第2話 2時間目
放課後、ちらほらと帰宅していく教師達を横目にアオイは漢字の小テストの丸付けに勤しんでいた。次第に外が暗くなってきて、全員の小テストの丸付けが終わった頃、それを見計らったかのように隣からナツメが肘をつついてきた。
「もうそろそろ行こうか?あんまり遅くなっても嫌だしね」
ナツメに言われ時計を見る。短針は八を指そうとしていた。
「そうですね」とアオイも賛同する。こんなに遅くまで学校に残ったのは初めてだった。
ナツメと共に肝試しに行こうと立ち上がる。採点で同じ姿勢をしていたためすっかり体が凝り固まっていた。ほぐすために伸びをすると、「お疲れ様」とナツメが笑った。
「アオイ先生、先に廊下に出ててくれる?私もすぐに追いつくから!」
ナツメに言われ、アオイは頷くと扉の方に向かって歩き始めた。
廊下に出ようとしたとき、ツカサとすれ違った。いつも放課後になるとさっさといなくなってしまう彼がこんなに遅い時間までいるのが珍しく、アオイは足を止めツカサに話しかける。
「ツカサ先生、今日は随分と遅くまで残っているんですね」
話しかけられ、ツカサも足を止めアオイを見つめる。
「……ここ数日金魚が調子悪くて、薬をやっていたら遅くなっちゃってね」
「そうなんですか?それで、金魚は大丈夫なんですか?」
そう尋ねるとツカサが「まあなんとか」と答えた。それを聞いてアオイは胸をなで下ろした。そんなアオイを見てツカサが再び口を開く。
「アオイ先生こそ、やけに遅いけどどうかしたの?」
「私は、小テストの丸付けをしていて……」
そう笑うとツカサがちらりとアオイの後ろを見た。振り向けばこちらにナツメが歩いてくるのが見える。
ツカサはこれ以上アオイと会話したくないようで、横を通り過ぎると去って行ってしまった。それとほぼ同時にナツメがアオイの隣に立つ。
「それじゃ、行こうか」
そう意気込むように言うナツメに頷いてみせた。
廊下に出てすぐに、アオイの横でナツメが小さく「うわ」と声をあげた。
「どうしたんですか?」
そう尋ねるとナツメが小さい動作で指をさした。その方向を見れば懐中電灯を持ったヒジリがこちらに背を向けて廊下を歩いていくのが見えた。
「ヒジリ先生がいる……。もしかしたら、今日宿直だったのかな?肝試しってばれないようにしないと……」
そう苦い顔で言うナツメを見てなるほどと思う。ヒジリは生徒にも教師にも厳しいのだ。遊びで学校に残っていることを知られたら何を言われるか分からない。
「アオイ先生、早いところ肝試しに行っちゃおうか」
ナツメに小声で言われ「そうですね」とアオイも小声で頷いた。
春だというのに、夜の学校は肌寒かった。カーディガンを持ってきて良かったと、アオイは前のボタンを留めながら体を震わせた。
「夜の学校って不気味だよね……」
そうナツメがおっかなびっくりしながら歩く。確かに生徒達のにぎやかな声が響く昼間と違って、物音一つしない夜の学校は別の空間に入り込んでしまったかのようなえもいわれぬ不気味さがあった。
不意に水が落ちる音が辺りに響いて、ナツメが悲鳴をあげてアオイにしがみついた。アオイが視線を巡らせれば、すぐ近くに手洗い場があるのが見えた。
「なんだ、蛇口から水が落ちただけか……」
そう胸をなで下ろすナツメを見て思わずアオイは笑みをもらす。
「ふふっ。ナツメ先生、あんなに張り切っていたのに、怖いの苦手なんですね」
そう言われナツメが恥ずかしそうに唇をとがらせる。
「うう~、怖いのは好きだけど、怖いものはやっぱり怖いのよ。だから、怖い話はつい見ちゃうけど、トイレに行けなくなっちゃうの」
「分かります」と笑って賛同する。しかし、今のところただ暗いだけで特に怪奇現象が起こるような気配はない。
(まあ、夜の学校だからってお化けが出るとは限らないしな……)
建てられてからそこまで長い時間が経っていないからか、この学校にはいわゆる七不思議なるものは存在していなかった。
(特に怖いものを見ることなく肝試しを終えられるかも)と考えて、一年前に自殺した教師のことを思い出した。彼女の幽霊は出てもおかしくない。そう思うと窓を揺らす風の音に、少し寒気を感じた。
ゆっくり一階の廊下を歩き、階段で二階にのぼった。二階の廊下を端から端まで歩き、さらに階段で三階へのぼる。特に何か起こることも変な音が聞こえることもなく、緊張感が消え昼の疲れからアオイが眠気を感じ始めていた時、不意にピアノの音が静かな廊下に響いた。
「ひっ!?」とナツメが体を震わせる。不思議に思いアオイが思わず足を止めた。
三階の突き当たりは音楽室だった。ピアノの音がしてもおかしくはない場所だが、今は最終下校もとっくに過ぎた夜中だ。
(なんだろう……)
しばらく廊下で立ち止まって様子を見ていたが、あれ以来音は聞こえてこなかった。
(さっき聞こえたピアノの音は気のせいだったのかな……)
そう思い、背を向け立ち去ろうとするアオイたちを引き留めるようにまたピアノの音が鳴った。
またナツメが震え、アオイにしがみついた。アオイは不思議そうに音楽室の方を振り返る。
(誰かいるのかしら?)
