第29話 黒い水着の真っ赤な罠

 



 男の手が桐生先輩の首元で結ばれている紐を掴み、己の体で隠すようにしつつも引っ張ったのが見えた。彼女の声だろう小さな悲鳴が聞こえた気がする。

 次の瞬間、俺も宗佐も、一気に距離を詰めると同時に手を伸ばした。


「おい、お前達待てよ。今の見てたぞ!」


 逃がさないよう男の腕を掴む。宗佐もまた実行した方の男の手首を掴んでおり、殴り掛かりかねないほどの鋭さで睨みつけていた。

 桐生先輩が慌てた様子で水着の胸元を押さえているのが視界の端に見える。だが事態を察した月見がすぐさま背に回って結び直そうとしているので、こちらは問題ないだろう。

 なにより桐生先輩はこうなる前提で囮役に名乗り出たのだ。ここで彼女を案じ、注意が逸れて犯人を逃した……なんて事になったら逆に怒られてしまう。


 だからこそ俺と宗佐は桐生先輩を月見に託し、男達を逃がすまいと腕を掴む手に力を入れた。


「な、なんだよお前等。離せよ」

「離すわけないだろ。言ったろ、何やったか全部見てたからな」

「はぁ? なに言ってんだよ。わけわかんねぇ」


 ふざけんなよ、と苛立ち混じりに男達が睨み返してくる。どうやら威圧的に出てしらを切るつもりのようだ。

 男達の背格好は俺と同等くらいで、背も高く体躯も良く鍛えているのが分かる。威圧的な態度を取れば迫力があり、今までもこうやって相手を黙らせてきたのだろう。もちろんそんなものに臆するわけがないのだが。

 宗佐だって同様。一見すると些か弱々しく見えるかもしれないが、ここで怖気づいて下手に出るような男ではない。


 不穏な空気を感じ取ったのか周囲の客達が怪訝な表情をし、俺達を避けるように離れていく。

 そんな中あえて近付いてくるのは、事前に話をしていた男性スタッフと、そして桐生先輩と月見だ。桐生先輩の姿を見て、そして俺達が連れだと察し、男達が僅かに顔を顰めた。


「二人ともありがとう。覚悟してたとはいえさすがに焦っちゃったわ」

「平気でしたか?」

「解かれたと分かった瞬間にすぐに押さえたから大丈夫。……それで」


 ちらと桐生先輩が男達に視線をやる。大人びて妖艶な彼女の侮蔑すら込めた鋭い視線、麗しい顔付きなだけに迫力は一入だ。

「やってくれたわね」という冷ややかな言葉に、宗佐に腕を掴まれていた男が「はぁ?」と乱暴な声色で返した。俺達は無理だが、女の桐生先輩なら脅せば引き下がると考えたのか。

 そのうえ、さも自分達が被害者のように「見てないで助けてくださいよ」とスタッフに訴えだした。


「こいつらさっきからわけの分からないこと言ってくるんですよ。俺達もう他行きたいんで、なんとかしてもらえません?」」


 先程までの粗暴で威圧的な態度から一転し、スタッフに対してへらへらと笑って助けを求める。無害をアピールしているのだろうか。こちらとしては嘲笑っているようにも見え、腹立たしいだけだ。

 そのやりとりを見ていた桐生先輩が、ずいと一歩踏み出した。


「手を見せてちょうだい」

「はぁ? 手?」

「そうよ、二人とも手を開いて見せて」


 早く、と桐生先輩が厳しい口調で急かせば、男が苛立たしそうに桐生先輩に己の手を突き出した。

 宗佐が腕を掴んでいたもう一人もそれに続こうとし……「なんだよこれ!」と声をあげた。


 男の指先が赤くなっている。

 べっとりと着いたそれは、まるで絵具やクレヨンを握りしめたかのようだ。当人も今になって気付いたのかぎょっとして己の手を見つめ、対して宗佐は水に着けさせまいと男の手首をしっかりと握っている。


「それね、口紅よ」

「口紅……? なんでそんなもんが」

「ここに来る前に借りて紐に着けておいたの。結構しっかりと着けておいたんだけど、黒い水着だし、周りも暗いし気付かなかったでしょ」


 してやったりと桐生先輩が微笑みながら話す。

 その隣では月見が手を開いて見せつけており、彼女の手にもまた真っ赤な口紅がついている。水着の紐を結び直してやる際に付着したのだ。触ったら誰もがこうなる、そう月見自身が証明している。

 現行犯で押さえても言い逃れされるかもしれない、そう考えた桐生先輩の案である。この機転も、その際に言い切った「この私が囮になるんだもの、何が何でも捕まえてやらなきゃ」という台詞も合わせて、流石の一言である。


