わたしはひとつひとつ中を確かめ、もはや馴染みの臭いに苦笑いしながら灯りを消していきました。
「……ありがとうございました(お尻がちょっと冷たかったけど)」
またひとつ灯りが消えました。
そして、それらの設備や器材を生み出してきたこの拠点の最重要アドレス。
“
当初はボッシュさんの寝床の他に、マトックや金槌、金床などが置いてあるだけの小さな作業
この場所と、老いてますます盛んなあのドワーフさんがいたからこそ、わたしたちは生き残ることができたのです。
「……工匠神様の御加護に。わたしたちの下にボッシュさんを遣わしてくれたことに感謝いたします。ありがとうございました」
炉の火に続き、工房から灯りが消えました。
不夜城がまた夜に近づきます。
次は救護所です。
乾燥させた “
ここもまた思い出深い場所です。
一緒に患者さんの治療に当たった軍医さんや衛生兵さんの顔が浮かびます。
そしてなにより、侍女のエッダさん。
身体の不調を訴え、それが妊娠だとわかったときのあの悲痛な表情と行動。
幸せをつかんだ今はお腹も目立ってきていて、夫となるヨシュアさんに手を取られて、まるでウェディングロードを歩くように、光に満ちた外界に出ていきました。
「……お幸せに。ありがとうございました」
次は――ふふっ、ここを忘れるわけにはいきませんよね。
七日に一日だけ営業する、異世界メイドカフェ。
有志の侍女さんたちと料理に接客に経営に、おおわらわした場所です。
オススメは “葡萄茶と乾し葡萄” のセット。
日替わりソテーは、やはり “コカトリスの日” が一番人気でした。
ソースはもちろん “迷宮ソース”
岩塩と魚醤と昆布出汁を絶妙の配分でブレンドした、この拠点の名物です。
(本当に……楽しかった)
この場所には、わたしを含めて救われた人が多いはず。
明日をも知れぬ迷宮での生活。
多くの人を蝕んでいたストレスから、この場所は解放してくれました。
酒場として営業を始めた夜にはケンカ沙汰も多かったですけど――女とケンカは酒保の華ですから仕方ありませんよね。
「……ありがとうございました」
拠点の光がまたひとつ消えます。
そうしてわたしは、次々に拠点に点る灯りを消していきました。
やがて北の内壁と、 その前に設けられた乾燥燃料を作るための作業場が見えてきました。
ここでわたしたちは知らず知らずのうちに、守りの障壁の張り方や、大気の変質の方法。
さらには風を自在に操る術を身につけていたのです。
そしてそれが最後の “悪巧み” を成功させる、大逆転への布石となっていたのでした。
それもこれもすべてはヴァルレハさんが、“動き回る海藻” からバイオ
もし今回の一連の事件のMVPを挙げるとするなら、ヴァルレハさんは最有力候補で間違いないでしょう。
「……お陰で生き残ることができました。ありがとうございました」
灯りがまたひとつ消え、拠点が眠りに近づきます。
わたしは東に向かい、地底湖の湖岸に出ました。
わたしとあの人がこの世界で初めてデートをした場所であり、お姉さんふたりに邪魔をされた場所。
そして拠点を守るための激しい戦いが繰り広げられ、多くの騎士や従士が倒れた場所です。
今はその剣戟の音も消え、静かに打ち寄せる波の音が聞こえるだけです。
沖合に浮かぶ孤島に視線を向けましたが、すでに “永光”は消されていてその姿を見ることはできません。
わたしは水打ち際を、拠点の南東に拡がる淡水域まで南下しました。
そこから用水路に沿って再び拠点内に戻ります。
「……最後は、やっぱりここですよね」
わたしたち “フレッドシップ7” のアドレス。
数ヶ月に及ぶ閉ざされた迷宮での、寝食の場。
中央にはアンが
彼女の作ってくれた食事が、迷宮探索に疲れ底冷えたわたしたちの身心を、どれほど温めてくれたことでしょうか。
「……ありがとう。お料理、とっても美味しかったです」
わたしは周囲にあるドーラさんとノーラちゃん&蛙さん&熊さんのアドレス、トリニティさんとハンナさんのアドレスともども、拠点の残っていた最後の灯りを消しました。
闇の帳が落ち、喧噪に満ちていた拠点は今、静寂に寄り添われ眠りに就きます。
「……別れはすんだのか」
声がしました。
わたしを心配してきてくれた、頼もしく、親しく、懐かしい声です。
「……はい」
「……迷宮や兵どもが夢の跡」
アッシュロードさんがわたしの横に立つと口ずさみました。
「……すぐにこの街も、元の迷宮の一部に戻るだろう」
「……そうですね」
わたしたちが去り、
「……でも、それでいいのだと思います。すべては
わたしたちはそれからしばらくの間、眠りに落ちた拠点を見つめていました。
「そろそろ行きましょう。みんなが待っています」
アッシュロードさんはうなずき、迷宮から解放されたわたしたちの仮の宿、岩山の山嶺に築かれた新たな
そしてわたしも愛おしい猫背気味の背中と一緒に、“
「……さようなら、わたしたちの迷宮街」
◆◇◆
雲ひとつない透明な青空が、どこまでもどこまでも拡がっています。
美しい、本当に美しい光景です。
日射しは優しく柔らかく、迷宮で冷えた身体を暖めてくれます。
やはり人は、青空と太陽の下で生きる存在なのです。
眩しく細めた視線の先に、新しい拠点が見えます。
トリニティさんがいて、ボッシュさんがいて、ハンナさんがいる。
レットさんがいて、ジグさんがいて、カドモフさんがいる。
フェルさんがいて、パーシャがいて、
ノーラちゃんがいて、カエルさんがいて、クマさんがいる。
スカーレットさんたち “緋色の矢”の皆さんがいる。
わたしの大切な人たちが生きて、待ってくれている。
龍宮城から戻った今、外界との時間の整合性をつけるため、てんやわんやになっている。
そんな不思議な活気に満ちている場所に向かって、アッシュロードさんとわたしは歩いて行くのでした。
清涼な風が吹き抜け、ほのかなアカシアの香りを運んできました。
それは星の意思たる神龍の大いなる息吹。
見守り続ける世界への祝福の風。
だからわたしはそっと胸の内で祈り、こう応えるのです。
“龍よ、風は届いていますよ”
――と。
第四章 岩山の龍 完
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章末までお読みいただき、ありがとうございました。
足かけ8ヶ月234話に及んだ “岩山の龍” 編も、これで完結です。
迷宮保険は、このあとしばらく休載します。
再開は春頃を予定しております。
次章は、いよいよ聖王都 “リーンガミル” 編です。
エバやアッシュロードを待つそれぞれの再会と、新たな迷宮での冒険をお楽しみに。
気に入っていただけましたら、★★★・作品フォロー・作者フォロー・❤などしていただけますと、次章へのモチベーションとなるのでよろしくお願いいたします。
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IFストーリー
迷宮無頼漢たちの生命保険? ふもっふ
第五章の前にお読みいただきますと、より楽しんでいただけます。
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