Landmark 11



「お婆さん、宿をやってらっしゃるんですか」


「ああ、まあ廃れたボロ屋やけどね。泊るところがないよりはマシと思っておくれ。その日焼けも手当せんばね」


 まだ人が多く集まる中、ヴィセ達は老婆の歩調に合わせて宿へ向かう。右手に見える砂浜は、もう半分程が海にのまれていた。


「俺達がいたところも、もう海になっちゃったかな」


「かもしれないな。教えてもらってよかったよ」


 月に照らされた海が穏やかに光の筋を揺らす。ヴィセ達はやがて路地に入り、小高い場所に建つ2階建ての宿屋にたどり着いた。


「民宿トメラ屋、か」


「昔はこれでも賑わってたんよ。新しい宿屋が出来てもお客は多かった。最近はブロヴニク海浜荘っち宿に客を取られとるけどね」


「あ、町に着いた時に呼び込みに来たおじさんのとこ! 俺あのおじさんきらーい! あのおじさんラヴァニの事好きじゃないんだもん」


「あんたら、会ったんね。まあ呼び込むのは商売の作戦やけん、それが悪いとは言わん。どこに泊まるか決まっとらん人はみんなそっちに流れてしまう。あたしらはそこまで人手を割けん」


 老婆は肩を落とし、宿の案内を始める。この世界では珍しく、玄関で靴を脱ぐようだ。


「このスリッパに履き替えて、靴はそこの下駄箱にしまって。部屋に案内するけん、そこの勘定台で名前と出身の町ば書いて」


「靴を脱ぐんですか?」


「その方が足も疲れんやろ。床も汚れんし」


 老婆は腰を叩きつつ、飴色の使い込まれた木のカウンターの下から宿泊者名簿を取り出す。ヴィセ、バロンの順に記帳を済ませると、老婆は改めて深々とお辞儀をした。


「ヴィセ・ウインド様、お連れ様、ようこそ、おいで下さいました。女将のミナと申します。当旅館ではお寛ぎいただけるよう、精いっぱいおもてなしいたします。お部屋に案内しますので、どうぞこちらへ」


「あ、はい」


 ミナがカウンターの呼び鈴を短くならし、従業員の男女が1人ずつ現れた。


「はーい……あ、いらっしゃいませ! ようこそ!」


 若い男女の格好はあまり他所で見かけないものだった。この地方では作務衣と呼ばれるもので、上着は前襟を重ね腰辺りを紐で括る。男は黒、女は朱色の作務衣で、下はゆったりとしたひざ下までのキュロットになっており、動きやすい。


「女将、後は私が」


「海の間に。小さなドラゴンを連れておられるから、粗相のないように。人は襲わんから」


「うおっ!? 女将、いいんですか? ドラゴン連れって大騒ぎになってたあの」


「ええの。さっき町の中でも一通り説明してもらって、まあ大体の人は理解したはず。闇討ちはなかろう、キッヒッヒ」


 ミナが豪快に笑い、従業員の女が苦笑いする。やや少し距離を取りながらも、2階へと案内してくれた。靴で歩かないせいか、木目の廊下はひんやりとしながらもどこか柔らかな感触で、疲れた足に心地良い。


 通りに面した部屋も床が板張りで、部屋の入り口でスリッパを脱いで室内に上がる様式になっていた。


「給仕のイサヨです。夕食の準備をしますので、1時間程経ちましたら食事をお持ちいたします」


「あの、イサヨさん。それなら先にお風呂に入りたいんですが」


「ああ、それでしたら1階に降りて、勘定台横の通路を付きあたりです。お手洗いはこの部屋を出て左の付きあたりへ」


「有難うございます」


 イサヨが部屋の入り口で正座をし、頭を下げてから引き戸を閉める。ヴィセ達は髪も肌も、とにかく綺麗にしてから食事や睡眠を取りたかった。夕方前に魚を焼いて食べたが、晩御飯があるなら有難い。


