第8話 限りなく透明なブルー
「あ、あの・・、あ・・」
蒼乃は、どうしていいのかも分からず、そして、今がどういう状況なのかも分からず、ただ一人混乱していた。
少女は黙って蒼乃を見つめている。対峙する少女と蒼乃の背丈は殆ど一緒くらいだった。若干、少女が厚底サンダルを履いているせいで蒼乃の方が低くなっていた。
その時、おもむろに少女はかけていた、その特徴的な丸い形のサングラスを外した。
「あっ」
サングラスを外したそこには、真っ青に澄んだ空の下に広がる、限りなく透明な南の海のような明るいブルーの瞳があった。蒼乃は、その美しさに息を吞み、一瞬にしてその神秘的なブルーの瞳に、吸い寄せられるようにして魅入られていた。
「なんてきれいなブルーなんだろう」
蒼乃は、今の自分の置かれている状況を忘れ、そう思わずにいられなかった。もしこの瞳が宝石だったら、世界中で奪い合いが起こるに違いない。それはとてもとても壮絶で、残忍なものになるだろう。蒼乃は知らずにそんなことを考えていた。
少女のその美しいブルーの瞳はじっと、誰も人のいない辺境地に佇む湖のように静かに蒼乃を見つめていた。
「私をどうするの」
堪らなくなって、蒼乃は震える声で訊いた。
「・・・」
少女はそれには何も答えず、黙ったまま蒼乃を見つめていた。しかし、その口元は少し、ほんのわずかに微笑んだように蒼乃には見えた。
「私を殺すの?」
蒼乃は震える声で再び訊いた。
少女の透き通るようなブルーの瞳の奥の何か弾力のある部分が、蒼乃をその光の中で映し出すように捉え、怪しく光った。
「殺すわ」
少女は冷たく言った。
「・・・」
しかし、「殺すわ」という少女の淡々としたその声の響きに、蒼乃はその言葉の意味とは裏腹に不思議な幻想を感じた。そこには殺されるという実感はなく、どこか虚構の世界の幻影にも似た淡い感触があった。
「・・・」
しかし、蒼乃を見つめる少女のその美しいブルーの瞳は寸分の狂いもなく真剣だった。それは微動だにしない、巨岩のような不動を湛えていた。
「・・・」
少女の拳銃を持つ左手がゆっくりと上げられ、蒼乃のおでこの中央にピタリとその銃口が当てられた。
その銃の重みと硬さを額に感じ、蒼乃はこれは紛れもなく現実なのだと、その時初めて実感した。
蒼乃はへなへなと、その場にへたり込んでいった。しかし、それに合わせ、銃口もしっかりと、機械のように正確に蒼乃の額中央に当てられたまま、連動するように下がっていった。
その時、力の抜けた蒼乃の手の中から、ミーコーがするりと、抜け出し、地面に立った。しかし、そんなことに、意識を向けられる余裕は蒼乃にはなかった。
蒼乃は目を瞑った。こんなことで自分が死ぬとは思わなかった。突然、こんな風に自分が死ぬなんて思いもしなかった。死にたくない。死にたくない・・。でも・・。
「でも?」
自分への問いかけが突如として蒼乃の頭に浮かんだ。でも・・、このまま生きていて、何があるの?私の人生に何があるの?この先、私の未来に何があるの・・?
