a quiet room

黒畜

LIFE LOVE

0.02mmの過去(3400文字)

 吐息が白い。

 記録的な寒波が来ているらしい。

 その影響で今夜、この街にも雪が降るらしい。

 私は駅を出ると、電話をかける。

「もう、ちょっとしたら行くから」

 用件だけ、言ってさっさと切る。何と言われようが私の中では決定事項なのだ。変更はない。

 私はスマホの電源を切って、バッグに放りこみ駅前のスーパーに向かって歩く。

 今夜は鍋にするのだ。これも決定事項だ。変更の余地などない。


 食材を入れたビニール袋を手に持ち、私はかって通い慣れた道を歩く。およそ、半年振りぐらいになるのだろうか。地域発展の為の区画整理事業の余波は駅から離れた場所にも及んでいるようで、立ち並んでいた店はあちこち閉店していた。

 子供達が騒がしく遊んでいた公園も、平地になって遊具の陰すら無くなっていた。

 記憶の中にある風景との剥離に気持ちが、少し波立つ。けれど、仕方ない事だ。

 変わらないものなんて無い。

 形あるものだって変わるのだから、人の気持ちなんて簡単に、きっと変わってしまのだろう。



 そのアパートは変わらずに、そこに存在していた。

 私はホッと安堵する。

 錆び付いた鉄骨階段が、きしむ。夜の静けさにあって、その音は響いて聞こえた。記憶にあるより、音は幾分か騒々しさを増してるような気がした。


 二階の突き当たり、二〇四号室。

 半年前まで私が、私達が住んでいた部屋。

 私は部屋の前に立ち、大きく息を吐いた。

 心の中で、「ただいま」と、呟き扉をノックした。



 ややあって扉が開く。

 そこから、私を出迎えたのは、困惑した顔と呆れた声。


「ほんとに来やがった」


「久しぶり」


 そう言って、私は手にしたビニール袋を上に掲げた。



 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



「寒波が来るんだって」


 小さなローテーブルに向いあって、彼と私は座る。

 ローテーブルの上にはカセットコンロの火がぐつぐつと鍋を煮立てていた。


「マヂかよ。どおりで寒いと思ったよ」

「ニュースとかで散々、言ってたじゃん。テレビとか見てないの」

「夜勤明けで夕方まで寝てたわ」

「そうなんだ。あ、ごめん。もしかしたら起こした?」

「いや。片付けしてたところだったから問題ないよ」


 そう言われて、私は部屋をぐるりと見回す。

 彼はこまめに掃除をする人ではなかった。本も服も床に放置のままの人だった。少なくとも私が小言を言わないと片付けない人だった。

 最初は何も思わなかったが、荷物が少なくなってる事に気付いた。部屋の片隅にあった本棚と大量の漫画本もなかった。

 私が在るべきはずの本棚の場所に視線をやってたのに気付いたのか、彼が言った。


「ああ。本棚は処分したよ。漫画も売った」

「もしかして引っ越すの?」

「そのつもり。場所はまだこれからだけど」

「そうなんだね」


 私はもう一度、ぐるりと部屋を見回す。

 四年、二人で過ごした暮らしの痕跡は半年ばかりの時間で、かなり消えていた。私だけでなく彼も前に進んでいる証明だろう。


 それから、私達は雑談混じりにタラ鍋に舌鼓する。

 お供は勿論、ビールだ。



「えっと、そっちは順調なの?」

 彼がやや聞きにくそうに話題に上げるのは、私の近況だ。避けれない話しである以上、私は努めて重くならないように軽い感じで応える。

「そうだねー。もうやるべき事は終わったから後は当日を迎えるだけだね」

「そうなんだ」

「うん」

 暫しの沈黙。


「なあ」

「うん?」

「こんな所に来てないで、相手さん所に居た方がいいんじゃないの?」

「あっちもねー、独身で居られるのも後、少しだからって友達と飲みに行ってるんだよね」

「えっと…大丈夫なの? それ」

「まあ、大丈夫なんじゃない。何、心配してくれてるの?」

 揶揄うように返した私に、彼は苦笑で返す。

「まあ、俺が原因で式がおじゃんになるのは勘弁してくれ」

 缶ビールを手元で揺らす。

「じゃないと、別れた意味がないだろ」

 彼は立ち上がり、冷蔵庫から二本、ビールを持って来る。私は礼を言って、プルタブを引く。


「ごめんね」

「何が」

「色々と」

「散々、謝られたし…その話しは半年前に終わっただろ。今更だよ」

「それでもだよ」


 私は立ち上がり、すでに食べ尽くした鍋を持ってキッチンに向かう。背中に「ありがとう 」と声がかかった。




 夜の帷が下りるに従って気温が下がってゆく。

 小さなファンヒーターでは二間続きの部屋を温めるには少々、パワー不足は否めない。

