第17話 君との夏がくれたもの
夏休みは忙しかった。でもその間に俺はしっかりとお金を稼ぎ、合間にはキコちゃんといろいろなことをして遊んだ。キコちゃんは家の中での水遊びをしたがったけど、残念ながら人形サイズの水着だけの販売が見つからなかったので、それは遠慮してもらった。
「じゃ、じゃあ…私、水着がなくてもいいです!」
「ダメーッ!それは俺がダメだから!えっと…じゃあ、今晩のデザートはかき氷にしてあげるから!ね!?涼しいでしょ!?」
「えっ…!やったー!かき氷ー!」
冷や汗っていうのは、あれのことを言うんだ。それから、実を言うと、俺は……我慢した。何を?とは聞かないでください。はい…ごめんなさい。
それでも、暑いからと二人でたまにアイスクリームを食べたりもしたし、カーゴパンツのポケットにキコちゃんをしのばせて、近所の川をちょっとだけ見に行ったりもした。
「わあ〜っ!広いですね!海ですか!?」
「ふふ、これは川。海ならもっともっと広いよ」
「へえ、すごい…」
あのとき、誰もいなくてよかったな。マリンスタイルのセーラー襟のシャツと白いハーフパンツを着た彼女が、真っ白な夏の陽を浴びる姿は、とても可愛かった。
でも、川辺を飛び交うギンヤンマが彼女の頭に止まろうとしたときは、それはそれは大変な騒ぎになったけど。
それから、夏の間はバイトで体力を使うので、俺はときどき納豆以外のものも食べた。たいがいが割り引かれた惣菜のから揚げやなんかだったけど、キコちゃんもそれは気に入ってくれた。一番好評だったのはエビフライかな。あと、いつも小さいパックが隅の方で割り引かれているポテトサラダは、キコちゃんのためによく買っている。
「“ぽてとさらだ”はやっぱり素晴らしいですね!」
あと、俺は学生として夏休み中の課題にも取り掛からなければいけなかった。それで勉強道具を広げたとき、キコちゃんが「手伝いましょうか?」と言ってきたのだ。そのとき俺は、キコちゃんが前に期末考査の問題をピタリと当てたのを思い出して、大いに誘惑された。しかし、俺はなんとか断った。善か悪かの問題ではない。これは尊厳の問題なのだ。
「大丈夫だよ、自分でやらないと身につかないからね」
「あ、そ、そうですね!頑張ってください!キコも応援しますよ!」
「ありがとう」
でも、“一度でいいから100点を見てみたかった”というのは、思わないでもなかった。
そして、その夏休みももう終わりだ。夕暮れ近くになって、夕涼みにと窓を開けると、カナカナカナ…とヒグラシが鳴く声が部屋に飛び込んでくる。涼しいけどどこか生ぬるい、湿った風も部屋に吹き込んだ。窓辺には1つだけ風鈴が下がっていて、それが静かな風に揺られて、チリ…チリチリン…と、途切れ途切れに鳴っている。
狂乱の暑さが去って、さんざめく命は残り香だけになり、風に乗って肌に吸いつくような気がした。ひぐらしや風鈴は、まるでその儚さを惜しんで泣いているみたいだ。火照った体は冷めていき、そうして人心地つくと、俺たちの体は黙り込むように力が抜け、ついつい眠ってしまいそうになっていた。
「ふわあ…おなか…すきましたね…」
「そうだね…もう晩ごはんにしようか」
俺は夏休みが明けて、元通りの日常が過ぎていくと思っていた。しかし、それは元通りとは少し違った。
少しずつ、俺の周りには人がいる時間が長くなった。クラスメイトが前よりも頻繁に俺に話しかけてくる。なぜだろう?と考えたけど、答えはよくわからなかった。
失くした教科書を少しの間だけ見せてくれないかと、隣の席の早田君に頼まれたりもした。
俺は「いいよ、教科書がないんじゃ困るもんね」と快諾して、「ありがとう」と言われたので、「どういたしまして」と返した。早田君がほっとしたように笑うのを見ていて、俺もちょっといい気分になれた。やっぱり誰かが喜んでくれるっていうのはいいよな。
俺はそのとき、自分の心に大きな変化が起きていたことには気づかなかった。
