熊竜‐グランシャリオ‐



 体が冷える。防寒着は着ているけれど、雪の中にいつまでも寝そべる前提では作られていないだろう。昔見たホラー映画で、山奥の呪われたホテルを訪れた男が雪の中凍死するシーンを思い出してしまう。


「ミスったなぁ……」


 弟子くんに気を付けるように散々偉そうなことを言っておいて、雪山で足を滑らせてこのざまだ。

 ざっと二十メートルほど斜面を滑落したが、雪が上手く緩衝材になってくれたおかげで全身痛むが意識を失わずに済んだ。だが。


「いってて……こりゃ、折れてるかな」


 右の足首が酷く痛む。少し動かそうとすると、「ザラリ」と体の中で固い物の断面が擦れているような嫌な感覚がした。皮肉な話だがアイシングは完璧なので、足首から上に炎症が広がっている様子は無いが、独力での下山は無理だろう。


「がるー!」


 体力の消耗を抑えるため、その場にじっとしながら今後について考えていると、私が転がり落ちてきた斜面の上から、聞きなれた声がした。


「ガルちゃーん! こっちだよ!」

「がる!」


 その場で手を高く上げて、愛弟子の相棒を呼び寄せると、その手の上に小さな赤い竜が器用に止まった。


「がるがる!」


 私の手の先から、仰向けに寝転がる私の胸の上に降り立ったガルちゃんは尻尾の先を山の上に向けている。おそらく、弟子くんが上から降りて来るから待っていろ、と言う意味だろう。


「ごめんね、迷惑かけちゃって。ちょっと一人じゃ起き上がれなさそうで……あと、ガルちゃんちょっと、抱きしめさせて」

「がるる……」


 うーん。多分、しょうがねぇな。って感じかな。


 一応の了承を得たと判断して、小型犬ほどのサイズのガルちゃんを上着のジッパーの隙間から中に招き入れて肌着の上から直に抱きしめる。最近はもうガルちゃんの言っている事に関しては弟子くんの方が良く分かっている。というよりも、本人はおそらく自覚していないけど、あの子は私よりも竜の感情の機微に敏い。


「はぁ……あったかぁ」


 流石は火の概念から生まれた竜。芯から冷えていた体がほぐれていくのを如実に感じる。とりあえずコレで凍死の危機は免れたと言える。

 お昼ご飯は食べたばかりなので餓死の心配も当面は大丈夫だろう。あとは……。


「……がる!」


 強張ったガルちゃんの声。最初は強く抱きしめすぎたのだと思った。だけど、数秒後にそれが違うとわかった。


 ガサ パキッ ザッ


 おそらく、その気配に私よりも先に気づいたが故の警戒の声だったのだ。風が無いにもかかわらず、草木を掻き分ける音が聞こえると言う事は、動物が近くにいる。それも、枝を踏み折れるほどの体重を持った大型の……そして、雪を踏む足音が重い、接地面積がそれなりに大きい証拠。蹠行しょこう……足の裏全体を地面につける歩法。


「日本の北海道にいて、その条件に当てはまる動物って言うと……」


 消去法で候補は自然と一つに絞られる。熊だ。


 あはは……こっちは身動きができないってのに。


 本来なら越冬のために巣穴に籠っているはずだが、最近は違法に狩猟されて山中に放置された鹿の死体を食べることで冬眠せずに冬を越す熊が問題になっている。とニュースで見た気がする。ただ、やはりそれでも十分な食料とは言えず、冬ごもりをしなかった個体は飢えから非常に気性が荒くなる、とも。

 私は体を意図的に雪に埋もれさせ、呼吸を浅く抑える。あとは気付かれずに遠ざかってくれることを祈るだけだ。


 熊に対して死んだフリは愚策だって、今じゃ子供でも知ってる話なのにね。


 ザッ、ザッ、と雪を踏み抜く音が近く大きくなっていく。私に向かっているのか、それとも元から目的地がこちらの方向なのかも分からない。

 足音はより一層近くなる、おそらくもう目視できる距離に、いる。だが、首を捻れば雪と体の擦れる音が出てしまう。だから、私は雪化粧を纏う針葉樹とその隙間に見える青空をじっと見つめ続けた。

 そんな固定された視界が黒い塊によって遮られ、私は息を飲む。ソレはちょうど私を跨ぐ位置で歩みを止める。こんなに大きな熊は存在しない。つまり、私の目の前にいるソレは――


 熊竜グランシャリオだ。


 熊竜は何かを探すようにその場で首を左右に捻り、深い鼻息を吐くと、また一歩一歩、厚い雪を踏み抜きながら歩みを再開した。


 助かった……。熊竜の巨体に隠れる形になったおかげで気づかれずに済んだ。竜ならお腹を空かせて食べられることも無いだろう。


 私は安堵から少しだけ肩の力を抜き、ガルちゃんを抱きしめていた腕の力を緩め、熊竜の短い尻尾を見送る。だが、その歩みが再び止まる。まだ、何かを探しているようにこちらに振り向く、そこでようやく思い至る。