 窓がガタゴトと悲鳴をあげている。雪は降っているのだろうか。ローテーブルに缶ビールが積み上がってゆく。


「タクシーでも呼ぶか」

「いらない」

「駅までなら送るぞ。歩きになるけど」

「ねえ」

「なんだよ」

「帰っていいの?」


 私と彼の視線が真っ直ぐに、ぶつかる。


「ほんとうに帰っていいの?」



 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


 半年振りにする彼とのキスは荒々しく、喪失した時間を埋めるように互いを貪った。

 着ていたセーターとスカートは自分で脱いだ。

 下着だけは彼が脱がした。

 四年という時間は身体を積み重ねた経験でもある。私は彼の手と口で、あっという間にイカされた。彼は私の弱い所を知り尽くしている。

 子宮が疼く。早く。早く、と。

 子宮が覚えている。早く、早く、と急かす。

 彼はベッドサイドに手を伸ばし、箱を取り出した。


「ゴム?」

「そう」

「そんなの付けた事なかったじゃん」

「昔は必要なかったし」

 そう。彼とのセックスはいつも生だった。腟内射精なかだしは安全日だけだったけど、それ以外は私のお腹の上で射精していた。

「今は万が一って事あるだろ」

「そうだけど」

 彼がゴムを装着する所を見るのは、何だか不思議な気持ちだった。


 私達は何度も求めあった。唾液にまみれた身体はその度に痙攣し絶頂に達した。シーツは汗と体液で汚れていく。私は口内で射精されたものを嚥下した。



 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


 まだ暗い室内にあって、彼の腕で微睡んでいた私は目を覚ます。彼は疲れたのか、よく寝ていた。

 ゴムを幾つ使ったんだろう? 思いだそうとしてみるが、何の意味もないと気付いて止めた。

 彼とのセックスは少しだけ覚えてるものと違った。あの人に上書きされた所為だろうか。違う。彼が初めて着けたゴムだろう。過去をなぞるような情欲はたった0.02mmの壁に阻まれた。その壁は過去の二人が足掻いて、越えれなかったもの。

 ベッドサイドのデジタル時計を見る。

 五時を少し過ぎた頃。

 私は彼を起こさないようにベッドから抜けでると、先程までの温もりが一瞬で奪われる。

 寒さと薄暗い室内の中、散らばった衣類を探すのは少し大変だった。

 私は身支度を整え、洗面所で口をゆすぐ。

 ビールの空き缶をビニール袋に入れ、玄関の片隅みに置く。私はブーツを履き、ドアノブに手をかけた所で振り返った。

 そこからは部屋の間取りが一望できる。今は閉じた寝室。それから、リビング兼食卓。

 半年前に交わした会話。泣きながら出て行った私。追いかけて来なかった彼。その光景が蘇る。



 四年の歳月は二人を疲弊させ、決別を選んだのは私だった。他者が聞けば、悪いのはいつまでも形にしない彼が悪いと言った。過去の私も、そう思った。

 でも、今はどうだろう? 責めるように決断を縋った私に非はなかっただろうか?

 もっと尽くせば良かった? 強引に押し切る道もあったのではないか?

 地元に帰った私は親の勧めで、縁談を受けた。三つ年上の相手は真面目そうな人だった。

 特に問題もなく、すんなり結婚にまで話しは進んだ。四年かけて出せなかった彼との答えが、半年で出たのだ。成程。これが、縁というものか、と腑に落ちた。

 その時に彼に電話をかけた。残してきた荷物の処分と配送の為に。結婚が決まった話しもした。

 彼は「そうか」とだけ言った。



 どちらにせよ、私達は終わったのだ。ifはない。

 ただ、私には必要だった。彼と四年の歳月とのちゃんとした別離が。この部屋に残してきた未練と気持ちの為に。

 不意に涙が零れそうになった。

 顔を上げ、目を閉じる。

 意地でも泣くものか。

 私は今度こそ、ドアノブに手をかけ部屋を後にした。


 夜はとっくに終わっていて、朝靄が街並みを白く変えていた。

 吹きすさぶ北風に粉雪が混じっている。

 私はコートの襟を固く併せ、通い慣れた道を、二度と通る事の無い道を足早に歩いた。




 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈


 寝室に残された、情欲の残滓が開けた窓から追い出されていく。振り返らずに去っていく彼女。

 ただ、ただ前に。前に。と、歩いていく彼女に迷いは見えなかった。


 その後ろ姿に、ついぞ言えなかった言葉を呟く。


 おめでとう。

 幸せになって。


 北風が連れてきた粉雪が顔にかかった。

 

 彼女の姿が朝靄に霞み、見えなくなってから、ゆっくりと窓を閉めた。

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