第90話 女神アフロディーテ

 アルに向かって放たれたドラゴンのブレスが、セアラの障壁に衝突する。衝撃こそ防いでいるものの、まるで至近距離で落雷があったかのような激しい音と光が周囲を襲う。


「セアラ!集中して、障壁が維持できなくなるわ」


 セアラの動揺を反映した障壁がブレスによってひび割れ、破られそうになるが、リタの叱咤のおかげで、すんでのところで持ちこたえる。


「アル君なら大丈夫、あなたたちを残して死ぬようなことは絶対しない人よ」


 セアラはリタの言葉を信じて頷くと、アルのいた場所へと視線を移す。未だブレスは途切れること無く、その場所へと執拗に放たれ続けていた。

 それでもセアラが動揺を見せることはなかった。今はただアルを失う恐怖を強引に意識の外に追いやると、戦いの中で初めて愛する人に任せてもらった役目を果たすことだけを考える。


 ズドォーーン!!


 激しい地鳴りのような音が辺りに響き渡ると、ドラゴンの頭部が地中にめり込む。


「え!?アルさん?」


 セアラは舞い上がる砂煙の中にアルの姿を確認すると、ホッとするより先に状況が理解できず混乱する。

 アルはブレスが直撃する直前に、二ヶ月間の訓練によって身に付けた短距離転移を行い、遥か上空から頭部をめがけてメイスを叩きつけていた。

 短距離転移は空間収納の応用版で、闇魔法によって亜空間の入口と出口を同時に作って転移するというもの。どちらも視認できる場所に作らなければならないため、セアラのそれとは異なる短距離限定の転移魔法だった。

 アルはリタがセアラのもとに来ていることを確認すると、渾身の一撃を受けたドラゴンがもたついている隙に、障壁越しに会話できる位置まで移動する。


「アル君、残念だけど、その禁術を解く方法は伝わっていない。そもそも解く方法なんて無いのかもしれないわ。シルちゃんには気の毒だけど……もう倒すしかないと思う……」


 渋面を作りリタがアルに告げると、アルは逡巡した後に、ふっと笑って答える。


「……難しいかもしれませんが、四肢と首を切り落とし動けないようにしてみます。そのあとゆっくり魔石を探して調べましょう」


「アル君!ダメよ!」


「アルさん!」


 セアラが悲痛な叫びを漏らす。今も回復魔法を掛けているものの、間近で見るアルの体は至るところから出血しており、特に爪で貫かれた左肩は傷こそ塞がっているものの、ろくに動かせずだらりとぶら下がっている。そんな状態で五体満足でも厳しい相手の自由を奪おうなど、自殺行為に等しい。


「シルとの約束だ、どうにかしてみせるさ」


「せ、せめてシルに回復してもらってから!」


 シルに視線を移すが、彼女は治療で引っ張りだこになっており、すぐには来れそうにない。決して楽観できるような状況ではないはずだが、怪我人を勇気づけながら治療するシルを見て、アルは思わず頬を緩ませる。


「いや、何とか回復出来た。大丈夫だよ」


 そう言うとアルはメイスからティルヴィングへと持ち替えて、滴る血と魔力を存分に吸わせてから再びドラゴンへと駆け出す。

 例え可能性が低くとも、魔石を破壊する恐れのある斬るという選択肢は取りたくなかったが、もはやそんなことが許される状況ではなくなっていた。

 再び起き上がったドラゴンの攻撃に晒されるアル。何度か斬りつけてはいるものの、いずれも体勢が不十分で両断するまでには至らない。いくらティルヴィングの切れ味が鋭いと言えども、一撃で致命傷になる攻撃をかわしながら硬いドラゴンの鱗を断つことは、ほぼ片腕のアルにとっては荷が重かった。諦めずに立ち向かって行くものの、精神的にも肉体的にもみるみるうちに消耗し、次第に苦境に立たされる。


「お願い……誰か、誰でもいいから……お願いだからアルさんを助けて……」


 祈るように呟くセアラの目に涙が浮かぶと、その左薬指にはめられた指輪が輝き出す。


『……える?』


「え?声が……?」


『私の声が聞こえる?』


「そ、空耳じゃない?は、はい。聞こえます」


 セアラの頭の中に優しい女性の声が響き渡ると、乱れていた心が一瞬にして落ち着く。セアラは辺りを見回すが、誰も自分に声を掛けた様子はなかった。


『驚かせてごめんなさい、私の名はアフロディーテ。ディオネの町であなたたちに祝福を与えた女神と言えば分かるかしら?あの子もあまり余裕がないようだから手短に言うわ、あなたの体を少しの間貸してもらえないかしら?』