 熊竜が探しているのは私ではない、ガルちゃんだ。


「グルルルルゥ……」


 熊竜は自らの縄張りに入り込んだ他の竜の匂いに釣られてきた、となれば……あの熊竜がここから離れることは無い。

 私の予想通り、熊竜はぐるりとその場で半周し再び私達のもとに近づく。


「グルルゥ」


 まずい、ガルちゃんだけでもこの場から逃がすべきか、いや、目的がガルちゃんである以上、私よりも逃げたこの子を追いかける可能性が高い。


 どうすれば……。


 諦観が胸中を埋め尽くす


「クゥアアア!」


 雪が風に舞い上がり、山頂の方から急降下してきた雪竜が熊竜の横っ腹に突撃した。


「クゥ?!」


 私は思わず声を上げる、純白の体毛に氷の翼。それは間違いなく、私がクゥと名付けて交流を深めた雪竜。そして、その背には……私の愛弟子が乗っていた。


「師匠! 大丈夫ですか……っと!」


 彼は空を飛ぶクゥの背から飛び降り、深く積もった雪に足を取られながらも私のもとに駆け寄ってきた。


「立てます?」

「ちょっと一人じゃ厳しいかも……」

「わかりました。えっと、痛かったら言ってくださいね」


 そう言うと弟子くんは少し乱暴に私の腕を引いて起き上がらせると、掴んだ右腕をそのまま肩に回して私を担ぐ姿勢に変わる。

 折れた脚に響いて滅茶苦茶痛かったけど、そこは師匠のプライドとして我慢した。


「……師匠、泣くほど痛かったですか?」

「これは、雪が解けただけ!」


 涙ではない、決して。


「グルァアアア!」


 クゥの突進を受けて、完全に私達を外敵と認識した熊竜は後ろ脚だけで立ち上がり、両手を広げ威嚇の姿勢を取る。対するクゥも翼を広げて熊竜の前に立ちはだかり私達を守ってくれている。


「クゥ! 喧嘩するのはまずいから、早く逃げるぞ!」

「クゥア!」


 弟子くんの言葉に答えるようにクゥは翼を一度だけ大きく羽ばたき、熊竜に大量の雪と風を吹き付けると、私達をその背に乗せて一瞬にして木々の隙間を縫って上空高くに飛び上がった。


「……ふぅ。良かったぁ、師匠が無事で」


 熊竜には飛行能力は無い、安全圏に入った安堵からからか、弟子くんはクゥの首に項垂れるような体勢で息を吐いていた。


「がる!」

「あ、ごめんごめん。ガルも無事でなにより。それと、師匠を見つけてくれてありがとうな」

「がる!」


 私の服の隙間から飛び出し、弟子くんの頭に飛び移ったガルちゃんは得意気に一声鳴いた。


「ゴメンね。迷惑かけちゃって……でも、クゥと弟子くんが一緒に来てくれるとは思わなかったな」

「俺一人じゃ探すのに時間がかかると思って呼んだんですよ」

「呼んだ?」

「はい、名前は前に聞いてたし、一応顔見知りなんで、試しに叫んだら来てくれました」


 呼んだら来てくれた。って……。


「でも、熊竜の事は思いっきり怒らせちゃいましたから、竜学者としては失敗、ですかね」

「元を辿れば私の責任だからねぇ……また今度、一緒に謝りに来よう?」

「ですね。嫌われっぱなしも嫌ですし……あ、ちゃんと捕まっててくださいね。師匠、怪我してるから、バランス取りづらいでしょう?」


 私は言われるままに、弟子くんの腰に腕を回し、ぎゅっと抱き着く姿勢になる。

 初めて会った日の事を思い出す。あの日も私と弟子くんはクゥの背中に乗って、空を飛んでいて。だけど、あの時は私が前で、竜の背中に乗るのも初めてだった幼い少年は恥ずかしそうに私にしがみついていた。


「弟子くん、私が君に最初に言った『優秀な竜学者の第一条件』って覚えてる?」

「そりゃ、出かける度に言われてたんでよく覚えてますよ。「死ななきゃそれで良い」でしょ?」


 弟子くんは過去を懐かしむように少しだけ苦笑を浮かべながら答える。そう、人間よりよっぽど強い生き物を調べ、人の手の届かない秘境に足を伸ばす竜学者はいつ死んでもおかしくない。


「君は失敗した。って思ってるかもだけど、全員生きてるんだから大成功、だよ」

「……そう言う事にしておきます」


 結構本心だったんだけど、弟子くんには慰めの方便に聞こえたらしく、ぷいっとそっぽを向いて、クゥに行き先を指示し始めた。

 いつもなら、可愛いって言っているところなんだけど……熊竜から助けてくれた時の姿が脳裏によぎって、私はその言葉を呑み込んだ。


 今日の弟子くんは……うん。カッコよかったからね。

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