第16話.逃げるな


「──なんだ?」


 気が付けば、辺り一帯が深い霧に覆われていた。月明かりに照らされている訳でも無いのに紫っぽく光るそれは、吸い込むだけでむせかえってしまう程に濃いものだった。

 だがそれは俺だけみたいで、アーサーさんやフレイさんには何ともないみたいだ。

 でもその表情は険しい。特にフレイさんはなにか心当たりがあるようで、まるで信じられない物に出くわしたかのように目を見開き、口をパクパクとさせていた。

 

「これは……魔霞まがすみ!?」

「けほっ……まがすみ……?」

「魔力濃度の高い場所で発生する特殊な霧よ……これが発生するという事は──」


 それ以上の説明は不要だった。

 ドスンっ、という重い振動が足から伝わってくる。

 それは前方から発生しているのだと、俺の直感が警鐘を鳴らしていた。

 低い、低い、まるで地獄から響いて来ているのかと勘違いしてしまう程恐怖を煽る唸り声。前方を注視していると、やがて黒い影がシルエットを描く。


 大きい4足歩行の生物。大型トラックとほぼ同等の大きさのシルエットの中央には、濡れた血が光によって照らされた時の如く赤く輝いている。

 それが眼光であるということを理解するのに、そう時間は掛からなかった。


「何よこいつ……見たこと無いわよこんな魔物……っ……!」

「マズイなこれは……!!」


 フレイさんもアーサーさんも、目の前に佇む化物に恐怖を覚えたのか、発した声は小刻みに震えていた。

 いつもニコニコしているアーサーさんの顔が引き締まっている所を見て、この目の前の化物がアーサーさん達の手に余ることを察する。


「クロマさん……僕達が時間を稼ぎます……! その間、この魔霞まがすみから抜け出して街まで向かって下さい……時間は……それ程稼げないと思いますが、20分くらいは持たせてみせます……だから冒険者ギルドにこの事を報告して下さい!」


 ……理解が追い付かなかった。

 アーサーさんは俺に逃げろと言った。何故か? 俺が戦力にならないからだ。

 なら皆で逃げたらいいじゃないか。

 駄目だ。恐らく俺を庇いながら逃げる事は不可能だとアーサーさん達は判断したんだ。それに、もし逃げ切れたとしても街に被害が及ぶ。アーサーさんはそれを危惧して俺に託したのだ。


「──早くッ!」


 アーサーさんの焦燥感を感じさせる言葉で、俺は走り出した。方角などどうでもいい。さっき自分が通ってきたであろう道を勘を頼りに走る、走る、走る──っ。

 後ろからは激しい戦闘音が響き渡っていた。その余波かは分からないが、度々顔を覆い隠さなければならない程の風圧が伝わってきた。


「はぁ……はぁ……」


 どれくらい走っただろう。深い霧のせいで方向感覚も走った距離すらも分からなくなっていた。

 きっと大丈夫だ。神様が言っていたじゃないか。アーサーさんやフレイさんは強い部類に入るって。負ける筈がない。

 そうだ、大丈夫だ。この世界の人はチート能力を持って生まれるって言ってたじゃないか。何をそんなに不安がる必要がある。


「はぁ……はぁ……くそっ……」


 乱れる心を落ち着かせようと自分に言い聞かせれば聞かせるほど荒れる波が激しくなっていく。不安が広がり、最悪の結末を脳裏に思い浮かべてしまう。


 その時、受付嬢さんが言っていた言葉がフラッシュバックしてきた。


『現在近くの草原にて、魔力濃度が高くなってきている事を確認しています。こんな事は初めてですが……クロマさんも、クエストを受ける際はお気を付けください』


 別に気にしていなかった。魔力濃度が高くなる、それは霧か何かで視界が塞がる程度にしか考えていなかった。

 だが、さっきのフレイさんの言葉を聞くと、これは強力な魔物が出現する予兆と言う事。

 この草原に来たのも俺のレベルアップの為で、さっきの化物を巻き込んだのも俺がこの件を伝えなかった事による結果だ。


 全部俺が悪い。俺が悪いんだ。


 なのにアーサーさんやフレイさんは、勝てる筈もない相手に今も挑んでいる。俺が冒険者ギルドに辿り着く頃にはきっと街に被害が及んでいるとだろう。そんな別にいても居なくても影響が無いような俺が逃げられるように、殆ど初対面の俺の為に、彼は、彼女は今戦っているのだ。


 でも……仕方がないんだ。これが1番の選択なんだ。彼らが望んでいることなんだ。


 ――本当にいいのか。


 良いわけがない。逃げたくない。戦いたい。でも力が無い。


 ──見殺しにするのか。


 したくない。でも俺が行ったところで邪魔にしかならない……っ……! 俺が居ない方がまだ勝てる可能性はある筈だろ……!


 ──怖いか。


 怖くなんてないっ! 地球に居た時みたいに……自分に嘘をついて……逃げる事しかできない自分に腹が立って仕方がないんだよッ!


 ──立て。


 あぁ。


 ──臆するな。


 あぁ!


 ──前を向け。


 あぁ!!


 ──例え最弱であろうとも――


「──『友達』を見殺しにする程、俺は弱くなんかない」


 踵を返す。そこに迷いはなかった。

 戻れる保証はない。見当違いの場所に行く可能性の方が高いだろう。


 それでも俺は、思い切り地面を蹴った。


 ▽

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