「私の体を?そ、それでアルさんを助けられるんですか!?」


「……セアラ?」


 端から見れば一人で話しているようにしか見えず、リタが困惑して声をかけるが、今のセアラにそれに反応する余裕は無い。


『ええ、相当な魔力量が必要になるけれど、あなたなら大丈夫。私もあの子を助けたいの、信じてもらえるかしら?』


 今のセアラは藁にもすがりたい状況。僅かな躊躇も見せずに答える。


「信じます!お母さん、クラウディアさん、師匠、シル、私の障壁の外側にもう一枚障壁を張ってください!」


「ちょ、ちょっとセアラ?説明してよ、どういうことなの?」


 セアラの呼び掛けに応えて四人が集まると、リタが代表して問いかける。


「女神様が私の体を使って助けてくれるって……お願いです、アルさんを助けられるかもしれないんです」


 突拍子もないセアラの言葉に大人たちは顔を見合わせて怪訝な表情を浮かべるが、治療を終えたシルがいち早く賛同する。


「私やるよ!ママを信じる、パパを助けたい!」


「……そうね、今のままじゃアル君が危ないし、他に打開策もない。やってみる価値はあるわ」


「ええ、ソルエールは私たちの町よ。アルさんだけに押し付けられないわ」


「あなたたちも協力しなさい!」


 ドロシーが学園の教師たちに協力を促す。命の恩人たちの願い、断るものがいるはずもなかった。

 学園前の円形広場を取り囲むように、総勢五十人以上の宮廷魔導師を越えるレベルの者たちが並ぶと、一斉に物理障壁と魔法障壁をセアラの完全障壁の外側に沿うように展開する。


「女神様、どうかアルさんを助けてください」


『ええ、任せて』


 セアラが障壁を解除すると、意識がふっと遠くなり、全身が白い光に包まれる。セアラの常人離れした美しさも相まって、見るもの全てに侵しがたい神聖な雰囲気を感じさせていた。そしてディオネの町で教会を訪れたシル、リタ、ドロシーにははっきりと分かる。セアラの中にいるそれが女神であると。

 そしてアフロディーテは両手をドラゴンに向けて、神の力を行使する。



 冥府より誘われし不浄なる魂よ


 愛と美と豊穣の女神、アフロディーテの名に於て命ずる


 汝の在るべき場所へと帰りたまえ


 囚われし善良なる魂を解き放ちたまえ



 アルを激しく攻め立てるドラゴンの体が、アフロディーテから放たれた白い光に包まれボロボロと崩れ始めると、首の付け根辺りから直径二メートルほどある赤い真球の魔石が姿を表す。やがて魔石はその形を失うと、無数の色とりどりに輝く光の玉となり妖精族の区画へと向かっていく。


「な、何だ……?どうなったんだ?」


 状況を掴めないアルが困惑して辺りを見回すと、セアラの姿をした何者かがゆっくりと歩いてくるのを見つける。


「セアラ……?いや、違うのか……?」


 アルの目の前に立つセアラの存在感は、明らかに異質なものだった。いつもそばにいるアルからすれば、外見が同じでもはっきりと別人だと分かる。


「ふふ、初めまして、ではないわね。ディオネの女神、アフロディーテよ。少しだけこの子の体を貸してもらったの」


「女神様……?そんなことが……いや、確かにあの教会で感じたものと同じ……」


 アフロディーテはアルの頬にそっと手を当てると、目を細め柔和な笑みを浮かべる。


「お話しできて嬉しいけれど、この娘の体が持たないから少しだけね。あなたたちは必ず幸せになれるわ、だって私が祝福を授けたんですもの。だからセアラさんと仲良くね」


「は、はい……助けていただきまして、ありがとうございます。必ずまたディオネへ行きますので」


「ええ、楽しみにしているわ……いつでも来てちょうだいね!」


 アフロディーテは最後に可愛らしい笑みを浮かべ、女神らしからぬ気安い雰囲気でアルに別れを告げた。

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