一触即発★

 “獅子の泉亭” 一階の酒場は、とても広い面積を有しています。

 何度か親類のお姉さんの結婚式に出席したことがありますが、一番広かった某有名ホテルの披露宴会場よりも広いように思われます。

 迷宮でいうと五~六区画ブロック四方? もっとでしょうか。


 入り口には大きくて頑丈な両開きのドアウエスタンドアが設置されていて、そこから一番奥のカウンター席まで、まっすぐに幅広の通路が延びています。

 その幅広の通路で区切られた、入り口から見て左側が “善”の戒律の探索者たちの、右側が “悪” の探索者たちの席です。

 酒場を含む公の場では、この二つの戒律の者が同席することは出来ない仕来り建前なため、こんな風に分けられているのです。

 善悪どちらの区割りにも、六人掛けの円卓と椅子代わりの洋樽が所狭しと置かれています。


 この世界のこの時代、当然分煙などという観念はなく、店内にはいつも紫煙が漂っていて、“煙草の煙が目に沁みるSmoke Gets In Your Eyes” な状態です。

 一般的な朝食時を過ぎた今の時間は、真面目な探索者たちはすでに迷宮に出ていて、代わりに寝坊助の人や昨夜痛飲した呑兵衛のんべな人たちが、よろぼうようにフロアに出てくる頃でした。


 そんな酒場の一席で、パーシャがアッシュロードさんに、とんでもないことを言い放ってしまいました。

 中央通路の右側の “悪” の席。

 ゆで卵にかぶり付こうとしていたアッシュロードさんが、大きな口を開けたまま固まっています。


「もう一度言うわよ、おっちゃん! あんたは “放蕩君主レイバーロードじゃなくて、“強姦君主レイパーロード”よ!」


 凍りつく店内。

 それは……そうでしょう。

 アッシュロードさんはかなり長い時間硬直したあと、と思ったのか、ゆっくり背後を振り返りました。

 そしてそこに誰もいないのを確認すると、再び頭を巡らせてパーシャを見、その人差し指が自分の鼻先に向けられているのをようやく理解しました。


「…… “強姦君主” ってのは、それはつまり俺のことか?」


 なぜか大皿に山と盛られたゆで卵(好物なのでしょうか?)を前に、完全に困惑しきったアッシュロードさんが訊き返します。


 それは……そうでしょう。


「あんた以外に誰がいるっていうの! 聞いたわよ、エバから! あんたあのに返しきれない額の借金背負わせて、にするつもりらしいわね!」


 “……えーっ”


 ……みたいな、アッシュロードさんの顔。

 そして辺りを見渡し、酒場の入り口にわたしの姿を認めると、ものすご~く恐い顔で睨みました。


 ブンブンブンブンブンッ!


 どこかに飛んでいってしまうぐらいの勢いで、顔を左右に振ります。

 違います、違います!

 わたしはそんなことは一言もいってません!

 すべてパーシャの曲解に基づく、暴走・暴発の果ての暴言です!


「……あのな、がきんちょ」


「がきんちょ、言うな! あたいはちゃんと成人してる!」


「……不確かな情報に基づく誤解からの誹謗中傷は、がきんちょのすることだぞ」


「なにが誤解よ! エバみたいな器量よしを奴隷にして、男が他になにするっていうの!? 指くわえて鑑賞してるだけだっていうの!? 笑わせないで!」


 いつの間にか “善” の女性探索者さんたちがパーシャの周りに集まっていて、剣呑な眼差しでアッシュロードさんを睨んでいます。


「確かにパーシャの言うとおりね。男が女の借金奴隷にすることなんてみんな同じ。特に “悪” の連中ならなおのこと。まったく反吐が出る」


 その中でも一際大きく、そして一際美人の探索者が、侮蔑も露わに吐き捨てました。

 磨き上げられた白金の板金鎧プレートメイル に身を包んだ、前衛職とおぼしき人です。

 金縁とエングレービングの施された光沢のある鎧は、武具に詳しくないわたしが見ても、一目で “極上品ファーストクラス” だとわかります。


 ええと……これは、マズいです。

 ちょっと、洒落ではすまない空気になってきました。


 確かに客観的に見て、パーシャや他の女性探索者さんたちが誤解するのも理解できます。

 わたしも立場が逆だったら、義憤に駆られて彼女たちと同じ行動をしていたかもしれません。


 わたしも、初めはその覚悟をしていました。

 男の人の奴隷になるのが、どういう意味を持つのか。

 どんな境遇に落ちることなのか。

 少し想像力を巡らせれば、女なら誰でもわかることです。

 女なら誰でも怖れることです。


 でも、アッシュロードさんの人柄を知るうちに、その怖れは薄まっていきました。

 秩序にして悪ローフル・イビルのあの人には、決して破らない自分だけの “決まり” があって、その中に “奴隷にした女の子を好きにしても構わない” なんてものはないんです。