「ヴィセ見て! 夜の海が見える!」


「月明かりがこっちに真っ直ぐ伸びてるな、とても綺麗だ。まあ景色は変わらないし、先に大浴場に行こう。ラヴァニも来るか? 海から吹く風でベタベタしてるだろ」


 ≪湯には浸からぬ≫


「いいよ、俺が拭いてやる」


「ラヴァニは泡嫌いだもんね」


 着替えを持ち、スリッパを履いて1階の大浴場へと向かう。他の客とすれ違う事はなく、カウンター横の土産物コーナーにも人の姿はなかった。


「部屋いっぱいあったけど、誰もいないね」


「ああ。他の宿に泊まってるんだろうな。俺はこんな宿の方が落ち着くけど」


 トメラ屋に来る途中、コンクリート4階建てのホテルなども見かけた。ブロヴニク海浜荘は海沿いにありながら中心部にも近かった。このトメラ屋は景色がいいものの、辿り着くまでの宿で大抵の新規客が間に合ってしまう。


 今ではリピーターや口コミ頼みの寂れた宿屋になってしまった。


「大浴場に向かわれるのですか」


「あ、はい」


 1階へと下りたところで、ミナが声を掛けて来た。手には白い液体が入った瓶を持っている。


「その日焼けで熱いお湯には浸かりなさんな。水でようと冷やしなさい。その後でこの薬ば塗って」


「あ、有難うございます……」


 ゆっくり湯に浸かれないのは残念だが、後で痛い思いをしたくはない。ヴィセとバロンは大浴場に向かい、日焼けした肩や首を押さえつつ洗い場に向かった。


 脱衣場にも他の宿泊客の姿はなく、それらしい荷物もない。まるで貸し切りだ。ガラス張りの窓からは夜の海が一望できる。


「ひゃっ! 冷たい!」


「我慢しろ、日焼けした時は熱いお湯駄目なんだってさ。熱を持つと痛みが増して治りも遅いんだって」


「俺、今度海で遊ぶときは長袖着る! 帽子もかぶる!」


「そうだなあ、1時間くらいならいいけど、6時間もいちゃ駄目だったな」


 幸いにもドラゴン化のおかげで肌へのダメージも治りが早い。数日もすればすっかり治っている事だろう。


 ≪我にも水を掛けてくれぬか。そこの桶に水と少しだけ湯を足して欲しい≫


「その中に浸かるんだな、わかった」


 ヴィセは自身の肩や顔に冷水を掛けつつ、ラヴァニ用の風呂を用意する。一番小さいサイズになれば、桶の大きさがちょうどいいのだ。


「ヴィセ、ここも外にお風呂がある!」


「ほんとだ……おおお!」


 ヴィセはラヴァニの入った桶を抱え、外風呂に通じる扉を開けた。


 ≪ナンイエートでも外風呂があったが、この景色には勝らぬ。月夜の明かりが見事だ。我らはよく月を目指して飛んだものだ≫


 ラヴァニが昔を懐かしんで、少しだけその記憶を覗かせてくれる。月明かりで紺色に染まる空めがけ、数匹のドラゴンが飛んで行く。


「あれ、月の中に何か点みたいなものが」


 ≪ドラゴニアだ≫


 月の中にドラゴニアが浮かび上がる。場面が切り替わり、ふいに月を背景にしたドラゴニアが目前に迫った。船の底のような剥き出しの土の上には、草の生い茂る草原と小高い山がある。


 全力で駆けても端まで行けない程広い島内では、小さな動物達が草に隠れて虫を追い、小川の中に魚が泳いでいた。縁から下を覗かなければ、そこが空の上だとは思えない光景だ。


 ≪我は、やはりドラゴニアの景色が忘れられぬ。記憶ではなく、実際のドラゴニアをヴィセとバロンにも見せてやりたい≫


「ああ、この町の後はいよいよ霧の海だ。どうなっているか分かんねえけど、まだドラゴニアは浮かんでいるんだろ? 見れるさ」


「月を目印にして飛んで行くの?」


 ≪月は少しずつ位置を変える。月へ向かっても辿りつけぬのだよ。大丈夫だ、仲間から目印を教えられ、方角も分かった≫


「これまでの旅だって気付かなかっただけで、ドラゴニアに向かうための道標だったのかも」


 一目見たい景色、見せたい景色、その目的地は定まっている。


 湯には浸かれないものの、ヴィセ達は岩風呂の縁に腰かけ、しばらく夜の海と月夜に漂う星たちを眺めていた。

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