そう思って音楽室に近づこうとするアオイをふんばってナツメが止める。
「や、やめよう、アオイ先生!」
「でも、もし誰かが残っているのなら帰らせないと」
そう言うとナツメがぶんぶんと首を振った。
「電気がついてないし、生徒じゃないよ、絶対!」
「生徒じゃないならなおさら見ないといけません」
アオイがそうはっきりと言いきった。そう言い終わる前にもまたピアノの音が鳴って、ナツメは悲鳴を上げるとその場にへたりこんだ。
不思議なことに、アオイは恐怖をまったく感じていなかった。むしろ、そのピアノの音がアオイを呼んでいるような気さえしたのだ。
アオイはへたりこんでいるナツメにここで待っているよう伝えると音楽室に向かって歩き出した。
手をかけるとすんなりと扉が開いた。顔だけを中に入れ、室内を見渡す。
「誰かいるの?」
そう声をかけるが、音楽室は静まりかえって何も返ってこなかった。今日は新月のせいか、電気がついていない音楽室は真っ暗で何も見えなかった。手探りでスイッチを探し、電気をつける。
ピアノの鍵盤が見える位置に回りこんでみたが、誰もいなかった。じっとピアノを見つめてみたが、もう音はならなかった。
(どういうことだろう……?本当にお化けだったのかな)
音楽室に置いてあるのはグランドピアノなので、誰かが鍵盤を叩かなければ音が鳴ることはない。不思議に思いながらさらにピアノに近づくと、椅子の上に小さな紙が落ちているのが目に入った。
それに手を伸ばし拾い上げる。二つに折りたたまれた紙を開くと、そこには鉛筆でこう書かれていた。
『私を殺した犯人を捜して』
(犯人を捜す?どういうこと?)
書かれた文言に思わず首をひねる。すると扉の方から
「アオイ先生、大丈夫?」と不安そうなナツメの声が聞こえてきた。
「あ、はい!」
振り向けばびくびくしながらナツメがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「だ、誰かいた?」
そう辺りを見回すナツメに「いいえ」と首を振る。
「けれど、こんなものが椅子の上に落ちていました」
そう言って紙を開いたままナツメに見せる。
「何?」
そう言ってそれに目を走らせていたナツメが急に顔を真っ青にした。
「? ナツメ先生、どうしたんですか?」
ナツメは紙に目を釘つけにしたまま、すっかり青ざめて震えていた。
「カ……エデ……」
そう放心したように呟く。彼女の様子がおかしいことに気づき、アオイは紙を放り出すとナツメに駆け寄った。
「ナツメ先生!どうしたんですか?しっかりしてください!」
そうナツメの体を支えた瞬間、彼女の全身の力が抜けて床に座り込んだ。彼女の全体重がアオイの腕にかかり、思わずアオイもその場にしゃがみ込む。
「ナツメ先生!」
震えているナツメの背中をさすりながら、どうしようと辺りを見回す。アオイ一人で脱力したナツメをここから運び出すのは難しそうだ。
「誰か!誰かいませんか!?」
そう駄目元で声をはりあげる。しかし、自分の声がむなしく音楽室に響くだけだ。何度声をあげようとそのたびに自分の声が夜の闇に吸い込まれていくような気がして、アオイが焦りを感じていると「どうしたのですか?」と聞き慣れた男の声が返ってきた。
はっとして扉の方を見れば、ヒジリが立っていた。ヒジリは座り込んでいるナツメを見ると表情を険しくして駆け寄ってきた。
「何があったのですか?」
そう早口で尋ねるヒジリにアオイは混乱しながらも起こったことを彼に伝える。
「ナツメ先生が、突然座り込んでしまって……」
ヒジリはそれを聞いて顔をしかめたまま、
「ナツメ先生を保健室に運びます。あなたは職員室から保健室の鍵を持ってきてくれませんか」と早口で言った。
「分かりました」とアオイも早口で言うと立ち上がり、音楽室を飛び出した。
職員室に向かって一直線に走る。すぐに息が上がって苦しくなってきたが足を止めることは出来なかった。ナツメが大丈夫かどうか不安でたまらなかった。
ようやく職員室にたどり着いたときには、まるで校庭を三周したかのようにどっぷりと疲れていた。
息を整えながら鍵置き場に向かう。
(えーっと、保健室の鍵は……)
そう心の中で呟きながら保健室の鍵を探していると、不意に手元が暗くなった。振り返れば手元を覗き込む形でツカサが立っていた。
「アオイ先生、どうしたの?やけに息が荒いけど」
「あ、えっと……」
どぎまぎしながら先ほどまでに起こったことを述べるとツカサが考え込んだ。
「ふうん、そんなことが……」
何かを思案しているツカサの隣でようやく鍵を見つけたアオイが立ち上がる。
「私、保健室に行ってきます!」
そう言って走り出そうとしたアオイにツカサが声をかける。
「俺も行くよ」
「え?」
振り返ればツカサが笑みを作った。
「なんだか面白いことになりそうだからさ」
人が一人倒れているというのに不謹慎なことを言うツカサを怪訝に思いながら、アオイはツカサと共に保健室へと急いだ。
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