第3話
佐々木さんは翌日以降、少しだけ明るくなった。相変わらず怒られるとこの世の終わりみたいな顔をして「ごめんなさい」と謝るだけだったが、そうじゃないときに、時々自然な微笑みを浮かべるようになった。
絶望としか言いようのない無表情を浮かべているときが、少なくなっているように思った。そういうのは誰も口にはしないが、案外みんな感じ取っているんじゃないかと思う。
店長や仕事仲間の佐々木さんへの態度や評価も、少しだけマシになった。
あの夜から二週間ほどたった晴天のある日、佐々木さんはかなり思い詰めた表情でとある頼みごとをしてきた。
「入院している彼女さんに、会わせてもらえませんか?」
僕は佐々木さんが何か勘違いをしているみたいだと思ったが、わざわざ訂正しなくても実際に見ればわかるだろうと思って、了承することにした。佐々木さんも僕も、それ以上何も言わなかった。
佐々木さんからは本物の陰鬱と覚悟が感じられた。それは普段のおどおどとした態度と似ているようで、全く違うもののように思えた。たとえそれが勘違いから来たものだとしても、僕はそれを尊重したいと思ったのだ。
驚いたことに、佐々木さんはソレを見ても驚かなかった。ソレの方も、佐々木さんを見ても僕を見たときと同じような態度をとった。目を空けたり閉じたりして、口をもごもごさせたり、そういう意味のない動作だけを続けていた。
「恥ずかしい話ですが、あの日、あの後、ちょっと後ろをつけてたんです。どこに行くのかどうしても気になって。別にストーカーみたいにどこに住んでいるのか確認しようなんて思っていたわけじゃないんです。ただ、どうしても気になってしまって。そのあとに、まぁ親切な看護婦さんに詳しいことは教えてもらって。個人情報だったけど、事情も事情だったからっていうことで、なぜかあっさり知ってしまったんです」
僕は困ったように笑うしかなかった。そんなことは想像もしていなかったからだ。
でも言われてみたら、別に驚くほどのことではない。佐々木さんは美人ではないけれど、人のよい顔つきをしているし、どこか親切にしてあげたくなる人だ。
「僕は、佐々木さんが変な勘違いをしているのかなって思ってました。どうやら変な勘違いは僕の方だったみたいですね」
佐々木さんは、照れたように口元を緩めた。
「ごめんなさい。もっと早く言っていればよかったんですけど、不快にさせないか不安で。あまり人を信じることができないのは、よくないですよね。でも、今ちゃんと言えて、ちょっと嬉しいんです。それで、佐伯さんが思った通りに笑ってくれて、それで、なんていうか、ごめんなさい。ありがとうございます」
言葉はたどたどしかったが、どこか浮かれたような調子で、聞いていてこちらまで嬉しくなるような声だった。
事情を知らない人が見たら、色々と変だと思うかもしれないが、むしろ僕は、こうじゃない方が変だと思った。こうでないと、かみ合った会話とは言えない。
「その、嫌だったらいいんですけど、木村香織さんのことについて、もっと知りたいです」
佐々木さんは、ソレと見つめ合ったままそう言った。声だけは僕の方に向いていた。僕のために出した声だと感じた。
「長くて重い話になると思いますが」
佐々木さんは黙って頷く。
なぜか、自分の心が喜んでいるのを感じた。
もしかしたら、ずっと誰かに話したかったのかもしれない。今気づいたが、彼女、木村香織について、誰かに詳しい話をしたことは一度もなかった。話す必要もなかったし、それを求められることもなかったからだ。
この世界には、重たくて、長くて、難しい話を聞きたがる人はほとんどいないから、これからずっと、ひとりでこれを抱えていくのだと思っていた。それが、少しだけ悲しくて、寂しかったのかもしれない。
誰かを助けようとして、自分が助けられたのかもしれない。本当にそうであるか、僕にはわからない。信じてもいないし、疑ってもいない。
でも僕がここで、佐々木さんに、僕の全てを話してみようと思ったのは、本当だ。それは信じているし、きっと嘘じゃない。
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