第89話 我が逃走

 誰だろう、まず最初にそう思う。この部屋の主でない事は明らかだ。サクラエ教官はこの部屋へはノックせずに入ってくる。


「はい。サクラエ教官は不在ですが、どちら様でしょうか」


 すこし鼻声になってしまっただろうか。そう思って、そして慌てて清拭魔法を顔にかける。今の顔を見せる訳にはいかない。


「私ですわ。アンフィーサ様」


 声で誰かすぐにわかった。でも何故、マリアンネ様が此処に。教官がいないのを知っている筈なのに。

 更に私の魔力感知がもう1人の反応を扉の向こうに捉えている。誰かはすぐわかった。でも、何故。よりにもよって、何故……


 もう一度清拭魔法で顔をきれいにして、それから声をかける。


「どうぞ」


 扉が開く。


「失礼致しますわ」


 入ってきたのは2人。マリアンネ様と、リリアだ。


 マリアンネ様は扉を閉め、ゆっくり私のところまで歩いてきて、そして口を開く。


「アンフィーサ様、逃走準備は順調でしょうか?」


 おい待て! 何で逃走するって知っているんだ。しかもそれをリリアを連れてきて言うか!


 でも混乱と同時に何故かやっぱりという気もした。この2人、マリアンネ様とリリアにはわかってしまいそうな気がしていた。アンフィーサと実はよく似ているマリアンネ様と、私と一番仲が良いリリアには。


 あえてそう意識しなかった。いや、意識しようとしなかっただけだ。だから私は正直に全てを認める。


「順調ではありませんわ。持って行きたいものが多すぎて。ですがもう潮時なのでしょうね。ですから準備が終わらなくとも今日の夕までには出るつもりです」


「やはりそうなのですね」


「それでリリアとマリアンネ様は、どうしてご一緒に」


 この2人に気づかれても仕方ないとは思う。でもこの2人が一緒にやってくる事態は想像していなかった。


「お姉様が行ってしまいそうなのはなんとなくわかったんです。でも誰にも相談できなくて。それでももし相談するならと思って、マリアンネ様にお願い致しました」


「私は一人でも此処へ来るつもりでしたしちょうど良かったのですわ。それにアンフィーサ様もリリア様に言いたい事がおありでしょうから」


 完全にマリアンネ様に私の状況を読まれている。そう思ってふと思い出す。この2人こそがメインで私をあの戦場へ迎えに来てくれたのだという事を。


 戦力的に1人で行けないと絶望しているリリアにマリアンネ様が声をかけ、そしてリリアがいつものパーティを集めてくれたのだった。私を助け出す為に。私が動けなくなっていたあの戦場に。

 その辺の状況は途中で聞いて知っている。ここでもう一度お礼を言っておこう。


「昨日はあんな戦場まで助けに来て頂き、本当にありがとうございました。マリアンネ様とリリアがいなかったら、今頃はまだ戦場か、下手すればやられていたかもしれないですわ。今は頭を下げることしか出来ませんが、この件は必ず……」


「いえ、私こそお姉様に色々教えて頂きましたわ。ですのでお礼などいりません。ただ……」


 リリアの目から涙が零れてくる。


「私はお姉様と一緒に行く事が出来ません。私はやはりイ・ワミ王国の、マノハラ伯爵家の人間なんです。それでも本当はお姉様と一緒にいたい、それでも……」


 そんなリリアを私は抱きしめる。


「リリアと別れるのは私も辛いですわ。でもこれで会えなくなる訳ではありません。それにこの大陸のどこからでも私は此処へ戻ってくる事が出来ます。昨日使ったあの魔法で。ですからまた折りをみてはリリアに会いに来ますわ。リリアの事が大好きなのは変わりませんから」


 ああ、やっとリリアに言えた。そう思って気づいた。私は女の子が好きなだけじゃなくて、リリアが好きだったんだと。

 ナージャともプレイしたしリュネットやナタリアもいただきたいと思った。でもそれでもそれ以上にリリアが好きだったんだと。


 どれくらいリリアを抱きしめていただろうか。誰かさんの視線を感じてそして私は気づく。そう言えばこの部屋にはマリアンネ様もいたんだった。


「さて、それでは準備をお手伝い致しましょう。見たところ論文を書写していたようですわね。3人でやればかなり早く出来ると思いますけれど、いかがでしょうか?」


 おっとマリアンネ様、それは大変に助かる。ただでさえ間に合わなくて困っていたのだ。それに今の微妙になりかけた空気を誤魔化すにもちょうどいい。


「お願いしますわ」

「では私とリリアに指示お願い致しますわ」

 書写作業を再開する。


 ◇◇◇


 午後3の鐘が鳴った。

 書写作業もちょうどキリがいい感じだ。時間的にもそろそろ頃合いだろう。名残惜しいが仕方ない。


「それではそろそろこれらもまとめて出発しようと思いますわ。本日は本当にありがとうございました」


 2人に頭を下げる。


 リリアとマリアンネ様がなにやら目配せした。嫌な予感。これは絶対何かあるな。

 マリアンネ様が口を開く。


「さて。実は私もこの件で、この国にお借りした借りを幾分かお返しできたと思います。ですからこれからは自由にやらせていただくつもりですわ」


 なるほど、その気持ちは大変よくわかる。だから私は頷く。


「しかも実家がこのたびの件で官位官職を全て外される模様です。ですので実家にとっても私は必要なくなりますわ。私は実家にとっては政略結婚用の道具でしたが、そんな事も考えていられない状況になるかと思いますの。それに今回の功労者であるという事で私を頼ってこられても困りますので」


