第53話 届かない
廊下を駆け抜ける中、敦盛の心は凪の如く落ち着いて。
世界中にありがとうと感謝を述べたい気分、愛する人の為に出来る事がある。
それが、――――何より嬉しい。
(ありがとう、本当にありがとう…………)
親友である竜胆と円に、担任である脇部に。
(初恋だったんだ……ありがとう奏さん)
彼女と出逢わなければ、性欲も友情も、惰性も妥協も、友情も親愛も、全てを愛情と勘違いしていたかもしれない。
そして。
(ありがとう瑠璃姫、俺の事を想ってくれて)
愛情ではなく、憎しみと執着であったのが少し寂しかったが。
でも、それでも彼女を愛してしまったのだ。
これから死にゆく事に、後悔も躊躇いも無い。
(――――このまま、屋上まで駆け上がれば)
それで最後、疲れ切った体は思った以上にスピードが出ず。
でも構わない、追いかける瑠璃姫と付かず離れずの丁度良い距離を保っている。
「あっくん! 待ってあっくん!」
届きそうで届かない彼の背に、手を伸ばす瑠璃姫。
彼女の心は今、焦燥感と敗北感に満ちて。
(壊したっ、アタシが壊しちゃったっ! そんなつもりなんて無かったのにっ……、壊したいけど壊すつもりなんてなかったのにっ!!)
廊下を抜けてしまえば、後は階段で上がりきるだけ。
追いつけそうなのに追いつけない、――喪ってしまう、永遠に。
その事が、何より怖い。
「待ってっ!」
彼を喪ってしまえば、瑠璃姫は孤独になってしまう。
人生の目的を喪ってしまう。
まだ父が居る、なんて慰めにもならない。
彼女は、人生を彼に捧げてきたのだ。
「待ってよっ!」
母を無くした孤独、天才という孤独、自分に足りないモノの原因を全て幼馴染みに押しつけて。
敦盛を憎む事で孤独を埋めていたのだ、己を保っていたのだ。
「お願いだから待ってってばぁ!!」
そんな自分が嫌で、もっと憎んで。
敦盛を喪ったら、瑠璃姫は何を憎めばいい、誰と一緒に居ればいい、誰と笑いあって、誰と喧嘩して、誰に負ければいい。
(届かない、何で届かないのよぉ!!)
彼の走る速度は、明らかにいつもより遅い。
しかし追いつけない、指先が彼のジャージに端に触って掴めない。
(最後まで……アタシは負けるの? 負けて全てを喪うの?)
人生という土俵で、瑠璃姫は一度も敦盛に勝てなかった。
才能で、成績で勝っても、どんなに大金を稼いでも。
…………人として、勝ったと思えた瞬間が一度もない。
(アンタが眩しかったのよ、アタシが持ってない強さを持つアンタが!! アンタが羨ましかったのよ、アタシが知らない幸せを掴もうとしていたアンタが!!)
全ては嫉妬、くだらない羨望、本当は邪魔だったのだ彼以外の全てが。
早乙女敦盛には、溝隠瑠璃姫だけ在れば良い。
そんな子供じみた、誰かが知れば恋と呼んだかもしれない何か。
(消える……アタシの全てが消えちゃう、命すら捧げるつもりだったのに……、あっくんが居なくなっちゃう!)
階段を駆け上がる一つ一つの動作が、妙に緩慢に思える。
憎い、憎い、目の前が揺れるぐらい憎い。
届かない距離ではなく、彼が死のうとしている事でもなく。
(アタシは……――アタシが憎い)
唇を噛んで、血が滲む。
けれど、痛みは感じない。
「あっくん! お願いだから待ってよぉっ!!」
多分、自分は最初から間違っていたのだ。
多分、ではなく明らかに間違っていた。
確信する、溝隠瑠璃姫は。
(愛してる、愛してるのよあっくん――)
憎しみが消えた訳じゃない、これからも消える事はないだろう。
でもその裏で、確かに彼女は彼を愛していたのだ。
(遅かった……いいえ、まだ遅くない、遅くないのっ、だから)
瑠璃姫は手を伸ばし続ける、名前を呼び続ける。
屋上の扉が見え始め、届け届けと精一杯に手を延ばして。
「届い――――っ!?」
瞬間、ぐらりと視界が傾く。
急激に敦盛の背中が遠くなる、周囲の光景が妙にスローモーションに見えた。
(落ち……てるっ!?)
最後の最後、手が届いたと思った瞬間に彼女は足を踏み外して。
手を延ばし続けた故に、バランスを崩し落ちていく。
(ダメっ、ダメよこんな所で――――)
敦盛が振り返って、驚く顔が見えた。
焦って目を丸くする、少し間の抜けた表情。
こんな時なのに、それが妙におかしくて。
(死ぬのは、アタシね)
細かく計算しなくても分かる、この勢いで落ちてしまえば。
この体勢で落ちきってしまえば、頭から床にぶつかって。
(――――ごめん、あっくん)
最後に見たものが、笑顔じゃなくて残念だと思いながら。
(さよなら)
瑠璃姫はその時に備え、そっと瞳を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます