第9話 キコちゃんのキモチ





俺は自慢じゃないが、勉強はできない。頭がいいか悪いかと言われると、多分けっこう悪い方だと思う。まあでも仕事の上でのミスなんかはあんまりない。いや、この間ジョッキを落として割ったのは、あの時心配事があったからであって。

目の前のプリントには、罫線の間を埋めるようにこう書かれている。



国語総合/78点

現代文B/72点

古典B/73点

世界史B/69点

日本史B/68点

地理B/63点

現代社会/75点

倫理/80点

政治経済/72点

英語/63点

数学Ⅱ/48点

生物基礎/68点

物理基礎/67点

化学基礎/59点

保健体育/88点

情報/72点



あんまり主たるところじゃない話だけど、地理って地味に難しくないか?日常的に全然使わない範囲のことをひたすら暗記するって、けっこう大変だよな。


それにしても、ちょっと調子こきすぎたかな。数学が赤点だ。うちの学校はそこまで頭がよろしくない学校だからか、赤点は高校としては非常に珍しい50点と決められている。まあ問題は多分そんなに難しくないんだろうけど。


俺は返ってきた成績表を見て、はあ~っと深くため息を吐いた。とはいえ、俺は大学には行かないので高校時代の成績があとあとになって響くということも多分ないし、今、この時をしっかり乗り切ればいい。


黒板の前の東先生は、飲んだくれがやる説教のように、「じゃあ補講受ける奴は俺んとこ来て日程確認しろな~。はいさいなら~」と言った。チャイムが鳴り、生徒たちは解放される。


俺は、クラスのほとんど全員が帰って行く中、他の数名と一緒に東先生の元に集まった。


「はい、補講の日程プリントね、山崎は化学基礎か。ま、頑張れ」


「すみません」


喋ったことはないが、山崎君は少し背の低い、猫背の男子生徒である。彼は長く伸ばした前髪を片手で押さえて、先生から遠慮がちにプリントを受け取った。どう見ても努力家そうに見えるのに、赤点か。


まあ、どこのクラスにもいるよな。頑張ってるのに成績伸びない生徒って。いやいや、自分の努力すらほとんどしてない俺が口を出せることじゃないけど。


「児ノ原は〜、数学か。で、金村は物理。まあ厳しいとこばっかだからな。頑張れや。じゃあ先生帰るから」


俺の隣に居た金村さんは、なんと、この間喋った女子生徒だった。


「え~っ。物理難しいよ~東せんせ~」


東先生はもう日誌を持って教室の出口へと歩いていて、振り返らずに「真面目に補講出ろよ~」とだけ言って、ガラガラピシャンと戸を閉めてしまった。


山崎君は帰り支度をしに自分の席に戻っていた。でも俺は、少し金村さんが気になった。


実は、俺はほとんど人と喋らないから、高校生活で初めて喋った女子生徒が金村さんだったのだ。俺は少しそれを思い出していた。まずい。意識してんじゃねえよ、俺。


ちらっと金村さんの方を見てみると、彼女はこっちを見た。するとそのまま彼女は、内緒話をするみたいに、頬のあたりで小さくピースを作る。そして、「がんばろーねっ!」と小声で言った。まあ、ただそれだけのことだった。




耐性というのは大事だ。あまりに激烈なものにまで耐性がついていたら少し気の毒だが、逆に、ほんの微かなはずなのに、耐性がなくてまともに食らってしまうというのも問題なのだ。


俺は家への帰り道、金村さんの顔を思い出していた。よく見てみると、彼女は頬だけがぷっくりとつやつやしていて、それから、睫毛が長く、けっこう可愛い方だった。そんな子がだ。そんな子が、今まで女子とほとんど喋ったことのない男子に、「頑張ろうねっ!」なんてこっそり言ってみろ。そりゃ少しは心も揺れるぞ。


でも俺は、自分が冴えない男だということはわかっているし、わざわざ彼女を作って、休日に引っ張り回されたりする身になるのはごめんだ。まあ、金村さんのことは胸の内にしまっておこう。それに、うちには「キコちゃん」という美少女もいることだし。まあキコちゃんとは恋愛関係じゃないし、彼女はちょっと小さいけど。