ある日俺は、職員室に来るようにと東先生に言われていたので、放課後に職員室を訪ねた。
「失礼しまーす」
「おお、児ノ原~、こっちこっち」
俺という生徒が来たので、数人の先生と談笑していた東先生はこちらを向いた。東先生と話していた先生たちは、なぜか俺を気遣うような微笑みをこちらに向けてから自分の席に戻り、みんな揃って背景みたいに黙り込んでしまった。俺はなんだかちょっと変な気分だった。
「どうしたんすか」
「お前な、高校出てすぐ働くなら、今からちゃんとした敬語くらい喋りなさい」
「…すみません。それで?どんなご用でしょうか?」
そこで東先生はちょっと晴れやかな笑顔を見せて、「まあ座れよ」と言った。東先生の隣は今日も空いているらしい。そしてそこには、今度は緑茶とまんじゅうが置かれていた。
「あ、それな、お前の分だから。いやー田中先生、いるだろ?あの人いつも大量に持ってきちゃうから、あまってるんだよ。協力してくれや」
「ふーん、まあ、すみません。じゃあ、遠慮なくいただきます」
東先生と俺はしばらく無言でまんじゅうをかじり、ふかふかした白い生地と、甘すぎるくらい甘い濃紫色のあんこを味わっていた。
「お前もさ、心配がなくなってよかったよ」
「え?」
緑茶の入った無骨な湯飲みから顔を上げると、東先生は満足そうに俺を見ていた。前はいつも、渋々俺に付き合っているような顔ばかりしていたのに。
「友達、増えただろ」
「はい、まあ…多分…」
「自信がなさそうだな」
そう言って東先生はなにやら面白そうに笑いながら、残りのまんじゅうを口に放り込んだ。そしてゆっくり噛んで飲み込み、どうやら話したかったのだろうことを話し出す。
「…お前は最近「ありがとう」とか「ごめん」とか、ちゃんと言うようになった。ちゃんと、笑顔でだ。変わったなと思うよ。前はいつも仏頂面で、誰とも喋りたがらないから、先生実は困ってたんだ。“こんなんでこいつを社会に出しちゃって大丈夫かな~”、みたいな、な」
俺はそれを聞いたとき、キコちゃんの顔が思い浮かんだ。
ああ、そうか。
東先生は大きく息を吐いてから、また嬉しそうに笑ってくれた。
「まあでもこれで、お前に関しては心配なし、だ。とはいえ、頑張っても芽が出ない山崎やなんかをなんとかしてやらにゃならんのだが…」
東先生は独り言のように最後の方をつぶやいていたけど、もう一度俺の顔をまっすぐ見て、こう言った。
「とにかく、先生はそれを心配していたし、“これからはお前がいつもいい人間関係が作れるだろう”と安心したということは、忘れるなよ?」
「はい」
キコちゃんは、しょっちゅう俺に「ありがとうございます」と「ごめんなさい」を言ってくれる。だから俺も、最近はひとりでに口をついて出るようになってきたかもしれない。
今思い返せば、金村さんのときもそうだった。俺はそんなのは当たり前になっていて気づかなかったけど、それで俺は知らない間にクラスになじめたのかもしれない。まあそれが本当にいいか悪いかは人によるかもしれないけど、俺は「悪くないな」と思えている。
初めは急に振る舞いの変わったクラスメイトたちに戸惑いもあったけど、俺はずっと昔、幼稚園で友達と遊んでいたときの景色を思い出したことがあった。そのときにわかったのだ。
俺は、両親の死があまりに悲しかったんだ。そして、「去っていくのなら、執着しなければ悲しくないだろう」という、それ自体がなんとも哀しい、そんな選択をしようとしていたのかもしれない。
今日は帰ったら、キコちゃんに「ありがとう」を言おう。
俺は、オレンジや赤に染められたビルの窓ガラスに見守られ、踏みなれているくたびれたアスファルトの道を越えて、家のドアを開けた。
「ただいま~」
そして、俺の目に信じられないものが飛び込んできた。それが彼女なのかもわからなかったけど、俺は名前を呼んだ。
「キコちゃん…?」
つづく
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