 わたしには……それが分かるのです。


「まってくださ――」


 わたしが声を上げ掛けたとき、それよりも早く、アッシュロードさんが斑に汚れた濃色の外套マントをバサッと広げて立ち上がりました。


 あ……とても嫌な予感。


「俺があの女を性奴隷にするだと? くくくっ、馬鹿言うな。借金を返せなかったら、俺はあの女を娼館に叩き売るつもりでいるんだ。その時、処女か否かで金袋の重さが一〇倍は変わる。自分からその重さを軽くする間抜けがどこにいる。お前らの心配はお門違いだ。文句があるなら、あいつを買うかもしれない未来の客に言うんだな」


 ふぉーっふぉっふぉっ! と……ばかりに放言する、アッシュロードさん。


 です……。

 ああ……あなたという人は。

 どうして、そんなにも子供なのですか。

 なにもそこで、わざわざ露悪癖を出すことはないじゃないですか。

 そんな真似をすれば……。


 案の定わたしが危惧したとおり、“善” の女性探索者たちの間にザワッとした不穏な気配が伝播しました。

 剣呑のさらに上をいく殺気立った気配。

 アッシュロードさんの悪癖のせいで、場面は一気に一触即発の事態に発展してしまいました。


「こ、この鬼畜……!」


「俺は鬼畜じゃない。“闇落ちした君主レイバーロード” だ」


 噛みつかんばかりのパーシャに、アッシュロードさんが冷厳にうそぶきます。


「貴様アッシュロードとか言ったな。とっくに第一線を退いてる保険屋風情が言うじゃないか。そこまで言われたら、わたしたちだって退くに退けないぞ」


 大柄で美人の戦士さんが一歩前に出ました。

 燃えるような緋色の髪を持つ、気性の激しそうな人です。


 剣の柄にこそ手を掛けていませんが、全身からいざとなればいつでも抜く気配を漂わせています。


「退けないなら……どうするつもりだ?」


 アッシュロードさんの右手がわずかに、左腰に帯びている短剣ショートソードに伸びました。

 緋色の髪の探索者さんも腰を落とし、柄に手をやります。


 ちょっと! 今度こそ本当に洒落になってません!


「いい加減にして――」


 キンッ!


 わたしが二人の間に割って入ろうとしたとき、またしてもそれより早く、アッシュロードさんと緋色の髪の女戦士さんの足元に “何か” が突き刺さりました。


 まるでバターにでも刺さるかのように堅い石畳の床に易々と突き立った、鈍く黒光りする短刀。

 鋭い二等辺三角形の刃は半ば以上が床に吸い込まれていて、握りの先端には、おそらく縄紐の類いを通すための鉄環が拵えつけてあります。

 その柄頭にポッカリと空いた鉄の環が、虚無を宿す瞳のようにその場にいる全員を見つめていました。


「なんのつもりだい、ドーラ」


 女戦士さんが、わたしを睨み付けました。


「……え?」


 わたし……?


 しかし、女戦士さんが睨んでいたのはわたしではなく、いつの間にか、本当にいつ間にか、わたしの隣に立っていた小柄な女性でした。

 その人は、しゃなりしゃなりとした足取りで酒場に入っていきます。

 漆黒の鎖帷子チェインメイルに身を包んだしなやかな肢体。

 頭にはやはり黒色の兜を被っていて、その容貌を窺い知ることはできません。


「酒場は “切った張った” をする場所じゃないよ。スカーレット」


 そういって女性が兜を脱ぎました。

 艶やかな茶色の短髪に、褐色の肌。

 特徴的な三角形の耳が、から出ています。

 今までどうやって隠していたのか、お尻から現れた長い尻尾が楽しげに揺れていて……。


「酒場は “惚れた腫れた” を語る場所さね」


 その “猫人族フェルミス” の女性はなぜか、入り口で立ち尽くしているわたしを見て、ニャッと蠱惑的な笑みを浮かべました。


https://kakuyomu.jp/users/Deetwo/news/16817330667603895999



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