第44話 私が火垂るの墓で泣けない理由
我が家では5年前から祖父の田舎に蛍を観に行っています。
最初に行った5年前には数百匹の蛍の大乱舞に興奮しました。
呆気にとられた、と言った方が正しいかも知れません。
これだけ沢山の蛍を観たのは初めてでしたから。
その川は古くからあった川なのですが20年くらい前に治水がどうのこうので、用水路のように平坦にされたそうです。
しかし地域住民の運動もあって、コンクリートでは無く自然を残すと言う方式で行われたそうです。
川底には砂利や大小の岩を置き川の両端には草や樹が植えられました。
そしたら、10年くらい前から蛍が舞うようになったそうです。
今年も6月の半ばに観に行きました。
それまでの4年間は毎年100匹以上の蛍が観られたのですが、今年は数10匹しか観られませんでした。
自然が相手ですから仕方のない事ですが、それでも蛍が舞うのを観られて嬉しかったです。
私達が観ているのは源氏蛍だと思うのですが、最初に観た時はその光りがかなり強い事に驚きました。
発光した蛍の殆どは翌朝には死んでしまうそうです。
その光りの幽玄さと相まって日本では古来より蛍は文学の題材として多く扱われています。
伊勢物語では2例、源氏物語では10例ほど蛍が取り上げられているそうです。
和歌にも蛍を扱ったものは多いです。
特に注目されるのは和泉式部でしょうか。
物思へば沢の蛍も我が身より あくがれ出づる魂かとぞ見る
この歌では蛍を明確に魂だと捉えています。
私も暗闇の中、1人で蛍を観ていると不思議な気持ちになります。
美しいけど怖い。
蛍火が飛んで行った先は「この世ならざるもの」かも知れません。
前置きが長くなってすみません。
私がジブリアニメの「火垂るの墓」を観て泣けない理由をお話します。
よく「火垂るの墓」を観て泣いた、と言う言葉を見たり聞いたりします。
私も2回ほど観ましたが泣けません。
泣くより更に深い絶望感に叩き落とされるからです。
泣くと言う行為は感情の発露です。
泣く事によって自分の中の感情を発散させる事が出来ます。
しかし、私は泣く事も出来ずひたすら絶望感の中を彷徨い続けます。
皮肉では無く私は「火垂るの墓」で泣ける人を羨ましく思います。
私も泣く事が出来ればこの絶望感から少しでも抜け出せるのに。
私は泣く事が出来ません。
冒頭の空襲で美しかった母親が全身火傷で無残な姿になるシーン。
あそこでもうダメです。
後はひたすら絶望感の中を彷徨うだけです。
私のアニメ感の根っこは高畑勲氏です。
「母をたずねて三千里」はアニメの枠にとどまらず日本のテレビ史に残る作品だと思っています。
そんな高畑氏だからこそ、私的感情を排除して「火垂るの墓」を作れたのだと思います。
「火垂るの墓」はとても優れた作品です。
しかし、私には荷が重すぎるのです。
私自身がもっと強い心を持って、いつかはこの作品と真正面から対峙しなければならない、と思っています。
私の極めて個人的な想いにお付き合い頂きありがうございました。
読んで下さった方には感謝を申し上げます。
それでは。
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