惑う誘蛾灯/月曜日 夜
永遠の中で、枝葉達は彷徨い歩く。
嘆きと痛みは耐え難く、
人類への憎悪と共に、枝葉達は歩く。
母の温もりは奪われた。
母の愛情は無意味だった。
母の傷は深く、母は死に至った。
母より生まれた人類は、母を用済みと切り捨てて、だけれど母は穏やかに笑ったまま。
「古きものがいずれ死ぬのが自然です。
今を生きる者達に私が不必要であるというのなら。喜んで死にましょう」
母は世界を作り生命を生み、人類を育て。
これから来る未来が幸せなものである様に、
──糧として死んでいった。
母が切り倒され、引き抜かれた根が腐って逝くのを見届けた枝葉達は、
意思を持って、人類と訣別する。
人を呪って、殺し尽くしてそうしたら、
きっと母の元へ帰れるのだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
フラつきながら歩く達也の背中を、黒羽は追いかけていた。
一定の距離を保ちながら、歩く達也の後を追う。
黒羽は赤い傘をさしながら、片手に達也に貸していた黒い傘を持ち、達也のリュックを背負っていた。
雨の降る街、時刻は深夜。
深い夜に紛れて、達也の体はひとりでに動いている。
生気の感じられない死人の様な体は、
達也の意思では無く、彼に憑く者に操られて何処かへと歩く。
それを追いかけながら、黒羽は色々な事を考え、同時に思い起こしていた。
──二人でハンバーガーを食べた後、
黒羽は達也に「協力して下さい」と言った。
具体的にどうしたら良いのかと問う達也に対して、黒羽はこう答える。
「憑き物に乗っ取られて下さい」
達也は黒羽の言葉に一つ瞬きをした。
彼は表情は動く方だが、そこから察せられるのは表面上の事だけで、
内面で何を考えているのか分からない人だと黒羽は思っている、
がこの時は分かりやすく驚いて、戸惑っているのが感じ取れたので、
黒羽は補足する様に説明を続けた。
「顔持ちは他の憑き物を誘引するので、
集まってきた憑き物を祓うことで力を溜めようと思って。
まあ言ってしまえば囮、若しくは餌になれという事ですね、もちろん貴方の安全は保証します」
黒羽の説明を聞いて達也は納得した様な顔をしてから、わかったと頷く。
そのあっさりとした返事に黒羽の方が驚いて、思わず聞いた。
「前から思っていたんですけど。
怖くないんですか?危ない目に遭ったり、理解出来ないことに見舞われたりするの」
黒羽の問いかけに、達也はもう一つ瞬きをして、笑う。
笑顔の真意が分からずにいると、彼は。
「怖いけど。黒羽さんを信じるって決めたからね。それに僕が見た事ない物や理解できない物があるのは当然だよ。
世界はこんなにも、広いんだから」
でも死にたくは無いから、出来たら僕の事助けてほしいな。
達也は少し申し訳なさそうに、そんな事を言った。
黒羽は肩を竦めて苦笑いする。
「まあ、私も貴方を助ける事にしましたし。
仕事ですからね、ちゃんとしますよ」
達也は黒羽を見つめて穏やかに笑う。
懐っこく、居心地は悪くない、そう思える笑顔を浮かべて。
佇む彼は、雨の中に溶けていく様で。
──ふと、黒羽は回想を止めた。
ずっと歩き続けていた
駅前から外れた通りで、虚な目をした彼は腕を伸ばす。
伸ばした先にあるのは街路樹。
無数に並ぶ内の一本、木の幹に指が触れる、意思の無い表情のまま立ち尽くす彼に。
黒羽は口を開き、声を掛けた。
「懐かしいですか?」
それは問いであり、びくりと体を揺らして彼は黒羽を見る。
達也の顔なのに全然違う、色の無い瞳は真っ黒で底無しだ。
黒羽の姿を見付けて口を開き、声を絞り出して彼は膝をついた、まるで縋る様に。
「かあ、……」
泣きだしそうな声に、黒羽は唇を噛んだ、大きな感情の波に耐えながら、言う。
「一応、言っておきます。
その体を返して、人間を呪うのを今すぐに辞めなさい。
お前の行いで何人もの人が死んでいる。
その体の持ち主も……恐らく脳腫瘍の兆候が見られます、長くは持ちません」
「……さん、かあ、さん……」
黒羽の言葉が聞こえているのか、いないのか、何度も同じ言葉を繰り返す彼。
足元の水溜りは、黒いもやが渦巻いていた。
黒羽は悲しげな顔をした後、告げる。