「ただいま~」


「おかえりなさいませ!今日のごはんはなんでしょう?」


「ああ、その前にお昼のお片付けね」


「はい、お願いします」


キコちゃんは玄関まで来ていたのか、そこでペコリと頭を下げた。俺はキコちゃんを踏まないように部屋の中に入ると、豆皿を回収してシンクで洗い、お菓子のゴミをゴミ箱に捨てた。


キコちゃんの昼の食事の時は、俺は家にいない。だから、朝のうちに出しておいて、「12時になったら食べてね」と言ってある。でも、キコちゃんはおなかがすいて早くに食べてしまうのか、俺が夕方4時半くらいに帰ると、「ごはん食べましょう!」と急かしてくるのだ。小さいけど、なかなかに食べることは好きなキコちゃん。俺が帰宅部でよかったよなあ。


「えーと、晩ごはんは今日はコロッケだから。あとはポテトサラダもまた買ってこれたよ」


「はい、お願いします」


あれ?なんか今日のキコちゃんは反応が薄いな、と、俺はその時思った。キコちゃんはコロッケとポテトサラダが大好きだから、いつもなら飛び上がって喜ぶはずなんだけど。もしかして、飽きちゃったかな?そうすると次は何にしようか…。


そう考えながら冷蔵庫の前に屈んで、納豆の横にあるコロッケの包みを出そうとしていると、あの時のように、俺の制服のスラックスがくんっと引っ張られた。足元を見ると、キコちゃんがうつむいて立っている。


「どうしたの?」


「あの…その…」


「うん?どうしたの?」


キコちゃんの顔を覗き込もうとすると、なんと顔を逸らされた。そしてキコちゃんは、気まずそうにやや斜めの下を見たままだ。


え、俺なんかした?これ絶対なんかしたやつだよね?やべ。この間、キコちゃんが寝てたから一人でポテチ全部食べ切ったの、バレたかな?


「あの…ごはんの前に、お話が…」


「あ、は、はい…」




「というわけで、コロッケも温めたし、ごはんも盛ったし。キコちゃん、納豆もいる?」


食卓には、どこか気まずいムードが流れていた。


なんとなくいつも通りの空気が欲しくて、俺はあまり意味もなく納豆の話をしたけど、キコちゃんはうつむいたまま、ちょっと首を振った。


「えっと…お話をしてから…」


「え、うん…」


キコちゃんはなかなか喋ろうとしなかった。


彼女はうつむいたまま首をあっちこっちに傾けては、弱って悩んでいるような顔をしたり、どこか悲しそうな表情になったりした。何度か話を始めようと口を開けたけど、キコちゃんは諦めてしまう。でも、一度ため息を吐いてから、とうとう小さな声でぽそぽそと話し始めた。


「最近…一也さんと一緒にいるのが、なんだかとても、恥ずかしくて…」


恥ずかしい?どういうことだ?俺は初め、キコちゃんがなんの話しを始めたのかわからなかった。


「でも…それでもずっと一緒にいたいから、ほんとは、ポケットに入って、学校にも連れて行ってもらいたいって思うんですが…それはできないから…おうちで待ってるとき、とってもさみしいんです…。一也さん、今どうしてるかなって考えると、なんかちょっと…苦しくなって…どうしたらいいのかわからない気分になって…」


「え………」


キコちゃんは話しながら頬を染め、不安そうに胸に手を当てていた。でも、決定的な一言は出てこない。まさか。



まさか、全然意味もわからずに、自分の気持ち全部喋ったのか!?この子…!


ていうか!キコちゃんが、今話した自分の気持ちがなんなのかちゃんとわかってたら、俺はどう断ればいいんだよ!?



俺は一人で汗をかき、あたふたと体を動かしたいのをなんとかこらえて黙っていた。



キコちゃんはそこでやっと顔を上げて、こう言った。



「一也さんって…誰かと一緒にいて、“うれしいのに、恥ずかしいな、ずっと一緒にいたいな”って思ったこと、ありますか…?」


そう言って、キコちゃんは切なげに胸元で両手を握り合わせていた。





つづく

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