もう・・、もう、いいかもしれない・・。恐怖に震えながら、蒼乃の頭の片隅にそんな考えが浮かんだ。
「もう・・、いいかも・・」
蒼乃はその時、どこか安堵感に似た、開放感のようなものを全身で感じていた。生まれた時から背負ってきた何か重たく辛いものから解放される、今まで蒼乃を圧迫していた肩に乗っていた重たい荷が、完全に全部下りるような堪らない安堵感と開放感。
「あれっ」
蒼乃は泣いていた。泣くつもりも泣いている実感もないまま、涙だけが頬をつたっていった。
その時、少女の目が少しだけ閉じ、横に細く、広がり、その若干狭まった瞳の中に光が集まり潤んだように光が増した。
カチャッ
金属の動く音がして、蒼乃の全身に硬直するように力が籠った。
「死ぬ、死、死、死・・」
蒼乃は頭の中で、その言葉だけが木霊するのを感じていた。
「結局ろくでもない人生だったな・・」
恐怖を感じながらもどこか落ち着いた部分で、蒼乃は自分の人生をふわふわとした達観にも似た感覚で他人事のように振り返っていた。私に人生はなんて不幸で惨めだったんだろう・・。
孤独で・・、弱虫で・・、グズで・・、どうしようもないバカな私・・。そして、そのバカな私は、見も知らない少女に、よく分からない理由で殺されていく。なんてつまらなく、ちっぽけでどうでもいい人生だったんだろう。
「殺して・・」
蒼乃は少女を仰ぎ見るようにしてそう呟いていた。蒼乃はなんだか全てがもうどうでもいいような気がした。自分の人生も、生きていることも、生きようとしていることも・・。
「ねえ、大人になったら、人生って少しは楽しくなるかな?」
その時、少女がふいに蒼乃に訊ねた。
「えっ?」
そのブルーの瞳が蒼乃を見つめていた。その目の奥はとてもドライアイスに素手で触ったみたいに痛むように冷めていた。
「・・、分かんない。でも、多分、ならない・・」
「やっぱりね」
知っていたことを改めて確認したみたいに少女は言った。
「豪華な地獄ね、生きるって」
「?」
その時、突然、額に当てられていた銃口が、下げられ、ゆっくりと蒼乃から離れていった。
「!」
蒼乃はゆっくりと少女を見上げた。少女は、相変わらずその美しいブルーの瞳で喜代乃を見つめていた。
「殺さないの?」
蒼乃は弱弱しく、小さく呟いた。
「うん、殺さない」
その時、少女は少し笑ったように見えた。しかし、それは蒼乃の見間違いかもしれなかった。蒼乃がその時見た少女は、なにかそこだけ浮き立つような、幻の輝きが陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
「・・・」
蒼乃が黙っていると、少女は、蒼乃に背を向け、歩き出した。
「・・・」
蒼乃は、何も考えられず、放心したようにその背中を見つめていた。
「・・・」
その時、蒼乃の中に何か得体のしれない、熱い何かが湧き上がって来た。それは、まるで今まで溜まりに溜まった地底のマグマが、ものすごい圧力で一つの噴出孔から噴き出そうとしているかのような、強烈な感情の蠢きだった。
「私・・」
極限の緊張から解放された痺れるような意識の中、何か強烈な思いが蒼乃を突き動かした。
「私には居場所がない・・」
少女が歩く足を止めた。
「私は・・、学校に行きたくない。私は・・、家にも帰りたくない。でも・・、どこにも・・、居場所がない・・、私にはどこにも行くところがない・・」
蒼乃は、なんだかよく分からないけど、そんなことを少女の背中に叫んでいた。そして、よだれを垂らし、泣いていた。
「私・・」
何を言っているんだろう。蒼乃は頭の片隅ではそう思っていた。今まで、自分の言葉で、自分の感情で、自分の思いを語ったことなど一度もなかった。物心つく前の小さい頃ですら、ただの一度もなかった。でも、何か突き上げる衝動が蒼乃をどうしようもなく叫ばせていた。
「私・・」
少女は、振り返ると無表情のまま、そんな蒼乃を黙って見つめた。
「あなた、殺し屋でしょ」
蒼乃はそんな少女を涙の溜まった目で見上げた。
「・・・」
少女は黙ったまま蒼乃を見下ろしていた。
「私を殺し屋にして、私、殺したい人いっぱいいるの」
自分が何を言っているのか、なんで少女に向かってこんなことを言っているのか分からないまま、蒼乃はただ、たまった熱い何かを吐き出すように思いのたけを叫んでいた。
「私を連れて行って。なんでもするわ。なんでもする。掃除も洗濯もなんでも・・、お願い・・、私を連れてって・・、どこか別の世界へ・・、ここじゃないどこかへ」
少女がまた、銃を上げ自分を撃つかもしれない。蒼乃は思った。でも、それでもいいような気がした。このまま、生きていても、結局死んでいるのと同じ。いや、死んだ方がましな人生が待っているだけ。そうそれは少女の言った地獄。
「・・・」
少女は黙って蒼乃を見下ろしていた。
その時、少女が少し笑ったような気がした。淡い微かな、柔らかい赤ちゃんのような笑顔。
「いいよ」
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