馬鹿犬と馬鹿猫

 その寒さが氷結した玄室によるものなのか、それとも大量の出血によるものなのか、アッシュロードにはわからなかった。

 そんなことはどうでもよかった。

 周囲の蒼氷よりも蒼白な顔で、歯をガチガチと鳴らしながら、ただただ目の前の扉に魔剣の切っ先を突き立てている。


 幸いなことに扉は木製だった。

 鉄扉だったら、いかに+3相当の強化がなされた魔法の剣でも、今のアッシュロードに穿つことはできなかっただろう。

 しかも表面を覆う分厚い氷のせいで、倍も労力がいる。

 それでもアッシュロードは鬼気迫る表情で、その作業を繰り返した。


 内側に取りつけられた取っ手のすぐ近く。

 人の腕が通るだけの大きさがあればいい。

 それだけの穴が穿てれば、外から下ろされているかんぬきを外せるのだ。

 扉の向こうから聞こえていた闘争の音が、とっくに聞こえなくなっている。

 気ばかり急くが腕の感覚はとうに無く、力を込めているのかさえもわからない。


 暖を取るための燃料は、打ち続いた戦いの中で背嚢ごと失われていた。

 冷気を遮断する護符も、温石の代わりになる杖も同様だ。

 極寒は毒よりも強いデバフとなって瀕死のアッシュロードを苛み、辛うじて魔法の指輪によって命を保っていた。

 代償として、指輪も傷を癒し体力を回復させるまでには至らず、アッシュロードは生命力ヒットポイント一桁――瀕死の状態だった。


 それでも古強者の探索者であるアッシュロードは、強靱な意志を示した。

 堅固な氷を打ち砕き、分厚い樫の扉に穴を穿ち抜いた。

 扉の向こうをのぞき込むよりも早く腕を通し、閂の代用として取っ手に差し込まれている魔剣を――相棒の得物を外した。

 もどかしい動作で利き手を引き抜くと、アッシュロードは残された渾身の力を振り絞って扉に体重を掛けた。

 玄室の外側に向かって扉が両開く。

 回廊の床に、無様に倒れ込むアッシュロード。

 ノロノロと顔を上げると、静寂に包まれた氷の回廊に、相棒のくノ一がひとり立っていた。


「……馬鹿猫が」


 アッシュロードの身体から最後の力が抜けた。

 跪いたまま、ガックリと肩を落とす。

 相棒の猫人フェルミスは扉を背に、しなやな美しさそのままに石になっていた。

 周囲には、無数の――数え切れないほどの屍。


 巨大なカマキリの屍。

 巨大な食人植物の屍。

 巨大な火蜥蜴の屍。

 巨大な類人猿の屍。

 

 そのどれもが “妖獣” に同化され、通常よりも数段強力になっていた魔物である。

 それをこの猫人のくノ一は、立った一人で全滅させたのだ。

 城塞都市最強の探索者。

 マスター忍者ドーラ・ドラの他、誰にこのような働きが出来ようか。


「……馬鹿猫が」


 アッシュロードはもう一度呟いた。


「……なに満足そうな顔してやがる」


 ドーラの表情は、穏やかだった。

 自分の仕事をやり遂げた……そんな思いが浮かんでいる。

 足元に何かが煌めいた。


 “世界の水晶クリスタル・オブ・アカシニア


 ドーラが持っていた、この階層フロアへのキーアイテムパスポートだ。

 石になる前に懐から取り出して放ったのだろう。

 アッシュロードは手を伸ばし、灰色に輝く水晶をつかんだ。

 水晶は重く……どうしようもなく重く、持ち上げることは出来なかった。

 仕方なく、かき抱くように身体に寄せた。


(……こいつを持って、還れってか)


 アッシュロードはやれやれといった感で、ドーラのかたわらに座り込んだ。

 凍った壁に背をもたれさせ、出来るだけ楽な姿勢を採る。

 アッシュロードは、ぼんやりと考えた。

 疲労困憊で瀕死の重傷のまま、体力も傷も回復しない。

 現在位置も不明。

 “妖獣” は全滅したのだろうか。もし生き残りがいて一匹でも遭遇すればアッシュロードが逃れる術はない。


 どうすれば生きて還れるか。

 何か方法があるだろうか。


 生還のための悪巧みを始めて……やめた。

 アッシュロードの身体は凍り始めており、あれほど身体を震わせていた寒さすらもう感じない。


(……俺もここにいるよ)


 すでに言葉も出なくなっていたので、アッシュロードは心の中でドーラに言った。


 サイゴマデ タタカフモイノチ、

 友ノ辺ニ スツルモイノチ、共ニユク


 アッシュロードの心に、ふとそんな文句が浮かんだ。

 それは封印の網目から零れ落ちた、灰原道行の記憶だった。

 道行が好きだった、ある登山家アルピニストの遺書一節だ。

 雪山で遭難し動けなくなった友人の側で共に息絶えた、山男の今際の言葉。


 探索者は登山家に似ている。

 パーティを組み、あるいは単独で、危険な領域に挑む。

 より高きを目指すか、深く潜るかの違いがあるだけだ。


 熾天使の施した新たな封印は強固であり、その網は決して破れることはない。

 網であるからこれまでのように記憶が零れ落ちたのだが、出典までは思い出せなかった。

 だからアッシュロードには、それが友と一緒に逝った登山家の言葉だとはわからない。

 ただ、ふと心に浮かんだのだ。


 小面憎いほどにふとぶとしく沈着で、強靱タフな意思と体力で最後の最後まで悪巧み、悪足掻く。

 それがグレイ・アッシュロードの本質だ。

 しかしその本質のさらに奥深く、最奥に眠っているのは、どんなに理詰めで考えようとも最後は情で判断する本当の顔だ。

 その顔を――灰原道行の素顔を知っているのは、エバ・ライスライト――枝葉瑞穂ともうひとり、二〇年男を見守り続けたドーラ・ドラだけだった。

 その素顔が言っているのだ。


 友を置いていくのは忍びない――と。


 アッシュロードにとって、ドーラは友人ではない。

 まして親友などでは決してない。

 だが、友だ。

 紛れもない友だ。

 その友を、こんな寒々しいところでひとり置き去りには出来ない。

 だから共に逝く。


(……そうことだから、勘弁しろや)


 アッシュロードは心の中で詫びた。

 それが誰に対しての詫びだったのかわからないし、いつもなら無意識に始まる自己分析悪癖も、もう起きなかった。


 凍死は一番平穏な死に方だと聞いたことがある。

 それも酒を飲んでの凍死が。

 飲兵衛のんべは、今ここにひと瓶のブランデーがないことを残念に思った。

 これでは画竜点睛を欠くではないか。

 だが……それも自分らしいといえば、自分らしいかもしれない。


 今際の時がきた。

 意識が混濁し、目の前に温かな光が溢れた。

 光の中に現れたのは、馴染みの美しい娘だった。


(……よう、助けに来てくれたのか……それとも迎えにか……)


 アッシュロードは微笑んだ。



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