 確かにもっともだ。そう思ってふと気づく。まさか、この台詞の意図するところとは……


「さて、アンフィーサ様、いえ、これからは皆様と同じようにアンと呼びましょうか。アンは魔法使いとして非常に優秀です。攻撃魔法から治癒回復に至るまで、ほぼ全ての種類の魔法をそつなく使う事が出来ます。更に魔性アルコーンを倒したように、攻撃魔法が本来効かない敵に対する魔法も使えます。魔力も普通の冒険者の数倍でしょう。そういう意味では間違いなく優秀です。


 ただひとつの欠点はその魔法に対するそつの無さ。言い方を変えれば飛び抜けたものが無い点でしょうか。リュネットのような聖魔法特化の能力や、リリアや殿下、私のような攻撃に特化した魔法を持たない点。違いますでしょうか」


 私は頷く。


「確かにその通りですわ。今回もそれで攻めあぐねて、皆さんにお助けして頂いた次第です」


「ですからアンフィーサ様にとって一番苦手なのは強い敵ではなく、圧倒的多数の雑魚敵。違いますでしょうか」


 確かにまったくその通りだ。私は頷く。


「さて、私はアンフィーサ様、いえアンに対してほとんど勝っているところはありません。魔力はほぼ半分程度ですし、使用可能な魔法もアンより少ない。でもその代わり、一対多に対応出来る攻撃魔法を血族遺伝で多数持っています。地属性のものばかりですけれど、大抵の雑魚敵にはそれなりの力を発揮すると思いますわ」


 これも確かにその通りだ。

 でも待ってくれ。そうなるとこの話の結論は……


「更に言うとまもなく実家が没落します。私は実家に頼られる事になる可能性が高いでしょう。ですが今までの事を考えると正直それは嬉しいとは思いません。その辺のお気持ちはアンにもわかって頂けますよね」


 ああ、間違いない。つまりこれは……


「そういう訳で、私もアンの脱出行に一緒に付き合わせていただきたく思います。これでも邪魔にはならないと思いますわ。2人パーティで迷宮ダンジョンを攻略した経験もありますし。装備も一通り揃えてあります。アンも単独でいるよりパーティを組んだ方が何かと便利でしょう。違いますでしょうか」


 ああ、やっぱりこう来てしまったか。でも確かにその通りだ。


 冒険者ギルドはよほどの冒険者でない限り、単独行を勧めない。だから依頼を受ければほぼ間違いなく他の冒険者とセットにされる。それが2人でもパーティを組んでいれば話も変わる。


 更に言うと先程マリアンネ様が言っていた私の欠点も事実だ。私はほぼすべての属性の魔法を使える代わり、飛び抜けた魔法を持たない。手順込み魔法で作り出したものとサクラエ教官に教わった遠隔移動魔法ワープ以外は平凡な魔法ばかりだ。そういう意味では多数相手の攻撃特化魔法を持つマリアンネ様がいれば確かに心強い。


 理論的にマリアンネ様の台詞は間違っていない。

 私は追い詰められた。


「ついでに言うと、私は特に何処か行きたいというのはありませんわ。ただ気ままに世界のあちこちを見て回りたいだけですの。ここ十数年、王都カーワモトと実家のあるインバラ侯爵領以外には行った事がありません。ですからこれからは違う世界をみてみたいですわ」


 その気持ちは大変良くわかる。お前は私か……

 だから認めよう。私の負けだ。


「わかりましたわ、マリアンネ様。これから宜しくお願いします」

「以降はマリでいいですわ。アニーもそう呼んでおりますので」

 そう言って頭を下げたマリアンネ様、いやマリは更に続ける。


「あと私事で申し訳ないのですが、旅に出た後も出来れば週に一度、忙しい時でも週に一度はカーワモト近郊へ戻って宜しいでしょうか。アニーに近況報告等をしたいのですわ」


 理解した。十分理解した。つまり私もその時リリアに会いに行けという訳だな。


「わかりましたわ。週に一度は戻って参りましょう」


 もうよくわかった。マリとリリア、どうやら綿密に作戦を練っていたようだ。私の完敗だ。もう仕方ない。でも悪い気はしない。むしろこれで良かった気がする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る