「くそ……」


 明確な証拠を前に言い逃れ出来ないと察したのか、威圧的だった男達の態度が途端に悔しそうなものに変わった。

 男性スタッフが俺達の代わりにと二人の腕を掴む。「話は事務所で聞かせてもらいます」と告げる声は重く、これには男達も反論出来ずにいた。

 まさに連行といった様子で歩き出せば、周りで野次馬していた者達が慌てて道を開ける。


 それを見届け、俺もほっと安堵の息を吐き……、


 腕を取られて連れていかれる男の一人が、不自然に他所へと視線をやった事に気付いた。



 プールの外。そこでは野次馬が集まっており、今まさに連れていかれる男二人に対して厳しい視線を送っている。

 その中に居た一人の男がまずいと言いたげに露骨に顔を顰めた。次いで慌てた様子で踵を返すと人込みの中へと消えようとする。その手には携帯電話が……。


「くそ、まだ居たのか……!」


 咄嗟に声を上げ、急いでプールの縁へと向かって上がる。

 野次馬達が何事かと驚いたようにざわつき場所を開け、その中に先程の男の姿が見えた。一瞬こちらを振り返り、俺の姿を見ると露骨に表情を歪め、人とぶつかるのも気にせず逃げようとする。

 そのなりふり構わぬ必死さからか、もしくは想定外に野次馬が増えたからか、男の姿が人込みの中に埋もれかける……。


 だが次の瞬間、


「あっぶねぇ! 逃がすかよ!」


 と、威勢の良い声と同時に、人込みの中からさっと人影が現れて逃げようとする男を捕えた。

 追いかける俺を意識していたためか、不意打ちの事に男が声をあげ、それどころか暴れようともがく。

 それをしがみついて捕まえるのは……木戸だ。


 騒ぎを聞きつけたスタッフが駆け寄ってくる。

 それを見て、捕えられた男が真っ先に声をあげた。


「こいつらどうにかしてくれ! 突然追いかけてきたんだ!」

「嘘つけ、お前が先に逃げたんだろ」

「ちげぇよ! ……そ、それに、なんで俺が逃げるんだよ」

「撮ってたんだろ、それで」


 男が握っている携帯電話を指さす。

 男の顔が一瞬強張ったように見えたが、次の瞬間には威圧的に俺を睨み「わけ分かんねぇ」と不満そうな声をあげた。


「なに言ってんだよお前。そもそも、撮ってたとか意味わかんねぇ。俺が何撮ろうとお前に関係ないだろ!」

「そうだな、普通なら関係ないな。でもここまできて『はいそうですか』で終わらねぇよ。無実だって言うなら見せてみろよ」

「なんでお前に見せなきゃなんねぇんだよ!」

「俺にじゃねぇよ、スタッフにだよ」


 写真の内容が想定していたもの通りなら、俺が見て良いものではない。

 そう考え男の腕を掴むスタッフへと視線をやれば、意図を察し「見せて頂けますか」と男を促した。それを聞くや途端に声色を落として「でも」と狼狽えだすあたり、相手によって態度を変える男のようだ。


「で、でもこれは……プライベートの写真もあるし……」

「最新の写真から数枚遡る程度です。見せて頂けるなら、お客様ご自身で操作して頂いて構いませんので」

「だけど……その、俺は本当に無関係で……」

「無関係なら見せられるはずですよね」


 男の抵抗が必死になればなるほど、スタッフ口調は厳しさを増していく。

 だが事実、無関係ならば写真を見せられるはずだ。

 なにもこの場にいる全員に公開しろと言っているわけでもないし、さっさと携帯電話を弄って数枚見せて、疑惑を晴らして終わりである。ここで埒が明かない押し問答を続けるより手っ取り早い。

 だというのに男はもごもごと言い淀み、なかなか素直に従おうとはしない。


 見兼ねたのか、もしくは黒と判断したのか、スタッフが深く一度溜息を吐いた。


「他のお客様の迷惑にもなりますので、ひとまず事務所に来てもらえますか。お話はそちらでお伺いします」


 行きましょう、とスタッフが男の腕を引っ張る。

 それで自棄になったのか、男が「くそ!」と怒鳴り……、


 次の瞬間、手にしていた携帯電話を大きく振りかぶって投げた。


「あっ……!」


 と、声をあげたのは誰か。

 男の腕を掴んでいたスタッフか、それとも木戸か。もしかしたら周囲で見ていた野次馬かもしれない。あるいは、俺が無意識に声をあげていたか。

 ひゅんと軽やかに投げられた携帯電話を誰もが目で追う。

 その先にあるのは……プールだ。それも運悪く周囲に人はいない。


 落ちる。


 そう思うのとほぼ同時に俺は駆け出していた。


 落ちれば携帯電話は水底に沈んで壊れるだろう。証拠隠滅。

 だけどもし、写真を復元することが出来たら……。


 それは駄目だ。

 だって俺の予想が正しければ、今まさにプールに落ちようと弧を描いている携帯電話の中には……、



 あの子の写真があるんだから。



「頼む、届けっ!」


 出来るだけ腕を伸ばし、迷いなくプールへと突っ込んでいく。

 さながらバレーボールのスライディングレシーブである。だが勢いよく突っ込んでいったおかげで、俺の手に携帯電話が触れた。

 掴む余裕は無い。もちろん掴んで投げるなど不可能。だがここで一緒に水没なんて冗談じゃない。



 手に触れた携帯電話を背後に向けて弾くのとほぼ同時に、俺は大きな水しぶきをたててプールに落ちた。




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