「お前がこうなったのは私のせいです。でも、人間を殺してはいけない。これ以上間違ってしまう前に、私はお前を祓います」
路地裏の影、通りの隙間。
影が揺れ動くように、何人もの虚な目をした者達が現れる。
顔持ちに誘引されてきた憑き物達、濡れた地面が真っ黒に染まった。
その中で、黒羽は赤い傘と、片手に下げていた黒い傘を手放す。
手ぶらになって、雨に濡れて、
──ああ、この寒さは久しぶりだ。
かあさん、かあさんと自分を呼ぶ憑き物の声に、黒羽は答えた。
「恨むのも憎むのも呪うのも、私だけにしておきなさい。
可哀想な
ありもしない緑が反射する。
巻き起こった草花の旋風が、黒いもやを飲み込んでいく。
真っ黒な地面は緑色に埋め尽くされ、
一人ずつ倒れていく中で。
「なんでわかって、くれないの」
悲しみと、寂しさと、当て所のない怒り。
憑き物は抱く全てを露わにして、呟く。
ずっと思い続けた、母に向かって。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目が覚めると、達也は黒羽の家にいた。
またソファに寝かされている、部屋は暗くどうやらまだ夜が明けていないようだ。
襲って来る激しい頭痛に頭を抱える。
胸の内では吐きそうなくらいの悲しさが充満していた。
黒羽の事が心配になって、何故そう思うのかもわからなかったけど。
雨に打たれて、泣きそうな顔をしていた彼女の姿が脳裏に過り、堪らず起き上がる。
記憶は──夕方、黒羽と話してから先が途切れているから、その辺りで乗っ取られたのだろう。
痛みの消えない頭に手を当てる、なんだか右手が動かし難い。
「驚きました、もう目が覚めたんですね」
頭を押さえる達也に、黒羽が声を掛けた、
どうやらリビングのソファに座っていたらしい。
浅い呼吸を繰り返す達也の頭に、
左手を当てる。
少しずつ引いていく痛みに、達也はやっと息を吐き、深呼吸を繰り返す。
「吐き気はありませんか?体が動かし辛いとか。痛みは緩和させられるんですが、治し切るにはまだ掛かりそうで……」
「──黒羽さん」
言葉を遮って、達也は黒羽を見た。
暗闇の中で黒羽がどんな顔をしているのか分からない、けれど息を呑んだ様な、そんな気配が伝わってくる。
達也は穏やかな声を出せる様に心掛けた、彼女が──これ以上傷付かないように。
「夢をね、見たんだ。
夢の中には大樹が出てきて、そこから人や命が生まれてくるんだけど、結局大樹は人間に切り倒されてしまう」
達也の言葉を聞いて黒羽は動かなくなった、だけど触れた指は震えていて。
達也はなんとか右腕を上げ、震える黒羽の肩に手を置く。
冷え切った体は何かを耐えて、震えている。
「根拠は、無いんだよ。何でそう思うのかも説明出来ないんだけどさ。
僕の中であの大樹と君が重なるんだ、
それだけじゃ無く自然、花やそれこそ雨にだって君は似ている」
「どうして、今それを?」
黒羽は落ち着いた声で達也に言った。
けれど震えは止まらないまま、自分を律して冷静でいようとしているのを感じとりながら、達也は答える。
「たぶん、もうすぐ最後だから。
これはただの予感なんだけど、僕の憑き物を祓ったら君とは会えなくなる。
だから、聞いておきたいんだ。僕を助けてくれる君の事を、知っていたいんだ」
達也はいつもの様に笑う、暗くて黒羽には見えないだろうが、それでも笑った。
彼女に拒否されても、されなくても、
達也にとってはこれが本心だった。
目の前にいる今にも泣き出しそうな彼女に対する、本心だった。
「そんな事、初めて言われました」
「……何でかな、僕も自分に驚いてる。僕が乗っ取られてる間に何かあった?」
黒羽は肩に置かれた達也の手に、
左手を重ねた、冷えた体に熱が移る、
きっと最初で最後の感覚。
──私と貴方の境界線。
「そこまで見えてるとは、思わなかったな。
仕方ないから、お話します」
カーテンの隙間から日が差した。
太陽の光が、雲間を割って朝を照らす。
この晴れ間は一時だけで、きっとすぐに雨が降るだろう。
だから達也は目に焼き付けた。
優しい憑き物祓いの姿を。
ずっと覚えていようと、そう思って。
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